第2話

 俺より二歳年下で、今年二十六歳になる弟のとおるは、働くことなくずっと家にいる。現在働いていないだけでなく、アルバイトすらした経験がない。俺は透のことを引きこもりだと思っているが、親はかたくなに認めようとはしない。


「透は部屋に引きこもっているわけじゃない。高校時代の友達とは時々遊びに行っているし、家事だって手伝ってくれている」と主張してくる。


 外出することがあっても、学校に行っておらず、働いてもいない状態のことを『準ひきこもり』というらしい。広義での引きこもり扱いだ。そのことを親に言っても、聞く耳を持とうとしない。


 親父もお袋も、透はいつか働く気になるはずだと信じている。なぜそんなに楽観視することができるのか、俺にはまったく理解できない。二人とも現実を直視せず、逃げているだけなのではないかと思えてならない。


 幼い頃から他者とのコミュニケーションが苦手な透は、小学校二年生のときから教室に行けなくなった。教室に行かない代わりに、教室からは遠く離れた場所にある『相談室』に、休みながらも通っていた。


 教室に行けなくなった理由は、『苦手なクラスメートがいるから』。別に相手からいじめられていたわけではない。


 田舎の学校で一学年三十人程度しかいなかったが、俺にだって苦手な奴くらいいた。消えてしまえばいいのに、と思った奴は一人や二人ではないし、体調の悪いふりをして休んでやろうかと思った日だってある。でも俺は結局、学校に行った。


「たかが苦手な奴がいるくらいで、透に相談室登校を許さないでよ。そんな甘ったれたこと言うんじゃないって、透を怒って」と当時小四だった俺は親に主張したが、親は透を叱ることなく、俺を叱った。


 親はもともと、俺よりも透の肩を持つことが多かったが、透が相談室登校をするようになってからさらに、透に対して甘くなっていった。当時、透はいつもお袋に引っついていた。俺はそれが面白くなくて、透によくちょっかいを出しては、毎回お袋に怒られた。


 俺はテストで高得点をとらないと親に褒めてもらえないのに、透は相談室に行くだけで褒めてもらえる。俺が仮病で学校を休みたいと言ったら親は怒るのに、透はいくら学校を休んでも怒られない。なんて不平等なんだろうとずっと思っていた。


 透は中学に入っても、同じく相談室に登校した。中学校卒業後は、今まで不登校だった生徒が大半を占めるような、定時制の高校に通うことになった。自分と似たような境遇の生徒が多かったためか、高校はほとんど欠席することなく通えたようだ。


 しかし短大に入学して一年もすると、また行けなくなった。今度は相談室なんてものはないから、ただの不登校だ。不登校の理由は『苦手なクラスメートがいるから』。ふざけるなよ、と思った。


 透が短大を休学したのは、いま務めている広告代理店から内定をもらった時期だった。親に就職先が決まったと連絡したとき、「そういえば透は短大を休学したよ」と聞かされ、内定をもらった喜びがいっきに吹き飛んだのを覚えている。


 このまま短大を退学なんてことになったら、透の学歴は高卒になる。ただでさえ人とコミュニケーションをとるのが苦手なのに、高卒の学歴では雇用してもらう際のハードルが高くなるに違いない。


 大抵の場合親は子どもより早くに死ぬから、親が死んだあと、金銭的に透の面倒を見なきゃならないのは俺だ。たいして仲良くもない弟の面倒を見るなんて、勘弁してほしかった。


 透と一回ちゃんと話をしたほうがいいと思った俺は、透を東京に呼んだ。家で話すとお袋が透を守りにくるだろうから、家の外で透と話したかったからだ。透が好きだという声優のトークショーを餌に東京に呼んだら、奴は意外とすんなり来た。透の東京観光に親父が大賛成し、かかる費用を全部出すと言ってくれたのが効いたようだ。親父は、透を少しでも家の外に出させたかったらしい。


 二泊三日の予定で、透は遊びに来ることになった。夜は俺のアパートに泊まる。


 透と二人の時間を、どんな話をしてやり過ごそうか悩んだが、杞憂きゆうに終わった。意外なことに、あいつがずっと一人で話していたのだ。あいつの話す姿だけが記憶に残り、話の内容についてはよく覚えていない。


 最終日の夜、俺は透に「短大だけは辞めるな。高卒だと就職するのだって難しくなるぞ」と自分の考えを伝えた。


 ずっと喋り通しだった透が、自分の将来の話を始めた途端、無口になった。質問を投げかけても答えないどころか、相槌あいづちすら打たない。心のシャッターを閉めた瞬間が、目に見えてわかるくらいの変わりようだった。そのときの透の瞳は、真っ暗に曇って見えた。


 嫌なことに蓋をして、現実を見ようとしていない透の姿勢に、俺はむしょうに腹が立った。俺は三十分くらい自分の価値観を延々と語ると、「わかったな」と透に念押しして一方的にこの話をやめた。


 透は話が終わったとわかると、ぽつりぽつりと他愛もない話をするようにはなったが、翌日になっても前の饒舌じょうぜつな透には戻らないままだった。


 しゅんとした顔で新幹線に乗り込んでいく透を見ていると、なぜか俺の胸は痛んだ。「こんなことになるくらいなら、なにも言わないほうがよかったんじゃないか」という思いが浮かんでは、「いや、俺はこの話をするためにわざわざ透を東京まで呼んだんだ。俺の行為は間違っていない」とすぐに打ち消した。


 結局、透はその一年後に短大を辞めることになる。俺はその話を聞いたとき、「辞めさせていいのかよ」とお袋に言ったが、「透のことには口を出さないでくれ」と怒られた。


 俺だってこれ以上、自分から透になにかを言うつもりはなかった。俺が口を出したところで、透はなにも変わらない。あいつが自ら変わりたいと願わないかぎり、意味がないのだ。とはいえ、待つだけで事態が好転するとは思えなかった。


 ただ時間だけが過ぎていく。透がどこかの学校に再入学したり、働きに出たりする動きは一切ない。


 弟が引きこもりであることは、俺の最大の悩みとなった。透と遠く離れていることだけが、俺の救いだった。実家にさえ行かなければ、引きこもりの弟を見なくてすむ。なにかに没頭していれば、奴の存在を忘れることができる。


 しかし定期的に、特に何のきっかけもなく、自分の弟が引きこもりであることを思い出しては、未来への不安に震えた。


 不安になったときは、『弟 引きこもり』などのキーワードでインターネット検索をした。少しでも気を和らげたいと思い、多くの情報を持つインターネットにすがるものの、そこに希望はない。


 兄弟が引きこもりであることを理由に、婚約が破談になったという体験談をいくつか読んだ。嫌がる先方の気持ちは痛いほどわかる。俺だって選べるのであれば、透の兄になんてなりたくない。この体験談の書き手のように、俺も結婚できないのだろうかと思うと、気が重くなった。


 断られるだろうな、という半ば絶望的な気持ちで、真奈美への婚約指輪を選んだ。しかし意外なことに、真奈美は快く俺のプロポーズを受け入れてくれたのだった。


 弟が引きこもりだということは付き合い始めの頃にすでに話してはいたが、そんな俺と本当に結婚していいのかと再度確認する俺に、真奈美は笑った。


「家と結婚するっていう時代ではもうないでしょ。私は達哉とこの先も一緒にいたいと思ったから、オッケーしたの」


 思わず泣きそうになった。我慢したけど。


 真奈美を幼い頃から女手一つで育ててきたという彼女の母親も、俺たちの結婚をあっさりと受け入れてくれた。


「もしなにかあったとしても、苦労するのは私じゃなくて真奈美だから。本人がいいって言ってるんだから、私はなにも口を出さないよ」と笑っていた。


「お母さんは私が婚期を逃すのが、なによりも恐いみたいなの」と隣で真奈美は口を尖らせていたが、俺は泣かないように我慢するので精一杯で、真奈美の言葉に反応することはできなかった。


 透のことで真奈美やお義母さんを悩ませることがあってはならないと、このとき俺は固く決意した。


 引きこもりの男が起こした通り魔事件。テレビでも新聞でも毎日のように取り上げられているが、真奈美は俺になにも言ってこない。


 真奈美は俺との結婚を、今になって不安に感じていないだろうか。気にはなったが、この事件と絡めて透のことを話題にすることは、どうしてもできなかった。

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