聖穢――ホーリーシット

十三不塔

第1話


 偉大なる師の従者である少年アクシャイは、母なるガンジスに今日も祈りを捧げた。賢者ダッタトレーヤに始まる九人の師の伝統を持するナート派の潮流を悠久の河の流れに重ねて、腰布一枚だけを纏った少年は一滴の涙を流す。あとは真鍮の水差しだけがアクシャイの持ち物である。いや、もうひとつある、と少年は思った。


 ――これは決しておまえの信仰の涙よりも尊いものではない。


 アクシャイの師であるサダシヴァは数日ぶりに意味のある言葉を放ち、一粒の金を従者である少年に手渡したのだった。穏やかに、しかしあらゆる被造物から際立って輝くその小さな鉱物を、これまた小さな少年の手は大切に握りしめていた。この一粒の金の塊をこれからアクシャイはコルカタの市場で食べ物に替えるつもりだった。


 喧噪に充ちたカーリーガートは女神カーリーを祀る神聖なる寺院である。ここでは毎日生贄の山羊の血が捧げられる。四本の腕を持ち、第三の眼を備えた黒い母。凄愴な姿にもかかわらずカーリーは慈悲深い。いつもなら参拝を欠かすことはないのだったが、いまは時が惜しい。寺院を取り囲むように広がる市場の店が閉まる前にギーと野菜と煎り米を手に入れなければいけない。山羊の哀しげな声が響く。彼らは己の栄光ある死を知っているのだろうか。


 捧げられると言えばアクシャイもまた捧げられた子供であった。ベンガル地方では、貧しい家の生まれたばかりの子供を聖者や偉大な師に捧げるという習慣がある。これは野蛮な口減らしではなく、神への恭順を示す古代よりの聖なる儀礼のひとつであるし、何より山羊のように殺されるわけではなく、むしろ子供は厳しくも大切に育てられ、器から器へ水を注ぎ込むように不朽の真理に教示される。そのように育ったアクシャイは、気まぐれで型破りな師を心から愛していた。


 まもやく夕拝アーラティの時刻だった。

 急がなきゃいけない。寄り道で時間を浪費すれば、師は癇癪の舞踏を舞い、疲れ果てるとやがて側溝の中を蛇をように這い進んだあげくに、どことも知れぬ世間の片隅で丸太のごとく眠るだろう。さっさと戻らなければ、自分の面倒さえまともにみられやしない師は不都合を被ることになる。少年を足を速めた。牛の糞尿と泥水と香辛料のにおいが混じり合って、複雑な旋法ラーガでもって奏でられる。人々は牛以上に気だるげで瞳に憂いを宿している。間口から謎めいた微笑を浮かべ、半身を乗り出す娼婦たち。緑とピンクのサリーの縫い取りがコルカタの汚濁と目覚ましいコントラストを成す。スパンコールに跳ね返る夕陽に破片に、アクシャイは自分の手の内にある黄金の輝きを想う。


「おじさん、ギーと米をおくれ。野菜は前みたいに傷んでいるのじゃいけないよ」

「小僧。物乞いがそんなに偉そうに要求するものではないよ。行者サドゥだからといって誰もがへりくだると思ってたら大間違いさ」


 立派な髭を生やした店主はぎろりと少年を威圧する。なるほど立派な店構えである。きっとやり手に違いない。前には確かにここで食べ物を分けて貰ったことがある。あの時には店主ではなく、もっと若い男が店を切り盛りしていたはずだ。


「息子は乞食に甘い顔をする質だが、わしはそうはいかん。あれでは厳しい世間の風に脆い葦の枝のようにへし折られ、こっぴどく踏みつけにされてしまうだろうよ」


 ドゥルーブ――アクシャイはのちに店主の名を知ることになる――は怒気を孕んだ視線を中空に巡らせた。店主は、自らの一家の行く末を案じているのだ。神を想うことのみが安寧の道だというのに、なんという迷妄だろうか。


「いいえ。今日は食を乞うているのではないのです」

「ではなんだ?」


「これで贖います」アクシャイは師から預かった金の一粒を差し出した。

「これはなんだ?」疑わしそうにドゥルーブは覗き込む。


「金です。赤子の歯よりも小さな粒ですが、ずしりと重いはずです」

「おまえのような子供が金などを持っているわけがない――いや、確かにこれは」

「質屋や彫金職人に出して検めてもらっても構いませんが、今日は時間がありません。取って貰えぬのであれば、他を当たります」


「待て。おまえは年に似合わずなかなかしっかり者のようだ。言葉に重みがある。この金ほどではないが」すでに主人は金を手に取っては、矯めつ眇めつその光沢にぬかりない吟味を加えていた。「うちの道楽息子にも見習わせたいものだ」


 アヴァドータの世話をしていれば、いやでも処世術が身に付く。生きながら解脱を成し遂げた聖者にはいくつかのタイプがある。子供のように純朴になる者もあれば、狂者のように振る舞う者もある。あるいは屍食鬼のように不気味に彷徨う者も。どれもが世の理を超えた境地によって些末なこだわりがなくなったためなのであるが、アヴァドータとは二つ目のカテゴリー、つまり狂者、瘋狂の徒として輪廻サンサーラの俗塵を寄せ付けずに生きる者を言う。


「では――」とアクシャイは言った。


「ああ、売ろう。しかし、これではおまえが要求したものを買っても随分と余る。釣りはこの金よりも重くなるぞ」

「釣りは要りません。師は食べ物を貯め込まず、金品を所有しません。今日一日のを必要を満たせるなら、それでいいのです」

「確認するが、この金は盗んだものではないのだな? もし後ろ暗いものであれば、のちのちの面倒は儂が被ることにもなりかねない」

「誓ってそのようなことは。しかし商人がそのようなことを気にするのでしょうか」

「他ののらくら者どものことは知らぬ。そんなふうだからこのこの街の多くの者は貧苦に甘んじているのだろうさ。儂は違う。慎重に入念に利を重ね、富を築いてきた」


 まさしく、とアクシャイは髭の生える気配のない顎を上下させた。ただし、それは最善の生き方ではない。いや、説いたところで無駄であろう。その心を富が埋めているうちは真理の入る余地はない。


 夕拝の祈りの声が市場を荘厳な雰囲気に染めていく。


「ひとつ聞かせて欲しい。富を蓄えぬはずの聖者がなぜ金を持っている?」


 もっともな疑問である。しかしアクシャイは答える義務はないとばかりに首を振った。


「時間がありません。売っていただけるのであれば、それは差し上げましょう」


「――うむ」しばし黙考したのち、主人は店の早じまいを決めたようだ。「食料を運ぶのを手伝おう。聖者の弟子を助けたとて神への違犯にはあたらぬだろうさ」


 有無を言わせぬ口ぶりにアクシャイは抗弁できなかった。他人の親切心を無下にしろという教えもまたない。人間嫌いの師に会わせるのは恐ろしかったが、これも信仰への橋立てになるかもしれないとアクシャイは自分を納得させた。


「いいでしょう。ガンガーの西岸のほとりに師はおられます」

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