第2話


 ――いやだいやだ、どこかへ行け。煮締めたガチョウをぶら下げた阿保弟子なんか知らん。死んだガチョウを食えというんだな。おまえ師匠を殺そうというのか。


 キンマの葉を噛んで赤くなった口元をパクパクさせてサダシヴァはアクシャイを怒鳴りつけた。


「尊きわが師よ。ガチョウじゃありません。米とギーですよ。それに野菜も」


「おまえが連れてるのは、死んだ動物じゃないか」とサダシヴァは商人を指さした。ドゥルーブはまさに死んだガチョウさながらの生気のない顔付きで身を固くしている。「毛をむしって、腸を取り除いたって無理だ。ああ、日が暮れるぞ。腹ペコで腹と背中がくっついてまるで車夫の褌になった気分だ。ああ、そうだ、地面にオクラのカレーを描いて、それを食おう」


「師匠」とアクシャイは言った。「それはやめておきましょう。前に試して具合が悪くなりましたから」


「死んだガチョウより絵のオクラのがなんぼかマシだ」


 老いた聖者はすでに木の枝を地面に突き立ててオクラではなく下手くそなガチョウを描き始めていた。


 いつものことでアクシャイに動じる様子はないが、アクシャイに連れられてきたドゥルーブはあからさまに引け腰になっていた。無理もない。だからやめておけと言ったのだ。師匠はいつだってこんな感じで、わけがわからぬ戯言をのべつまくなしに喚き散らしている。かと思えば一文字に口をつぐんで何か月も話さぬこともある。師匠の気分は風見鶏のようにくるくると変わって落ち着くことを知らない。


 聖者に対する尊崇のため、その聖なる御足に額を押し付けようとするドゥルーブをサダシヴァは蹴り飛ばした。キャンと犬のように商人は叫んだ。


「師匠。この方は食べ物を運んで下さったのです。どうか祝福を授けてくださいますよう」

「いやだ、いやだ、疫病神め。てんてこまいの一日だったのだぞ。食えないものを持ってきてどうする。おまえだってわかってるんだろう。食えないものはどうしたって食えないのだ」


 先日、アクシャイは師が苔むした河の底石に齧りついて前歯を折ったのを見た。師は、その石と見えたものが実はビジュヌ神の化身であるクールマだったので自分の歯が折れたのだと苦しい言い訳をしたのだった。アクシャイは、ひとまずあたりさわりのない追従でお茶を濁すことにした。


「神の御業に不可能なことなどありますまい。いかな不信人者であろうと洗い立ての腰布のように真っ新にすることがおできになります。神の光の一条の顕現たるあなたになら」


「うんむ」とあからさまに師は嬉しそうにする。「まぁ、そうだな、死んだガチョウは食えないが、ガチョウに死を食わせることならできるかもな。おい!」


「はい!」と商人は直立不動になった。


「おまえ逆立ちはできるか」

「へ?」

「逆立ちだよ。なんと逆立ちをこいつは知らぬのか。タージマハルより有名だぞ」


 いきなり師は逆立ちをしてみせると、どうだ、と得意げに訊いた。腰布がめくれ上がり、しなびた性器がむき出しになってもおかまいなしである。羞恥という感情は解脱を妨げる障害だと常日頃から言っておられる師のことであるから、これは有言実行のあるべき姿であったが、なんとも曰く言い難い気持ちに弟子は襲われた。


「はい」商人はもごもごと口を動かした。


 夜に染め上げられようとするガンジスの河岸に、老齢の聖者が逆立ちする。すっくと伸びた両足は天を突かんばかりの勢い。一方、少年のような性器はへたりと腹に垂れている。


「見事でございます」とアクシャイは言った。

「さぁ、やってみろ」とだんだんと鬱血しつつある赤らんだ顔で商人を促す。

「いえ、わたしにはそんな軽業めいたことはとても」


 ドゥルーブの太鼓腹を見れば、できないことは一目瞭然。しかしそんな些事を師匠が意に介さないこともまた判然としていた。


「黄金のことが知りたいのだろう?」


 逆さまになった天地を睥睨しながら、師匠は言い放った。

 虚を突かれた商人がハッと表情を失ったのがアクシャイにはわかった。卑しい心の内を読み取られて驚愕というよりも畏怖に打たれているに違いない。


「なぜ、それを?」

「おまえの心の内なんぞ、ガラスの陳列棚の中身のようなもの。見え見えの丸見えだ」

「やれと仰るなら、しかし、もしやったら黄金のことを教えてくださるので?」


「ふん、逆さまなのはおまえらだ。だんだんと頭に血が昇ってきたようだな。金と欲とで真っ赤じゃないか。がはははは」笑ったところで師匠が背中から倒れた。アクシャイは素早く飛び込んで師匠の下敷きになる。なんとも麗しい師弟愛と言えよう。


「では、試してみましょう」


 試すまでもない。商人の大きな尻は腕と肋骨とで支えるには重すぎた。何度試みても持ち上がらず、ついに顔から地面にぶち当たった。脂ぎった顔に無数の擦り傷を拵えた商人は憤然として首を振った。


「できません」

「教えてやれ、アクシャイ」

「え?」

「だから黄金の秘密をだよ。おまえも鈍いやつだな。あの金の粒はもとはとえいば――」

「師匠。それは我が教団の神聖なる秘密では」

「ふははははっは。その男は逆立ちができない。腹が出過ぎているし足は短すぎるし、眼は血走り過ぎている。変な顔だ。猿を思い出す。キーキー言うしな」

「ガチョウではなく?」

「ガチョウのことは忘れていた。あれはガーガーやかましい」

「いいんですね」

「飯を作れ、食ったら寝る」


 そそくさとアクシャイはささやかな食事の準備をする。出来上がった食事はまず少量を聖者が口をつけてから、他の者たちが食す。これは聖者の食べ残しが神のお下がりと同等の意味を持つからであるが、この日、サダシヴァはすべてをひとりで食い尽くして、何も残さなかった。


 グーグーと寝入る師匠の横顔を眺めながら、商人と聖者の弟子は語り合った。


「教えてくれるのだろう?」厄介な聖者を起こさぬように低く商人は囁いた。

「――これは我が教団の神秘なる業であり、部外者に本来教えることはできないのですが」

「許可は頂いたぞ」

「ええ、では教えましょう」


 そう言って、アクシャイは商人の耳元に何事かを囁いた。


 それを聞いた商人は今度こそ驚愕のあまり声を失い、しばしの放心ののち「錬金術」と切れ切れに呟いた。


「はい、あの金は盗んだのでも蓄えていたのでもありません。師が卑金属を貴金属へと変成させたのです。これは見世物でもなければ、神を欺く詐術でもありません。旅を続けるサドゥたちは乞うてもどうしても食を得られぬ時があります。旅先で不如意に陥ったさいの急場しのぎの秘術として古来から伝えられた、それこそが錬金の業なのです」

「信じられん」

「もちろん。幾度となくそれを眼にしたわたしも未だ信じられぬのですから」


 信じられない、と言いつつも先程心の内を丸裸にされた商人は、人智を超えた奇跡というものを完全に疑い切ることもできなかったのである。


「どのようにそれを為すのだ?」


 当然の問いであった。金を無尽蔵に得られるのなら、みみっちく野菜や米を棚に並べる必要もない。黄金とはそのまま富のことなのだ。


「聖なる穢れ」

「なんだと?」

「師は御身の排泄物で卑金属を祝福することによって貴金属へと変えるのです」

 

 アクシャイは真顔でそう言った。

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