第11話 二日目の朝

 差し込む朝日に顔を照らされて、来栖龍人は薄らと目を開けた。


「ここは……どこや………?

 何で……こんな所で………」


 寝惚け眼で上を見ると、見慣れぬ真っ白な天井が視界一杯に広がっている。

 少し慌てて寝返りを打つように横を見れば、そこにも何の装飾もない白い壁だけが立ちはだかっていた。


「………………??

 ……………!?

 …………あっ!

 そうか……昨夜は俺……、病院に泊まったんやったな………。

 それも……当直やうて、感染症の検査入院ってか………。

 ハッ!!

 ホンマに俺の人生、どないなっとるんやっ!

 徴兵検査は肺病で丙種合格やったから、戦地には行かんで済んだのに……念願叶って医師への道を歩こうと思たら、何が吸血鬼感染症やねん、何が吸血ウィルスやねん。

 着任早々に頭のおかしい指導教授を充てがわれるわ、担当患者は担当患者で……言うとる言葉は真っ当やけど、メスで頸動脈を掻き切っても死なんとか…あり得へんがな」


 兵庫県立医科大学附属病院の精神科・特異診療部の研究室に併設された己が居室で、寝台から上半身を起こした龍人は頭を抱えて懊悩していた。

 流石に初日からの激動に次ぐ激動が、龍人の精神を追い込んでしまっていたのだろう。


「おはよう!

 来栖龍人君!

 君はいつまでこんな所で、惰眠を貪れば気が済むのだね?

 不老不死のアハスエルス氏でもない限り、我々の使える時間は有限であることを覚えておき給え。


 それと………

 一体………誰の頭がおかしいんだい?

 訳の判らないことばかり言っていると、君の頭が心配されてしまう羽目に陥りかねないよ…こちらも要注意だね!


 ではさっさと用意を整えたら、研究室まで出頭し給えよっ!!」


 鋭い眼光に口元だけを綻ばした紫合鴉蘭は、ビシッと人差し指を龍人に突き付けると、ワッハッハッと高らかに笑いながら龍人の居室の扉を後手にピシャリと閉めて出て行った。

 物音も気配すらも発せずに侵入して来た鴉蘭を見送った龍人は、身震いと共に溜め息混じりの声を吐き出す。


「あの人は……ホンマもんのヤバい人やと思うんやけど………。

 申し訳ないけど、アハスエルス氏の方がな人間に見えるんよなぁ。

 昨日の話では軍属っちゅう訳はなかったやろうけど、戦時中に諜報員スパイの真似事みたいな仕事も請け負うてたみたいやし。

 まさか……この部屋も監視だの盗聴だの、そんなことされとる訳やないやろな」


 キョロキョロと周囲を窺う龍人の耳には、『君は愚かだな……君如きに見つかるような監視・盗聴装置など、僕が仕掛ける筈もないだろう。

 そんなことも理解出来ないのかね?』と、嘲笑を過分に含んだ鴉蘭の声が聞こえてくるような錯覚に陥った。

 湧き上がる怖気を振るって龍人は、居室に備え付けられたシャワー室で汗を流し、身繕いを整えると隣の研究室へノックの後に足を踏み入れる。


「やぁ、来栖龍人君!

 声をかけた後も、まだ惰眠を貪っていたのかい?

 余りにも遅いものだから、昨夜の採血用注射器を用いて目を覚ましてあげようかと思案していたところだったよ。

 それと……君みたいな小物の研修医を、監視することも盗聴することもと覚えておき給え。

 君から得られる情報など、年寄りの信じる科学的根拠のない迷信以下だと云うことは覚えておこうか」


 薄ら笑いを浮かべる鴉蘭の表情に、龍人の脳裏には昨日と同じ疑問が沸き起こる。


「あの……紫合教授、何で昨日から私の考えてることを詳細まで読み取られるんです?

 まさか……紫合教授にも、何らかの超常的な能力があったりするんですか?

 読心術とか、そう云った類のモノが………」


 龍人の問いに、鴉蘭はやれやれと云った表情で首を振りながら応える。


「来栖龍人君、君は本物の大馬鹿者なのかい?

 僕にそんな能力がある訳ないだろう、僕は身の回りに起こる超常的な逸話に興味を持ってはいるけれど、実際には現実主義的な科学の信徒……医学博士の紫合鴉蘭博士なのだよ。

 ところで君は、僕が何科の医師だと思っているんだね?

 僕はこう見えても精神科の医師なのだから、君のようなひよっこが考える疑念など、その表情と口調を見る限りにおいては百発百中……人間心理の深奥を読み取れずして、このような地位にまで上り詰められる訳がないだろう。

 さあ来栖龍人君、君の指導教授の偉大さに刮目し、この僕を尊敬し崇拝し給え。

 前向きで、僕にとって都合の良……いや僕に対して素直な教え子に対しては、僕も寛容な上司となるだろうからね」


 長口上で尊敬の念を押し売りしようとする鴉蘭に、龍人は疲れ果てた溜め息を伴う声で返答する。


「はぁ……そうですか。

 それならそれはそれで良いんですけど、尊敬だの何だのは……であって、紫合教授に強制される物ではないと云えるんと違いちゃいますの?」


 教え子であり部下でもある龍人からの真っ当な突っ込みに、鴉蘭はフンと鼻を鳴らして龍人の言葉を黙殺した。

 そんな上司であり指導教授でもある鴉蘭に対して、龍人は本日の予定について質問をしてみる。


「紫合教授、昨夜は簡易検査で終わったようなんですが……今朝は何か追加の検査予定があるんでしょうか?」


 龍人の問いに鴉蘭はニヤリと笑いながら、昨夜と同様の注射器を用意して構える。


「今朝も昨夜と同じく採血からだね、体質や体調によって吸血病の発症が遅れている可能性も否定は仕切れないのだからね。

 では……さっさと腕を出し給え」


 昨夜とは違う側の左腕を差し出す龍人に、鴉蘭は昨夜と同じく手際の良い採血を行う。


「チィッ!


 来栖龍人君……良かったじゃあないか。

 これで君のウィルス感染は、残念ながら否定されてしまったようだよ」


 昨夜の簡易検査とまるで同じ結果を目の当たりにし、鴉蘭は忌々しげな顔で龍人を睨むと……盛大な舌打ちで龍人に結果を伝えた。


「あ……ありがとうございます、紫合教授」


 ウィルス感染の恐怖から逃れられて、安心した龍人ではあったが……鴉蘭が心の底から本気で、龍人の陰性を悔しがっている様子には別の不安と恐怖を感じずにはいられなかった。


「あの……紫合教授、今日またアハスエルス氏の病室まで面談に行くのなら、事前に質問したいことがあるんですけども………。

 質問については、受け付けてくれるっちゅうことで宜しいですか?」


 龍人の問いに鴉蘭は、心底面倒臭そうな表情で応える。


「何だね……質問はさっさとし給え。

 先刻も言ったが、我々の時間には限りがあるのだからね」


 鴉蘭の冷たい返しに怯むことなく、龍人は自身の探究心に従って問いを投げかける。


「あの……アハスエルス氏が罹患している吸血病なんですけど、欧羅巴ヨーロッパ各地に存在している吸血鬼伝説と同一の存在モノだと考えて良い訳ですよね?」


 うん?と呟き片眉を上げた鴉蘭は、龍人へ続きの言葉を話すよう促す。


「吸血鬼と云う存在は、キリスト教から見ると排除されるべき存在なのですよね?

 夜の闇に紛れて人の生き血を啜る、忌むべき存在……反キリストとして認定されている筈です。

 そして彼等吸血鬼の弱点として、日光を浴びる・銀製の武器で攻撃する・聖別された十字架や聖水や聖餅を使用する・木の杭で心臓を貫く・大蒜ニンニクを忌避する等の伝承が存在しています。

 これらについて、キリスト教と関連する部分については……イエス・キリストがヤフシャ・ハマシアハであり、吸血鬼の始祖であると云う事実を踏まえて考察するに、隠蔽工作カモフラージュ的な対立図式としてヤフシャ・ハマシアハの側から漏洩された情報であると推定は可能だと思われます。

 その他の部分である日光や銀製武器に木の杭と大蒜……ですか、これらの効果効能について確かな情報はあるのでしょうか?

 アハスエルス氏の協力を得て、何らかの検証作業は行われたことはあるのでしょうか?

 もし……昨夜の話にあった、ヤフシャ・ハマシアハの一党がアハスエルス氏の身柄を求めて攻めて来た場合の防衛手段として、研究するに能う材料だと思うのですが…………」


 龍人の質問に対して鴉蘭は、大きく頷きそして真顔を以って回答を告げる。


「そうだ……君の言う通り、吸血鬼と呼ばれる存在についてその弱点と伝わっている物において、キリスト教由来の三種は恐らく対策案を撹乱させるためのフェイク情報だろう。

 こちらはアハスエルス氏に、協力を賜った上で検証済みとなっている。

 そして他の方法についても、いくつかは検証が終わっている。

 太陽光は有効な方法ではないとのことだ、アハスエルス氏が1900年に渡り太陽光の下で活動して来た経験則から導き出された結論だ。

 この伝承については、獲物を狩りやすい深夜に吸血鬼が行動することから来る逆説的な理論なのだろう。

 そして銀製武器の有効性についても、否定的な見解が示されている。

 ヤフシャ・ハマシアハが刑場で磔の刑に処された時に、両掌と両足を固定した釘が銀製であった故事に由来するものらしい……これもアハスエルス氏よりの伝聞だがね。

 氏の話からも磔の時に、ヤフシャ・ハマシアハは死していなかったことから……こちらも弱点としては除外対象となるだろう。

 そして何故か大蒜なのだが、これについてもアハスエルス氏は否定している。

 過去の市井での暮らしの中で、大蒜に遭遇することも多々あったが、拒否反応を示したことなど皆無であったそうだよ。

 実際のところ、木の杭で心臓を貫くと云う……万が一にもアハスエルス氏を失いかねない方法以外は検証済みなのだよ。

 そして木の杭についてだが、心臓や脳髄と云った、一撃が即死に繋がる部位以外への受傷はアハスエルス氏に何ら影響を与えなかった。

 となれば……こちらも推論に過ぎないのだが、木の杭が吸血鬼の滅殺に効果的であると云う論理は些かの無理筋であろうね。

 僕としては本意ではないのだけれど、吸血鬼感染症とそのウィルスの根絶を目指すのであれば、我々の採る方策としてはアハスエルス氏の体内を精査しを確立することに他ならないのだろう。

 それが特効薬の開発に依るものなのか、ウィルスを不活性化させるワクチンの生成なのかは不透明だけれどもね」


 着任初日から医学とはかけ離れ過ぎた、超常現象の連続を目の当たりにして来た龍人だったが、最終的な解決策として至極真っ当なが必要であると知り、ほんの少しだけ安堵した。

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