第22話 朝の一幕

 その翌朝、兵庫県立医科大学附属病院の精神科・特異診療部にある研究室へと出勤した来栖龍人は、研究室の主でもある指導教授の紫合鴉蘭が出勤し到着することを今か今かと待ち侘びていた。


「あのオッさん……ホンマに人を待たすのが好っきやなぁ。

 えっらそうに俺をせっつきに来たんは、二日目の朝だけやないかい。

 あの日かて俺は訳の判らんまま、アハスエルスさんの血を浴びて……ここに泊まらされたから仕方のない話やっちゅうねん」


 自身は毎朝、妹の鞠江に起こして貰っている身の上でありながらも……そんなことは棚に上げてしまい込んでしまった龍人は、ブツブツと小声で愚痴りながら着席している。


「やぁ、来栖龍人君…お早う。

 今日もまた良い天気で、晴れ渡ったこの空のように、君のご機嫌も麗しいようで僕も安心したよ。

 昨日はその死神じみたその不吉なご面相が、不安に押し潰されたように青褪めて……直視に耐えかねる悍ましいモノになってしまっていたからね。

 流石に物事に動じない精神力を持つ僕も、あんな顔を二日連続で見るなんて御免蒙りたいものだからねぇ」


 朝の第一声から自分の相貌を誹謗すると云う非道なる指導教授に、龍人は少し苛立った声で話しかける。


「そらぁ……スンマセンでしたねぇ、生まれ落ちてからこの方二十数年もこの顔で生きて来たんで、今さら顔のことでどないのこないの言われても……別にどないも思いませんけど、紫合教授みたいな役者みたいに整った顔立ちの人から貶されると、出勤時間を守れんような男前には言われたくないわ……と反論したくなってしまいますねぇ」


 龍人にとっては渾身の力を込めたつもりの皮肉であったが、鴉蘭はフフンと鼻で笑って即座に切り返す。


「来栖龍人君、君も言うようになったものだねぇ。

 昨日ので僕に縋り付くような目の、捨て犬めいた顔をしていた君に……翌日には指導教授に噛み付くぐらい元気になっているから安心して良いよって伝えてあげたいねぇ。

 やはり『男子三日会わざれば刮目して見よ』と云う言葉には真実味があるってことだよ。

 君の場合は三日でなく一晩こっきりでの立ち直りだから、三国時代の呂蒙をすら凌駕する程の成長ぶりだ。

 ところで、その前向きな立ち直りはを伝えてあげたからこそのなのかなぁ?

 ん〜?

 んん〜?

 んんん〜?」


  鼻と鼻が接する程に顔を近付けて……ニヤニヤとタチの悪い笑顔で迫る鴉蘭に、当初の勢いを綺麗さっぱり失った龍人は顔を赤らめ小声で応える。


「それは……紫合教授が……私に……今回の案件についての……対処法をご教示くださったからです………」


 龍人の応えが聞こえなかったかのような素振りで、鴉蘭は顔を近づけた姿勢を保って再び尋ねる。


「んん〜?

 声が小さ過ぎて聞き取れなかったようだなぁ、年は取りたくないものだよ。

 こう云う大事な時に、教え子の声を聞き漏らすなんて……。

 来栖龍人君、申し訳ないがもう一度だけ僕に教えてくれないか?

 を伝えてあげたからこそのだったと、君は僕に言いたかったのだね?

 次こそは僕の衰えた耳にも届くよう、大きな声で言ってくれないかい?」


 鴉蘭のしつこい問いかけに、龍人は椅子から立ち上がると直立不動の態勢で応える。


「はいっ!

 今回の……私を悩ませた案件については、紫合教授が私に対処法をご教示くださったからでありますっ!!」


 敬礼こそ伴わなかったものの、龍人は軍人が上官に対して応答するような大音声で……鴉蘭の問いに回答した。


「うんうん、今度の声は良く聞こえたようだ。

 それで……来栖龍人君?

 君は今朝の僕の出勤状況について、何か物申したいような気分だったのかな?

 聞き逃しついでにその言葉をもう一度、僕に語って聞かせては貰えないだろうか?」


 今度は天使のような微笑みを浮かべた鴉蘭が、先刻の言葉を龍人に述べるよう求めた。


「いいえっ!

 私から紫合教授に物申すことなど、何もありませんっ!

 些細なことでお時間を取らせまして、申し訳ありませんでしたっ!!」


 直立不動を維持したまま軍人風の否定表現NO! NO Sir!!で返答した龍人に対して、鴉蘭は満足そうな悪魔的笑顔で自席にドッカリと腰を降ろす。


「宜しい、君からの申し入れが何もないようであれば……僕たちの本日の業務について再確認しようではないか。

 来栖龍人君、本日はどのような予定となっているかね?」


 鴉蘭の問いに、直立不動の姿勢を未だ維持して……龍人は同様の言葉で回答する。


「はっ!

 本日はアハスエルス氏の許を訪問し、氏の所有する天竺鼠モルモットであるフルディから……検体として採血する予定でありますっ!!」


 龍人の大声での回答に眉を顰めた鴉蘭は、面倒臭そうな顔で右手をヒラヒラさせながら命じた。


「いや……その雰囲気ノリはもう良いよ。

 やはり関西の人はちょっとウケると、しつこいぐらいに習性があるのだねぇ。

 どうにも堅苦しい男だと思っていたのだけれど、来栖龍人君にもちゃあんと関西人の遺伝子が組み込まれていたと云うことだ。

 どちらかと云えばこの考察は、精神医学の分野と捉えるよりも……文化人類学的な日本の地域特性が、住人に与える影響と……その特異点の探索と呼ぶべき状態なのだろうね。

 そうではないだろうか……来栖龍人君」


 鴉蘭の的確な関西人に対する否定的な突っ込みに、龍人は萎れた青菜の如き凹みようでおずおずと応える。


「は……申し訳ありません、紫合教授……教授の求める態度がこれやったと思うと……居ても立っても居られず……つい、しつこく被せてしまいました………」


 朝から威勢良く噛み付いて来たかとおもえば即座に返り討ちに遭い、更には同じようなネタを繰り返した上にそれを突かれると落ち込んでしまう……そんな教え子の姿に鴉蘭は面白くもなさそうな顔で、更なる追撃を加える。


「本当に君はどうしようもないヤツだなぁ、来栖龍人君。

 そもそも君の浅はかな知謀に、朝イチから付き合わされるこちらの身にもなってくれ給えよ。

 僕に対して攻撃的な態度を取れば、最終最後にはどのような憂き目に遭うか想定してから襲いかかって来るようにし給え。

 ほんの数日の付き合いでしかないが、僕と君の間には知識と経験の差異が大きく深い海溝の如く横たわっているのだよ。

 そんなことも考察しないで、僕のような偉大な指導教授に挑みかかってくるなんて……10年、いや100年早いと云わざるを得ないね。

 まぁ良い、それでは本日の予定とその計画スケジュールについて、もう一度……に説明し給え」


 辛辣かつ冷徹な鴉蘭の言葉に、大きくヒョロ長い躰を縮こまらせた龍人は、自席に着座すると通常運転の態度で応える。


「はい……本日は地下病棟においてアハスエルス氏の許を再訪し、氏の比護下にある天竺鼠モルモットのフルディから検体である血液を採取し……研究室にてその検体から吸血鬼ウィルス感染症症候群ヴァンパイア・シンドロームのウィルスを検出するために解析工程を行う予定です」


 フムと頷いた鴉蘭は、物憂げな表情で龍人へと告げる。


「それで……?

 天竺鼠のフルディ嬢から、検体である血液の採取を行うための準備は整っているのかい?

 他人の出勤をあげつらう暇があるのであれば、当然の如く準備万端なのだろうね?

 ん?」


 鴉蘭の皮肉がこもった言葉に背筋を伸ばした龍人は、事前準備の報告も併せて行う。


「はい、採血用に小容量の注射筒シリンジと、27ゲージ(0.4mm)の注射針……それにウィルス検出用の遠心分離器も試運転済みです。

 後はフルディへの採血時に、鎮静剤を使用するかどうかの判断だけです」


 龍人の応えにふーんと面白くもなさそうな声で返す鴉蘭は、何かを思い付いたようにニヤリと笑った。


「来栖龍人君、鎮静剤は必要ないのじゃあないかな?

 君はアハスエルス氏の出血を、ゼロ距離で浴びても吸血鬼ウィルス感染症症候群ヴァンパイア・シンドロームに感染していなかった程のの者なのだからね。

 君なら興奮したフルディ嬢に噛み付かれたとしても、その豪運で何とか逃れられるのじゃあないかと僕は信じているよ。

 何せ朝から指導教授たる僕に噛み付いたと云うのに、何ら罰を受けなかったのだろう?

 今日は君にとって幸運が舞い降りる日のようであるから……挑戦チャレンジしてみて損はないのではないかねぇ?

 鎮静剤などを使用して、貴重なウィルス保菌者であるフルディ嬢に何かあったとしてはだしね」


 にべもなく非常な宣告をする鴉蘭に、龍人は絶望感で一杯の表情と声で応える。


「そんなぁ……紫合教授、朝の一件については伏してお詫びいたしますので……どうか再考の程を宜しくお願いします…………」


 朝の研究室には勝ち誇った鴉蘭の、乾いた高笑いだけが虚しく響いているだけだった。


 



 

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