第3話


 アクシャイがその業を目の当たりにしたのは、主クリシュナの生誕の地ヴリンダーヴァンの寂れた寺院の裏手にうっそうと広がる叢林の奥のことだった。これより誰も近づけてはならぬ、と告げて師は腰布をまくり上げて、アショカの古木の根本にしゃがみ込んだ。


 いくら師とはいえ、その排便のさまをじっくりと観察したいとは思わないし、それはむしろ礼を失する行いだろう。アクシャイは眼を逸らして、中空の枝から吹いたブーゲンビリヤの赤い蕾を眺めた。


「よく見るのだ。知恵ある者は、世にも美しい宝石も糞便と等しく価値のないものと見なすのだ。よいか。地上の価値にとらわれてはならぬ」


 ありがたいお言葉をまくしたてながら、むせ返るような湿気と暑さの中、偉大なる師は偉大なる大便を外界へひり出したのであった。リグ・ヴェーダにある世界の始まりたる黄金の胎児ヒラニヤガルバとはこのような姿であったのではないかと思わせるブツである。ほかほかと湯気を上げる代物を、すっくと立ち上がった老人は満足げに見下ろした。


「ご機嫌なクソだ、まったく」

「見事でございました」とアクシャイは乾いた声を絞り出す。


 よろしきクソだ、と繰り返して、師は続けた。


「さて、と誰がケツを拭くのだ。歳を取ると強張ってケツまで手が届かなくなる」


 さすがのアクシャイも逃げ出したくなった。

 師の御足をマッサージし、爪を切ってやり、食べこぼしを拾ってやり――つまり散々師の世話としてきた身とはいえ、汚れた肛門を拭ったことはまだなかったのだ。


「師よ」


「なんだ?」神聖なる師は尻を向けて応じた。


「どうしても仰るのならばやりますが」

「おまえの手はなぜ胴体から生えてきたのか。師のケツを拭くためである」


 でなければ、手の代わりにテーブルの足でも鹿の角でも構わなかったではないか、と師は慈愛に満ちた教えを垂れる。


「どうしても、ですか。それならば何か紙か大きな葉を探して――」

「もうおまえの手はおまえの心がどうあろうと、この聖なるケツに目がけて飛び掛かってくるぞ! 渇いた人が水に殺到するように。なにしろケツ用の手だからな!」


 あろうことかアクシャイの右手は師の尻に吸い込まれれていた。彼自身であってさえ意識できぬ原初の衝動がそうさせたのだった。巨大な魚に食いつかれたような恐ろしさを覚えながらも、とうとう観念したアクシャイはゆっくりと素手を師の尻の割れ目で動かしていく。


「もう一度言うぞ、クソは黄金と同じだ。わかったか!」


「はい」なぜ人に尻を拭かせながら、こんなに居丈高になれるのか、あらためてアクシャイは師の尋常ならぬ悟りの境地に思い致した。ようやく手を引っこ抜いたアクシャイに師はまたもや奇妙な命令を下した。


「疑っているな。いいぞ、それならこっちも徹底抗戦だ。おまえ指輪を外してみろ!」


 アクシャイの右手の中指には鉄の指輪があった。占星術師に勧められた、土星の悪影響を緩和するというアイテムだった。目も当てられぬ有様になった自分の右手から指輪を引っこ抜く。師の排泄物が滑りをよくしてくれたおかげで、指輪はあっさりと指から抜けて、惨めに茶色くなった姿を晒した。


「さあ、磨け、うんと磨くんだ」


 軍隊に号令をかけるように厳粛に師は言い放った。もちろん従うほかに途はない。森の奥深く排泄物で指輪を磨く。せっかく聖地にいるというのに、自分はなんという滑稽な振る舞いに及んでいるのだろう、とアクシャイはふと正気に戻りかけた。しかし、求められているのは狂気である。歯磨き粉よりも固く、チャパティの生地よりも柔らかい不思議な粘り気にしかしアクシャイは感じ入るものはなかった。クソはクソだ。


 なにより臭いが心を萎えさせる。インドの悪臭に慣れていたアクシャイも、間近で人糞に触れたことはなかったから、その臭いには辟易した。十分も経ったころだろうか。師匠は自分で命じておいて退屈になったのか、すやすやと自分のひり出した大便の隣に仰臥して眠り始めた。


「師匠? これっていつまで――」

「ナスだ、ナスのカレーを持ってこい。あとは甘いプディングを持ってこい」


 ご馳走を供された夢でも見ているのだろうか。やけに明確な寝言である。

 やがて臭いにも慣れて、死んだような心持ちのままアクシャイは指輪を惰性で擦っていると「よし、洗ってみろ」と師匠は寝返りを打ちながら言った。


 アクシャイが水差しの水を指輪に注ぎかけ、悪臭ぷんぷんたる排泄物を取り除いてみれば、驚くことが起きた。


 そこには黄金の指輪があったのである。

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