第23話 採血の前に

 勤務開始から早々の、紫合鴉蘭教授と研修医来栖龍人の鍔迫り合いもひと段落し、二人は連れ立ってアハスエルスの待つ地下病棟への道を歩いている。


「あの……紫合教授、本当にフルディには鎮静剤を使用しないんですか?」


 おずおずといった体で鴉蘭に尋ねる龍人、その顔は恐怖に歪み……貧相な顔を更に薄幸そうな表情に見せている。


「そりゃあそうだろう、先程も言ったがアハスエルス氏の愛天竺鼠モルモットであるフルディ嬢にのことでもあったらどうするのだい?

 来栖龍人君……君のような一介の研修医に、その責任が負えるとでも思っているのかね?

 僕が思うに君がフルディ嬢に噛み付かれて吸血鬼ウィルス感染症症候群ヴァンパイア・シンドロームに罹患する方が、フルディ嬢を失ってしまう損害リスクに比べるとかなりな結果になると思われるよ。

 それにだ、フルディ嬢から感染させられる恐怖に怯えるよりも……君が採血を上手くやり遂げる努力をする方が建設的かつ前向きな方向性なのではないだろうか?

 若者は常に前を向いて、希望の明日へと行進する方が似合っているよ。

 まあ……君のご面相では、死神が地獄に向かって歩いて行くようにしか見えないのが玉に瑕ってものだけれどもねぇ」


 自分で自分の台詞に大ウケした鴉蘭が、手を打ち鳴らし笑う様を見た鴉蘭は……絶望と諦観に満ちた視線を目の前の指導教授の背に送る。


『アカン……絶対このオッさん、俺の窮状を楽しんでしもとるがな。

 ホンマ性根の悪いオッさんやで、ちょっと言い返しただけで倍……いや10倍ぐらいの勢いでやり返して来とるがな。

 こんな死の行進デスマーチなんか要らんでしかし、何とかしてアハスエルスさんにも手伝てつどうてもろて……フルディの採血だけは安全無事に完了ささなアカンわ………』


 考え込むような表情でブツブツ言いながら歩く教え子の顔を満足そうに眺めながら、鴉蘭は龍人へ告げる。


「ああ……そうそう、取り敢えずは最初にアハスエルス氏への僕からの通知を先行して行うので、その報せにショックを受けるかも知れないアハスエルス氏の助力は受けられない可能性がある旨を、君には事前通知しておかないといけないね」


 ニヤッと笑う悪魔のような鴉蘭の顔を恨めしそうに睨みながら、龍人は大きな溜め息を聞こえよがしに吐いて言った。


「ああ……はいはい、紫合教授ならそれぐらいのことは仰ると思っておりましたよ。


 ………ホンマにしょ〜もないオッさんや……………」


 龍人が付け加えた最後の小さなボヤきに、鴉蘭は『んん?』と鋭い反応を見せて振り返る。


「いえ………何も………」


 龍人の慌てたような素振りを不思議そうな顔で眺めた鴉蘭は、特に気にする風でもなくアハスエルスの病室に向かって歩を進める。


「では……来栖龍人君、手筈通りに頼むよ。

 僕がアハスエルス氏にヤフシャ・ハマシアハの……イエス・キリストの再臨における未確認情報を告げる。

 そして今後の予測と対応策についてアハスエルス氏と僕、そして君の三名にて協議を行う。

 最後に君がアハスエルス氏の愛天竺鼠モルモット、フルディ嬢の採血を執り行うと云う段取りだ。

 手順と優先順位を取り違えぬよう、重々に気を付けてくれ給え」


 指示としては特に違和感もないような鴉蘭の言葉に、龍人はそれでも『やっぱり採血は一番最後に持って来るんやな……どうにもこうにもアハスエルスさんの助力が受けられるへん可能性含みの手順でやるっちゅうこっちゃ』と……少し恨めしい気持ちを持ったまま頷いた。

 その教え子の姿を見た鴉蘭は、ハァ……と溜め息を吐いて龍人「向き直る。


「来栖龍人君、君はどうして僕がこの手順を踏もうと考えたのか……全く理解していないようだね。

 朝の遣り取りに起因して、僕が本気で君への報復措置としてフルディ嬢の採血を最後に回したと恨んでいるような目つきをしているのが気に喰わないなぁ。

 またもや僕が最初から最後まで君に説明してあげないと、君は深謀遠慮の人たる僕の立案したこの手順を理解出来ないのだろう。

 やれやれだ……本当に君は手のかかる研修医だね。

 何故にこのような手筈で本日の作業予定を組んだのか、その仏頂面を解消するためにも教えてあげよう。

 まず第一に、アハスエルス氏に対してヤフシャ・ハマシアハの復活の可能性を優先的に伝える必要があること。

 そのことによって氏が恐慌状態に陥いるかも知れないことは、僕も想定済みだし……君にもその状況下での君自身の行動については考慮して貰わなければならないよ。

 そして第二にアハスエルス氏と僕、そして君の三名による今後の予測および対応策についての合議だが……これは言わずもがなと云うべきだろう。

 アハスエルス氏と君には、ちゃあんとヤフシャ・ハマシアハが復活したことを認識して貰わないと……この協議における真摯な態度が引き出せない可能性、三者による協議が身のないものに変質してしまうことを僕は危惧しているのだよ。

 それに、この三者協議に不可欠な事柄は……アハスエルス氏がに考察し、有効的だと想定される立案が為されることが、成功に向けた必須条件であることは理解出来るね?

 そして第三に吸血鬼ウィルスヴァンパイア感染症症候群シンドロームに対抗すべき抗ウィルスワクチンの開発に際して、最重要課題となるフルディ嬢からの採血となる。

 どのような対応策や打開案が立案されたとしても、根本的な手法として吸血鬼ウィルスヴァンパイア感染症症候群シンドロームの抗ウィルスワクチンの開発が急務となることは、目に見えて明らかな事象であるからね。

 本日のアハスエルス氏への通知から、氏の反応がどのような結果であろうとも……フルディ嬢から採血を行うという環境に着地していれば、アハスエルス氏も落ち着きを取り戻しているであろうと僕は読んでいるのだがね?

 どうだろう来栖龍人君、これでもまだ君は、僕が君へののためにこのような手順を決定したのだとをしてしまうのだろうか?」


 ジロリと剣呑な目付きで龍人を睨んだ鴉蘭は、教え子である研修医の返答を無言で待った。


「いえ……紫合教授の仰る通りです。

 私の浅はかな考えで、紫合教授の高邁な思考について……思い違いをいたしておりました。

 大変……申し訳ありません」


 深く頭を下げながら……内心では『いやいや……これは絶対にのヤツやんか』と思う龍人であった。

 そんな部下の姿を、訝しげに眼を眇めながら数瞬の間だけ見つめた鴉蘭だったが、フムと小さく呟くとアハスエルスの病室へと向かう扉を開錠した。


「ま……良いだろう。

 君が内心で何をどう考えていようが、どのように不吉なご面相で、負の感情を指導教授に対して露にしようが、実務的な部分を故意に怠業サボタージュするような真似さえしなければ……それはそれで許容範囲の内側に収めておこうじゃあないか。

 来栖龍人君、君の指導教授上司は……慈悲深く懐の大きな人物で良かったねぇ」


 アッハッハッと大声で笑った鴉蘭に、龍人の躰はビクンと反応し……両手に捧げ持った採血の道具をガチャリと揺らして落としそうになった。


「ほらほら……気を付け給え。

 その注射筒シリンジ試験管チューブ無料タダではないのだ。

 ぞんざいに扱って、破損でもさせようものなら……君のその薄給からしまうように手続きをしておくからね。

 僕は僕自身の精神こころ肉体からだに傷を付けられるよりも、僕の研究室に損害を与えてしまうような輩が大嫌いなのだよ。

 それを理解して、僕の研究室に帰属しているモノについては……慎重に取り扱うよう配慮し給え」


 ギロリと気魄に満ちた、そして若干の殺意が込められた鴉蘭の眼に……龍人は怯えながらも内心はで、コクコクと頷いた。


『この人……ホンマもんのアカン人間や……完全に言うとることがしとるがな……。

 キ※※イじみた独占欲に、自分を偉大やと信じる尊大な態度って……この人……妄執病パラノイアと違うんか?

 ただの研究熱心な教授マッド・サイエンティストやと思って油断しとったら、普通に精神科の患者と同列なだけの医師なんとちゃうんかいな?

 成る程……それなら、紫合教授が妄執病パラノイアなら……このオッさんが俺以外に部下も事務員も置かんと、たったで特異診療部を切り盛りしとったんも頷けるな。

 そしたら……何で俺はここにんや?

 紫合教授は前に『これはと見込んだ人材を選んだ』みたいなことを言うとったけど、俺が紫合教授に選ばれたのか……それとも誰かして俺と云う研修医が選ばれたのか……これについては今後の調査が必要な案件かもな……………』


 物思いに耽る研修医に、鴉蘭は苛立たしげに声をかける。


「来栖龍人君!

 君は僕の話を聞いているのかね?

 本当に君と云う男は……薄らぼんやりするにも程があるのではないかね?」


 鴉蘭からの叱責に、龍人はヘラヘラと笑いながら謝罪をする。

 しかしその胸に去来する思いは、また別にあった。


『しかし……紫合教授の研究室に属しておると云えば……も一応は研究室に帰属する研修医とちゃうんかいな?』


 龍人の疑念をよそに鴉蘭の指は、アハスエルスの病室へと繋がる呼び鈴インターフォンボタンを押した。

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