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2022年11月18日 19:40
こんばんは。 第二十集「髦俊」ですが司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」で沖田総司が、ひっくり返して「俊髦」(しゅんぼう)という熟語で、使ってましたね。 司馬先生は、「光暈」も何故か「梟の城」で逆転させて、「暈光」(うんこう)と書いてました。 第二十一集からは、「防遏」、第二十二集からは、「肯綮に中る」の形で、愚稿で一応、使っていますが、「尫弱」という言葉は一応は、知っていましたが、「かよわいこと」しか知らず、「すくないこと・貧乏なこと」と言う、意味が有ったとは知りませんでした。 一旦この稿はこれで、最終回ですよね。 大変に勉強になりました。 どうも、有難うございました。
作者からの返信
こんばんは。九頭龍一鬼です。田渡芳実様。コメントありがとうございます。『第二十集「髦俊」ですが司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」で沖田総司が、ひっくり返して「俊髦」(しゅんぼう)という熟語で、使ってましたね。』とのことですが、たしかに、愚生も実際の文章では、俊髦のほうをつかうことがおおいです。『髦』は『長い髪』の意味で、転じて、なぜか『すぐれた人物』というつかわれかたをするようですね。結局、日本語の熟語のおおくは(幾許かは元来の漢語から意味が転じていますが)漢文からの移植であるはずなので、俊髦と髦俊も『俊にして髦』か『髦にして俊』かの相違にすぎないかとおもわれます(適当な読み下しですが)。ちなみに、現代中国語で俊髦や髦俊というと、『ハンサム』という意味のようです。『司馬先生は、「光暈」も何故か「梟の城」で逆転させて、「暈光」(うんこう)と書いてました。』とのことでして、おそらくこれも俊髦と髦俊の相違とおなじことでしょうが、『光暈』は広辞苑に掲載されていながら、『暈光』は未掲載です。ネットで検索すると、『暈光』も日本国語大辞典に掲載されているようなので、立派な日本語のはずです。司馬氏のことですから、漢文や故事からこの言葉をひろった可能性があります。また、愚生は悪弊かとおもっているのですが、時代小説では『地の文でも、当時につかわれていた熟語しかつかわない』という暗黙の諒解があるようですので、(『梟の城』は未読ですが、たしか安土桃山時代が舞台ですので)爾時の表現では『暈光』がただしかったのかもしれません。また、『尫弱』は基本的に『かよわいこと』の意味で問題ないとおもいます。こちらは、『羸弱』『孱弱』『脆弱』などとセットでおぼえておくと、つかいやすいかもしれません。『一旦この稿はこれで、最終回ですよね。』とのことですが、元来、本稿はもっと内容を増やしてゆく予定でした。が、予想よりもアクセスがすくないことと、『自分だけの単語帳をあまり安易に公開したくない』という愚考から、ここで一旦、終焉とすることといたしました。ですので、『これくらいの語彙じゃ足りない』とおっしゃる読者諸賢には、『申し訳ございませんが、ここからはどうか、御自身で語彙を蒐集する楽しみを実体験してください』としか申し上げられません。実際に、語彙が増えてゆき、その一部だけでも実作につながってゆくと、大変、楽しいものです。本稿が、そのためのよい契機となれば僥倖である、と存じます。田渡芳実様、本統に、最後まで劉覧してくださってありがとうございました。今後ともよろしくおねがいいたします。
2021年5月2日 05:40
ありがとうございます。大変参考になります。ほとんどが知らない言葉ばかりで、たまに知っているものを見つけると、うれしくなりました。
こんにちは。九頭龍一鬼です。すらかき飄乎様は非常に語彙の豊富なかたとお見受けしておりましたので『ほとんどが知らない言葉ばかりで、』というのは意想外でした。斯様に無機的に語彙を羅列しただけで、読者諸賢の御役にたてるのかわかりませんが、御劉覧くださってまことにありがとうございました。
こんばんは。
第二十集「髦俊」ですが司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」で沖田総司が、ひっくり返して「俊髦」(しゅんぼう)という熟語で、使ってましたね。
司馬先生は、「光暈」も何故か「梟の城」で逆転させて、「暈光」(うんこう)と書いてました。
第二十一集からは、「防遏」、第二十二集からは、「肯綮に中る」の形で、愚稿で一応、使っていますが、「尫弱」という言葉は一応は、知っていましたが、「かよわいこと」しか知らず、「すくないこと・貧乏なこと」と言う、意味が有ったとは知りませんでした。
一旦この稿はこれで、最終回ですよね。
大変に勉強になりました。
どうも、有難うございました。
作者からの返信
こんばんは。九頭龍一鬼です。
田渡芳実様。コメントありがとうございます。
『第二十集「髦俊」ですが司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」で沖田総司が、ひっくり返して「俊髦」(しゅんぼう)という熟語で、使ってましたね。』とのことですが、たしかに、愚生も実際の文章では、俊髦のほうをつかうことがおおいです。
『髦』は『長い髪』の意味で、転じて、なぜか『すぐれた人物』というつかわれかたをするようですね。
結局、日本語の熟語のおおくは(幾許かは元来の漢語から意味が転じていますが)漢文からの移植であるはずなので、俊髦と髦俊も『俊にして髦』か『髦にして俊』かの相違にすぎないかとおもわれます(適当な読み下しですが)。
ちなみに、現代中国語で俊髦や髦俊というと、『ハンサム』という意味のようです。
『司馬先生は、「光暈」も何故か「梟の城」で逆転させて、「暈光」(うんこう)と書いてました。』とのことでして、おそらくこれも俊髦と髦俊の相違とおなじことでしょうが、『光暈』は広辞苑に掲載されていながら、『暈光』は未掲載です。
ネットで検索すると、『暈光』も日本国語大辞典に掲載されているようなので、立派な日本語のはずです。
司馬氏のことですから、漢文や故事からこの言葉をひろった可能性があります。
また、愚生は悪弊かとおもっているのですが、時代小説では『地の文でも、当時につかわれていた熟語しかつかわない』という暗黙の諒解があるようですので、(『梟の城』は未読ですが、たしか安土桃山時代が舞台ですので)爾時の表現では『暈光』がただしかったのかもしれません。
また、『尫弱』は基本的に『かよわいこと』の意味で問題ないとおもいます。
こちらは、『羸弱』『孱弱』『脆弱』などとセットでおぼえておくと、つかいやすいかもしれません。
『一旦この稿はこれで、最終回ですよね。』とのことですが、元来、本稿はもっと内容を増やしてゆく予定でした。
が、予想よりもアクセスがすくないことと、『自分だけの単語帳をあまり安易に公開したくない』という愚考から、ここで一旦、終焉とすることといたしました。
ですので、『これくらいの語彙じゃ足りない』とおっしゃる読者諸賢には、『申し訳ございませんが、ここからはどうか、御自身で語彙を蒐集する楽しみを実体験してください』としか申し上げられません。
実際に、語彙が増えてゆき、その一部だけでも実作につながってゆくと、大変、楽しいものです。
本稿が、そのためのよい契機となれば僥倖である、と存じます。
田渡芳実様、本統に、最後まで劉覧してくださってありがとうございました。
今後ともよろしくおねがいいたします。