第2話 好きの意味と、君から見た私
しょこちゃん!
そう呼ばれた気がして足を止める。家まであと少しというところだった。こんな風に呼ぶのは一人しかいない。通りすぎようとしていた公園を振り返ると、思った通りの人がブランコに腰かけていた。
滑り台の横を通り抜けて近づいていく。嬉しそうな笑みが、その後ろで輝く夕焼けより眩しかった。
「燈くん、何してるの?」
「しょこちゃんに会えるかなって思って。待ってた」
「ほっぺ赤いよ。寒かったでしょ」
「へーき。それに、会えるなら待つのもへーきだよ。しょこちゃんが好きだからね」
平気と言いながらも真っ赤な頬を右手でつついてやると、くすぐったそうに笑ってくれた。ふわりと揺れた親譲りの栗色がよく似合っている。
ランドセルは背負ってないから、一度帰宅はしたらしい。それならお母さんも行き先は聞いてるだろう。会いたくて待ってたなんていじらしくもあり、申し訳なくもあった。
「しょこちゃんも燈くん好きよ。でもいつもこの時間に通るとは限らないから、暗くなりそうだったら帰るのよ?」
「えへへ。はぁい」
「ふふ、なんだか今日はご機嫌さんね」
燈くんに倣って隣のブランコに座る。子供の時と違って随分と脚が余った。燈くんと同じ年だった頃とは違うんだな、なんて小さく実感した。
もう大学生だもの、なんて誰にでもなく言い訳のように思っていると、燈くんが何かを手にこちらを見上げているのに気づいた。可愛らしいピンク色の箱。燈くんの幼い手で持っても小さかった。
「ね、見て。バレンタイン、今年は日曜だからってクラスの子が早めにくれた。初めてしょこちゃん以外からもらったよ。すごい? すごいでしょ? おれカッコいい?」
どこか自慢げに目を輝かす燈くん。格好いいとは、モテると認めてほしいということなのか。意図を汲み取ろうと考えながら、数度、意図的に瞬きをした。
(……初めて、私以外からもらったチョコレート)
どうして今まで気づかなかったんだろう。いつかこの子も誰かを好きになるし、誰かの好きな人になること。いつまでもお姉ちゃんからのチョコを欲しがるわけじゃないんだと思うと、ちょっとだけ寂しい気がした。
膝に乗せた鞄の中には買ったばかりの板チョコとココアパウダー。見えてるわけでもないのに、隠すみたいにしてそっと鞄ごと抱き締めた。
「……燈くんも、しょこちゃんのガトーショコラは卒業かなぁ」
「卒業?」
「だって、その子のチョコでお腹いっぱいになるよ」
「これは今日食べる。日曜は、しょこちゃんのケーキが食べたい」
当たり前でしょ? とでも言いたげに不思議そうな顔をされた。自覚がないのかもしれないけど告白されたんだよ、大事な気持ちを受け取ったんだよと教えてあげたくなる。それとも、小学生同士ではそこまで重い意味を感じないものなのか。……私のチョコも、お菓子だから嬉しいだけ?
意地が悪いかもしれない。そうわかっていながら私は口を開いた。
「欲張り。チョコくれた子のこと、好きなんじゃないの?」
「チョコはもらったけど、おれが好きなのはしょこちゃんだよ。いつも言ってるでしょ」
好き、好きと懐いてくれる様は本当に弟みたいだし、姉のように思われるのも嬉しい。でもそれはいつまでだろう。いつまで君は、私の可愛い燈くんでいてくれるの。
「私も燈くんのことは、好きだけど」
「そうでしょ、へへっ」
脚をバタつかせてキャアと喜ぶ燈くん。いつもと変わらず純粋な笑顔を向けてくれているのに、なぜか心がもやりと
こんなの変なのに。私だって弟のようにしか思ってないのに。寂しくて、寂しくて、鞄を抱き締める力を強めた。
「燈くんはケーキが食べたいだけでしょ。別にしょこちゃんからもらう必要、ないじゃないの」
「しょこちゃん……?」
ハッとして唇に手をやった。何を言ってるんだ私。小学生を相手に、今のはあまりにも大人げない。どう考えても失言だった。
「ご、ごめん。嫌な言い方しちゃった」
「しょこちゃんは、おれのこと、嫌いになっちゃった……?」
「そうじゃないよ。燈くん、ごめんね?」
「おれ、ほかの子からもチョコもらえるくらいカッコいいよ。でもダメ? しょこちゃんは、もうおれのこと好きじゃないの?」
「あ、燈くん……えっと。そうじゃなくて」
燈くんがあまりにも悲しそうな表情をするから、どう繕ったらいいのかわからなくなる。へにゃ、と太めの眉が下がってしまっていた。
「好きな女の子からもらえなきゃ、やだよ。ねぇ、しょこちゃんのケーキだから食べたいんだよ」
「お、おんなのこ……っ?!」
この歳になって、というより小学生から“女の子”なんて呼ばれるとは。言葉の衝撃がすごくて思わず反芻してしまった。というか、好きな女の子って。好きな女の子。誰が、え、私が?
好きとはいつも言われてる。でもなんだろう、この、そこはかとないニュアンスのすれ違い感は。
困惑する私の沈黙をどう思ったのか、燈くんは「むぅ」と低めに唸った。箱を持つ両手に力がこもったようで、グ……ッと圧迫される音が微かに聞こえた。
「おれ、ケーキだから嬉しいんじゃない。しょこちゃんがバレンタインに、おれのために作ってくれたケーキが食べたいんだからぁ……!」
徐々に語尾がぐずぐずと溶けていく。涙は零れず、瞬きすれば落ちそうなところで瞳に留まっていた。
(か……かわ、いい……っ)
抱きしめたい。
抱きしめて頭を撫でて、おでこにキスしてあげたい。驚くほどに庇護欲を掻き立ててくるこの可愛い生き物どうしてくれよう……と疼く心を、どうにか理性で押さえ込んだ。
もう胸の奥から可愛いが溢れて止まらなくなってしまう。これはいったい、どういう感情なのか。そもそも好きな女の子って言い方、もう完全にそれは。
「え……えーと。燈くんは、私のこと、そういう風に好きだった……の?」
「そういう風って、なに? おれは、しょこちゃんが好きっていつも言ってるじゃんか。しょこちゃんもおれを好きでいてよぉ」
不意に茉朝の言葉が頭を過った。お姉さんと少年の恋、初恋泥棒、エトセトラ、エトセトラ。まさか恋愛対象として見られてるなんて思ってもみなくて、言葉が出なかった。
戸惑いを散らせないかと少しだけ地面を蹴ってみる。ブランコがギイと
(でも、たぶん燈くんは恋人になるとか……そういう概念がないんだ。両思いだと勘違いしてるみたいなのも、今初めてわかったくらいだし)
この幼くて純粋な好意は、もしかするとお気に入りのオモチャに向けるものと似ているのかもしれない。それなら早いうちに、きちんと理解してもらうのが正しいはずなんだ。
いつか本当に好きな人がちゃんと出来るよ。そう、大人として伝えるべき──
「しょこちゃんの、優しいところが好き」
「ひゃっ?!」
完全に油断していたところに唐突な告白が飛んできた。驚くままにすっとんきょうな声が出る。潤んで、だけど真剣な目が私を見つめていた。
「しょこちゃんの、話をちゃんと聞いてくれるところが好き」
「ちょ、ちょっと燈くん」
「しょこちゃんの、真面目で賢いところが好き」
「待ってお願い。その、えっと」
「でもね。一番好きなのは、しょこちゃんの可愛いとこ。大好きだよ」
「か……っ」
可愛いのは、君の方だ! 胸の中で叫んだ。
恋されてるとわかった途端に言葉の威力が倍増した。熱烈にも程がある。上目遣いをやめてほしい。同時に、あまりに真っ直ぐ過ぎる想いを否定することへの罪悪感を激しく煽られた。
受け取ってもらえなかった、いつかの恋心。先輩から子供扱いされて終わったあの切なさを、たった十二歳の燈くんに与えるのか。
(……それは、今じゃないとダメなこと?)
「もー……わかった、負けた! しょこちゃんの負け!」
「ふ、ぇ?」
「ガトーショコラ。君がもういいって言うようになるまで、焼いたげる。燈くんがしょこちゃんのこと好きって思ってくれてるうちは焼いたげるから。……いらなくなったら、ちゃんと言ってね?」
逃げた自覚はある。いつか自然と本物の恋愛をする日までそっとしておいても許されるんじゃないか、それまで愛されてる錯覚に酔っててもいいんじゃないか、そんなズルい気持ちもあったのかも。
恋と言うには幼すぎる恋に目をつむる。応える気がないのに想われておく。私は、悪いお姉さんだ。
そっと
「いらなくなんてならない。おれ、ずーっとしょこちゃんが好きだよ!」
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