第20話 激動の現実

 アハスエルスとの面談を終えた来栖龍人は、兵庫県立医科大学附属病院の精神科・特異診療部研究室に戻り、指導教授の紫合鴉蘭に向けた報告書レポートの作成とアハスエルス・鴉蘭・そして自分自身が署名する、実験用天竺鼠モルモットフルディに係る誓約書の作成を始めていた。


「う〜ん………フルディ関連の誓約書については、これで遺漏がない筈や。

 そやけど……今日の面談についての報告書なぁ………これが難題やねん。

 アハスエルスさんも話を、紫合教授が不在の折にブッ込んでくれたモンやで………。

 あないな話……普通の人間やったら信用してくれへんと思うけど、ウチの教授せんせいやったら『そうなんだね!それは良い情報だ!これからは中東の 以色列イスラエル巴勒斯坦パレスチナ方面に情報網アンテナを張り巡らせようじゃあないか』とか言い出しそうやなぁ………。

 いや……下手したら『そうなのかい来栖龍人君、それでは君はこれから中東の 以色列イスラエル巴勒斯坦パレスチナに向かって出張してくれ給え、ヤフシャ・ハマシアハを捕捉するまで帰って来なくても良いからね!』ぐらいのことは真顔で命令して来そうな恐れはあるかもなぁ………」


 頭を抱えてそのままガシガシと掻きむしる龍人の不安そうな声が、研究室に虚しく響いている。


「そやけど……あの勘の鋭い教授に報告もせんと隠しおおせる自信もあらへんしなぁ………。

 しゃあない!

 今日の面談については全部が全部洗いざらい吐き出ゲロして、紫合教授のお沙汰を座して待つだけや!

 えぇいっ!

 もう……どないとでもなったらエエねんっ!

 後は野となれ山となれっちゅうこっちゃ!」


 龍人が報告書式レポート用紙を、バサッと叩きつけるように置いた瞬間……研究室の扉が音もなく開放された。


「来栖龍人君、それは良い心がけだねぇ。

 君も僕に隠し事なんて出来っこないと云う、この研究室におけるに漸く気付いたのか。

 少しばかり遅きに失した感はあるものの、素直な考え方の教え子は……僕は嫌いではないよ」


 ビクゥッと身を震わせた龍人が入り口の扉を見ると、鴉蘭は相変わらずのニヤニヤ笑いを浮かべて教え子の方を楽しげに眺めている。


「ちょっ……!

 紫合教授!

 何でいつもアンタは、そないに都合タイミング良く登場しますのん!?

 今日は所用があるとかで、こちらには寄らんつもりやったんとちゃうんですか?

 ホンマにもう……この研究室に監視装置が据え付けられてへんか、本気で調べたくもなりますよ」


 やれやれと首を左右に振りながら、鴉蘭は龍人に向けて人差し指をビシッと突き付ける。


「来栖龍人君!

 もうそろそろ覚える努力はし給えよ、良い加減にしないと……さすがの僕も説明が面倒になって来るよ。

 誰が好き好んで君みたいな……のことを監視しなければならないのだね?

 まさか……君は……自分自身が重要人物で、常に身の回りの人間から監視され続けているだの、政府組織や他国の間諜スパイに追い回されているだの……見目麗しい深窓の令嬢に見初められて、自分の身辺調査をその令嬢の家族からされているだのと……聞くに耐えないような妄想に毒されている訳ではないだろうね?」


 最後の最後には憐れで可哀想なを見るような表情で、龍人の顔を心配げに見つめる鴉蘭だった。


「あの……ねぇ……俺が心配しとるのは、監視についての疑惑だけで、他の事象については何ら妄想も病質的な心配もしておりませんからっ!

 紫合教授、アンタはもうちょっと他人の精神を揺るがさんような動き……としての責任感ある行動をして欲しいんですけどねぇ。

 その件については、はっきりと通告させてもらいますよってに」


 憤慨のあまり指導教授への言葉遣いを亡失したような龍人の言にも、鴉蘭は何ら動じることなくニヤリと正義の側ではない笑顔を浮かべている。


「来栖龍人君、新任の研修医から言われても…そのような通告は受け入れられないし、受け入れるつもりも必要性も全く感じないのだがねぇ。

 そもそも精神医学の分野にその足を踏み入れた癖に、他人の行動原理を読もうともせず……他者から与えられる情報のみを頼りにするなどと云う無能さ加減は、僕の目から見ると、君の浅薄な見識にほとほと愛想が尽きてしまうよ。

 他人の行動を抑制しようなどと云う、邪な通告を僕にするぐらいならば……君が僕を読み切った上で、僕のをかいて僕を驚かせるくらいの行動を起こして見せ給えよ。

 それでこそ、この兵庫県立医科大学附属病院の精神科・特異診療部に所属している医師としての、来栖龍人医師の面目躍如と云うモノではないかね?」


 指導教授からの鋭い指摘に、龍人はグムゥ……と唸るような音を発して押し黙る。

 そんな教え子の姿に鴉蘭は、ニヤニヤ笑いを隠さず今日の報告を求めた。


「さて来栖龍人君、僕が不在にしている間に、何か有益な情報を得られたのかな?

 先程はと思い悩んでいたようだけれども、まあこの際だから……僕に直載に報告してみると云うのはどうだろうねぇ?」


 自身の懊悩を知ってか知らずか、鴉蘭の声は龍人に深く突き刺さった。


「あのう……紫合教授……私のことをお見通しだと仰るのは理解しとるんですが、ホンマに私の言っとることを聞いとったっちゅうことはないんです?」


 龍人の問いを鼻で笑い、鴉蘭は楽しそうな声で話す。


「まぁ……実際のところ『以色列イスラエル巴勒斯坦パレスチナが云々』とブツブツ独り言を呟いていた部分については、研究室の扉の前で聞こえていたのだけれどもね。

 聞き捨てならない世界情勢の変遷に、アハスエルス氏と来栖龍人君の面談が関わり合いがあるのかまでは不明なのだが、どうも僕の所用とも少しばかり関係があるような気もするので……その部分については取り急ぎ聴取しておきたいと思っているのだよ。

 僕に対して隠蔽工作は、出来るものではないと理解しているのだろう?

 さあ!

 さっさと白状ゲロして、スッキリした上で僕のを待ったらどうなんだい?」


 フゥ……と溜め息を一つ吐いた龍人は、ポツポツと本日の面談についての概要を鴉蘭に伝えた。


「…………………と云う訳で、アハスエルス氏との面談から、ヤフシャ・ハマシアハの再臨の可能性と……彼の顕現がもたらすであろうについての予測を、アハスエルス氏から聴取した次第なんです………」


 龍人の報告を聞き終えた鴉蘭は、フムと一声呟くと少しの間瞑目し……そしておもむろに目を開き龍人へと告げる。


「来栖龍人君、君からの報告を受けて……僕からも君へ……そしてアハスエルス氏へと伝えねばならないことがあるのだが、取り敢えずは君からこの事実を聞いてくれるかい?」


 先刻までのニヤニヤ笑いは影を潜め、珍しくも真顔となった鴉蘭は……龍人へ向けて問いかける。

 己が指導教授の常には見られぬ真剣にも見える表情と、いつもの自分を揶揄からかい皮肉めいた口調で揶揄やゆする言葉とも違う様子に……龍人は身を引き締める思いで応える。


「ええ……拝聴いたします。

 勿論……今日のアハスエルス氏と私の面談について、関わりのある内容のお話なんですよね?」


 鴉蘭はその真顔を保ったまま、大きく深く頷いて語り出した。


「うん……実はそうなんだ。

 今日のと云うのは、大阪にて厚労省……何故か外務省……そして警察庁警備部と僕による四名の担当者による合同の会談だったのだよ」


 茫然とした龍人は、鴉蘭の声を遮るように思わず呟いた。


「外務省……と警察庁警備部……ですか?」


 話の腰を折られた形の鴉蘭だったが、そのことに対して特に龍人を咎め立てすることもなく、補足説明を行った。


「そう……来栖龍人君、君にとっては意味不明の取り合わせに聞こえる四者会談だろうね?

 しかしながら、この日本国にて『彷徨える猶太人』たるアハスエルス氏をしていると云う事実が存在することは……中央省庁におけるこの三つの柱は、欠かすことが叶わぬ関係省庁となるのだよ。

 まぁ……外務省と警察庁警備部については、大臣や長官級の人物は預かり知らぬ事柄にて、厚生大臣から内閣総理大臣を通じて実務者が掻き集められた次第だったのだけれどもね。

 君は知らないのかもしれないけれど、警察庁警備部とはとも云うべき存在なのだよ。

 戦前における『』と同様の部署だと説明した方が、君にも伝わり易いのかも知れないね。

 取り敢えずは急遽の招集を請けた我々は、外務省の中東・阿弗利加アフリカ局の担当者の瞠目すべき報告から受け取ったのだ。

 それは『独立間際の以色列イスラエル国に近しい地域で、イエス・キリストを名乗る人物が突如として現れた』との内容であったのだ」


 ここまで話すと鴉蘭は、教え子の顔をチラリと見遣る。

 一方の龍人は愕然とした表情で大きく口を開き、そして少し血の気が引いたその額からは…一雫の冷や汗が流れ落ちる感触と同時に背筋を冷たいが走り抜けたような気配を感じていた。

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