第24話 誓約の地下病室

 病室の主の手により開錠された扉を潜った紫合鴉蘭と来栖龍人は、いつものように室内で待つ『彷徨える猶太人』アハスエルスの寂しげな笑顔に迎え入れられた。


「アハスエルスさん、本日は貴方にお伝えしなければならない儀があります。

 申し訳ありませんが、最初にこの話を聞いて戴きたいと思っております」


 厳かな口調で告げる鴉蘭に、アハスエルスはこちらもフルディを膝の上であやしながら応える。


「ええ……紫合先生、お話をお聞かせください。

 先生の様子から見て、そのお話を聞いた私の反応リアクションを心配されているようですが……大方の予想は出来るお話だとは思いますので、どうか私のことはお気になさらず……内容についてお教えください」


 少し顔色を失ったようなアハスエルスの姿に、鴉蘭は重々しい口調を保ったまま自身の確認した全ての情報をアハスエルスに告げた。


「……………………と云う訳で、我が国の中央省庁が拾い集めた情報の断片から推測するに……建国予定の新興国以色列イスラエルにおいてイエス・キリストこと……ヤフシャ・ハマシアハの再臨が確認されたとのことです。

 この情報について真偽の程は未だに定かではないのですが、僕が想像するに……凡そこの情報は真実であると判断可能だと思います。

 この事案が発したことによって、アハスエルスさん……貴方と僕それに来栖龍人医師が果たすべき役割、その内容はより明確となったように思われます。

 我々の使命、それは吸血鬼ウィルスヴァンパイア感染症症候群シンドロームの根源を探査すること……そしてこの感染症における抗ウィルスワクチンを開発すること、それこそが第一義的な到達目標であり……明確に提示されている指針であると考えられます。

 アハスエルスさん、僕は貴方の意見を是非ともお伺いしたい……前述の指針を達成するためには、貴方のご協力が必要不可欠だと、僕も来栖龍人医師も信じているからに相違ありませんから」


 言い終えた鴉蘭は、凝とアハスエルスの砂色に煙る目を見つめる。

 その真剣な眼差しに応えるように、アハスエルスは重々しく口を開いた。


「ええ……紫合先生、私自身も貴方の仰るご意見については同意いたしますよ。

 昨日の来栖先生との面談においても、ヤフシャ・ハマシアハの再臨と……奴がもたらすであろう害悪についての想起は出来ておりました。

 そうです……想定の範囲内としては、起こり得る事象としての認識が可能な出来事でした。

 そして実際にその事態が出来しゅったいしたと思われる現況において、私たちが為すべきことは定まっているとは思うのです。

 しかしながら……事はそれだけで収まるのでしょうか?

 今般のヤフシャ・ハマシアハの再臨については、未確認ながら国家間の調整や交渉等が必要となるのではないでしょうか?

 1900年前から近代国家が誕生する前の時代であれば、ヤフシャ・ハマシアハが再臨し何を企もうとも……個と個、少し大仰なことであったとしても、宗教団体と個と云った程度の関係性の中で全てが収束したのだと思います。

 それでも現在いまは時代が変遷し、あらゆるの在り方が変わってしまった。

 その中で……私が身を寄せる日本と云う国家は、今回の案件についてどのような判断を下すのでしょう。

 私は、私の安全を担保して欲しいなどとは望みません。

 ですが……此処に居る三名……いや、三名と一匹ですね。

 そう……我々がヤフシャ・ハマシアハに対抗する措置を講じたとしても、国家と云う組織が存在している限り……その対抗措置すらも消し去られてしまう可能性を私は危惧するのです。

 残念ながら先の世界大戦において敗戦国となってしまった日本国と云う国家に、周辺国家からの圧力を撥ね退けて……吸血鬼ウィルスヴァンパイア感染症症候群シンドロームの抗ウィルスワクチンの開発を、円滑に進められる土壌はあるのでしょうか?

 紫合先生、貴方には見えている筈だ。

 今回の案件がどのように推移し、我々の立ち位置がどのように変動して行くのか……その最終到達点までもが。

 協力することにやぶさかでない気持ちは私の本心ですが……紫合先生、貴方は今回の案件をそして……私とヤフシャ・ハマシアハの因縁をのか、それを……それだけは貴方の口から直接お伺いしたいのです」


 アハスエルスの目は何事にも動じないような決意を秘めた輝きで、紫合鴉蘭の瞳を射抜くような鋭さを以って見据えている。

 対峙した時間にすればほんの数秒であったろうか、鴉蘭とアハスエルス……二人の絡み合う視線による攻防を終わらせたのは、ハラハラと不安そうに見つめていた龍人の予想とは異なり、彼の指導教授である紫合鴉蘭の方だった。

 スゥッと目線を下にした鴉蘭は、そのまま斜め下の床板の方に視線を彷徨わせる。


「そう……ですね、どうやら貴方には如何どうにもこうにも隠し事などは出来もしないことを……僕もすっかり失念していましたよ。

 確かに、敗戦国となった日本において……現在は連合国軍最高司令官総司令部G.H.Q.の進駐軍による実質上の占領下にある日本国政府が、彼らの強い要求に際してその軍門に降り……アハスエルスさんの存在や僕らの研究内容について、その全てを接収し……内容についても抹消させてしまうと云う恐れは内包されているのかも知れない。

 しかしそれは日本国政府と云う名の国家レベルでの話であり、僕個人……兵庫県立医科大学附属病院・精神科特異診療部の特任教授の紫合鴉蘭とは何ら関わり合いのないことだと思います。

 こう云ってしまっては身も蓋もない話にはなるのですが……僕個人としては国益だの政治的判断だの、ましてや他国との折衝などは喰らえとしか感じていません。

 何故なら僕は先の大戦を通じて、国家の都合……国益の追求に巻き込まれて人としての未来も、愛も……そして一族郎党すらも全てが灰燼に帰したような人間なのですよ。

 今の僕にとっては学究の徒であることだけが、僕を僕として存在せしめている……僕にとっての存在意義レゾンデートルそのものとも云えるでしょう。

 だからこそ僕は、国家や国益に反旗を翻したとしても……アハスエルスさん、貴方のような存在を研究し、貴方とヤフシャ・ハマシアハに係る吸血鬼ウィルスヴァンパイア感染症症候群シンドロームの解析や、その抗ウィルスワクチンの開発に心血を注ぐ方が、僕が僕として生きている実感を得られる唯一の場所だと思っているのです。

 したがって僕の愉しみ、僕の生き方を否定するような輩は……僕にとっての敵対勢力であり、そのようなから僕は僕の研究と……アハスエルスさんと云う研究材料を守護することを覚悟していますよ。

 貴方の問いに対する回答としては、些か的外れなものだったのかも知れませんし……アハスエルスさんをとして表現することは失礼だったのかも知れませんが、これが今回の事案に対する僕の決意表明ですよ。

 さて……そこにと立ち尽くしている研修医殿が、どのような感情で以って……アハスエルスさんと僕の話を聞いて、どのような決意を述べるのかは……僕の感知するところではないので、彼に直接聞いてみなければならないのですがねぇ」


 突如として話を振られた龍人はビクッと身を震わせて、発言の主である指導教授の顔を見つめて言った。


「え………このタイミングで俺に振ります?

 紫合教授、それは余りにも殺生な話やありません?

 ま……まぁ………俺もこの場における登場人物の一人やとは思うけど……何で俺が一番最後に言わなアカンねん……………」


 げんなりとした表情の龍人は、少し顔を青褪めさせ……緊張からか喉元からせり上がろうとする未消化の朝食と胃液を、自分自身の唾液と吸い込んだ空気で押し戻そうと奮闘していた。

 そんな龍人をアハスエルスは寂しげな微笑で、そして鴉蘭は苛立たしげに足踏みをしながら邪悪なニヤニヤ笑いを浮かべて、二人ともが龍人の回答を待っているようだ。

 そんな直属の上司と担当患者に挟まれた龍人は、二人から放たれる目に見えぬ有形無形の精神的重圧プレッシャー

に耐えかねて……両手を上に挙げた。


「はいっ!

 判りました、判りましたよ!

 アハスエルスさんと紫合教授、それに私とフルディは……もはや運命共同体みたいなモンなんですから、沈み行く泥舟やろうが戦艦大和やろうが……どっちにしても行き着く所まで行かな仕方しゃあないですやん。

 私も……兵役検査で丙種合格となってから、お国のために役に立てんゴミ屑みたいな扱いを受けるわ、空襲で父親と義母をうしのうて……それでも民間人やから戦死者とは勘定もして貰われへん。

 そんなこんなで、私も日本国に対してはそないに義理も恩義も感じではおりませんので……有事の際はこの運命共同体に身を任せるのも宜しいんやけど………。

 私には妹が居るんで、ヤフシャ・ハマシアハの吸血鬼ウィルスヴァンパイア感染症症候群シンドロームが世界に蔓延することだけを危惧しとるんですわ。

 そんな……それだけの理由で、ここにらして貰っても大丈夫なんですか?」


 少しだけ不安そうな様子で自身の存在の是非を問う龍人に、鴉蘭はハンと鼻を鳴らして告げる。


「大体だ、君はアハスエルス氏と僕の言葉をちゃんと聞いていたのかね?

 アハスエルス氏は自身の安らかなる死と、ヤフシャ・ハマシアハを滅殺するための抗ウィルスワクチンを作成するのに……国家組織からのが入らないか、そして邪魔が入った時にするのかを尋ねただけだったろう。

 そして僕の応えは吸血鬼ウィルスヴァンパイア感染症症候群シンドロームの研究および、その研究材料であるアハスエルス氏を……日本国がとしたとしても、僕は国家国益を踏み躙ってやるぞと伝えたに過ぎない。

 結論から云うと、アハスエルス氏と僕はをしたに過ぎないのだ。

 だから君が日本国に恩も義理も感じておらぬこと、そして妹思いシスターコンプレックスな君が……妹に吸血鬼ウィルスヴァンパイア感染症症候群シンドロームの蔓延する世界で生きて貰いたくはないと願うために、僕らと同じ道を歩むのであれば……それはそれで僕らの発言と同等でをしたのだと考えられるよ。

 まぁ、国家国益を無視し……国に反旗を翻した場合は、自動的に失職し医師の職は失うだろう。

 その時は、僕が……優秀な医学博士で研究者である僕が、君をずうっと僕の研究助手として雇用してあげるから……安心し給えよ。


 それと……君は僕ら三人と一匹が『運命共同体』だと呼んだね、それはそれで良いのだけれど……僕らが目的に向かって乗る船を『泥舟』と『戦艦大和』に例えてくれたのだが、それだとどちらにしても僕らの未来は運命であると思っているのじゃあないのかい?」


 鴉蘭から告げられた最後の言葉を聞いた龍人はハッと気付いた。

 今回の案件がどちらに転んだとしても、来栖龍人と云う名の研修医の運命は……紫合鴉蘭と云う男に握られ、彼にを選び取ってしまったことを。

 龍人の想像の中では、泥舟に乗っているのも戦艦大和に乗っているのも……自分一人だけで、乗った船と共に沈没するのも自分だけなのではないかと……恐ろしい映像が頭をよぎった。

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