3

 篝火の逆光に翳り、表情は見て取れない。ただずいぶんと長身の人であることが分かった。ミーファが思わず口を噤むと、相手はそれを待っていたかのように、

「あるとき〈黒の結晶獣〉は人間の娘に恋をした。壁の内側に留まりさえすれば安全だと街の連中は言ったが、娘はそうじゃないと知ってた。〈黒の結晶獣〉は走り出したら止まらない生き物だってね。ぶっ壊すまで、何度だって突っ込んでくるだろう。いかに頑丈な壁だって、限界はある。そうなれば街が危ない。娘は考えた末、自ら壁の外に出て、姿を晒した」

 両腕を広げる仕種が挟まる。影がゆっくりと歩み寄ってきた。

「突進してきた〈黒の結晶獣〉は、娘にぶつかった。娘の言ったとおり、止まることができなかったんだね。愛しい女を弾き飛ばしたあと、哀れな生き物は走って走って、そのまま地の果てに消えていった。いっぽうの跳ねられた娘は空に飛んでいって星になった。そうして今でも、あらゆる〈星呼び〉を見守っている」

 物語をそう結ぶと、女は立ち止まってこちらを一瞥した。意識が引き寄せられた。

 年齢はミーファやクルルより少し上だろう。顔に浮かんだ陰影が、その立体感を際立たせている。長い髪ははっきりと左右非対称で、片方の目を覆い隠していた。

 ラシュラッドの人間ではありえない。壁の内側で生まれた人間はみな、濃淡の個人差こそあれ、青い目を有する。翻ってこの女の、髪に隠れていないほうの目は――虹色だ。無数の血が入り交じっている証拠だった。

「そうなの?」

 クルルが顔を近づけてきて、小声で問う。ミーファもまた囁き声で、

「合ってる。あの人の言ったとおりだよ」

 女が傍らに移ってきた。そのほうが像を眺めやすいから、といった風情の、何気ない動作だった。クルルがしたように、頭を動かして細かく視点を変えている。

「混じり物が多いな。このへんに純度の高い青藍石を捕れる奴はいないの?」こちらを見もしないまま、唐突に女が発した。「そもそも、この色だったら使うべきは橡石だ。二重に間違ってる」

 思わずぽかんとしてしまった。クルルが毅然と、女に顔を向ける。

「仕方ないんです。青藍石にしろ橡石にしろ、これだけの量の純粋なものなんて、とても。仮に捕れたとしても、ここまで大規模でかつ造形の細かい彫刻には向きません。加工の難易度が跳ね上がるんです」

「言い訳にしか聞こえないな。そこいらで粗悪な石を拾ってきて、好き放題あれこれぶち込んで、色や紋様や性質まで無理やり変えるのが、あんたたちの芸術か」

「程度問題でしょう。稀少な天然石の価値は認めます。当然です。でも身近なものに手を入れて使い勝手をよくすることだって、立派な創作じゃないですか。私たちは石とともに生きる民なんだから」

 ふふ、と女は吐息交じりに笑った。それから声を低めて、

「つまりこの街には、〈結晶捕り〉も造形師も、凡しかいないってことか」

 これにはミーファもむっとしたが、すんでのところで唇を引き結んで呑み込んだ。どこの誰とも知れない相手だ。

 クルルは黙っていなかった。「じゃあ、あなたは」と食ってかかったのである。袖を引っ張って宥めようとしたが、まるで応じてくれなかった。彼女は噛みつくように、

「あなたは本物の石を――混ぜ物のない、本物の石をご存じなんですか? 見たことがあるの? 触ったの?」

 激昂するクルルを目の当たりにしても、女は悪びれた様子ひとつ見せなかった。それまでと変わらぬ飄然たる口調で、

「さあ、どうかな」

 幽かに唇の端を吊り上げてみせてから、ゆっくり踵を返した。挨拶のつもりなのか、こちらに背中を向けたままでひらひらと掌を振って寄越す。それで歩み去っていくのかと思いきや、ふと思い付いたように振り返って、

「そうだ、名前」言ってから、女は独りでかぶりを振った。「〈黒の結晶獣〉が恋した娘の名前、知ってる?」

 クルルが見るからに不機嫌な面持ちでそっぽを向いた。ミーファは少しだけ躊躇ったが、けっきょく声を張り、

「トゥメーラ」

 女が立ち止まった。肩越しに振り向き、また笑みを作って、

「意味は?」

「悲しみ」

「そう。こっちじゃそういう意味なのか」

 正面に向き直って歩みを再開しかけた女を、ミーファは呼び止めて、

「あなたの知っている意味はなんですか? それくらい、教えてくれたっていいでしょう」

 返事はなかった。それでもミーファはしばらく、黙ったまま離れていく女の背中を見つめていた。その場を動く気がしなかった。

「慈愛だ」ずいぶんと距離が開いてから、まったく唐突に女が発した。独り言かと思いかけたが、彼女は続けて、「発音も少し違う。トゥ・オメラ。そういうふうに呼んでた」

「どこで? あなたの故郷?」

 先ほどよりも大きく声をあげたが、今度こそ返事はかえってこなかった。女の影はやがて、篝火も星明りも届かない暗がりに呑まれ、消えた。もはやなんの痕跡も残っていない街角を、ミーファはただ眺めていた。

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