第10話 簡易検査の夜

「さて……来栖龍人君、為すべきことをさっさと為してしまおうじゃないか。


 兵庫県立医科大学附属病院の精神科・特異診療部に併設された研究室に戻った紫合鴉蘭教授は、患者である彷徨える猶太人……アハスエルスの血に塗れた来栖龍人の着替えを待って、満面の笑顔で右手に採血用の注射器を構えている。


『この人の……こう云う所がアカンのやろなぁ。

 どう見ても、真っ当な医師の姿やないで……の三文小説に出て来る、人体実験狂の科学者みたいな顔をしとるがな………』


 龍人の直属の上司であり、研修医として師事すべき指導教授の常軌を逸した態度に、龍人はそこはかとない恐怖と一抹の不安を覚えるのだった。


「さあさあ来栖龍人君、これから君にはウチにある一番太いの針と、一番容量の大きな注射筒シリンジで、採血をして貰わないといけないのだからね。

 相応の覚悟をして、検査に臨み給えよ」


 口を三日月型にしてニンマリと楽しそうな表情で迫り来る鴉蘭に、龍人は名状し難い恐怖を感じて質問の言葉を発する。


「ゆ……紫合教授、その針は18ゲージ(外径1.2mm)はあるんとちゃいますのん?

 何でまた、そないにふっとい針で採血をせなあきませんの?

 傷が大きくなって、止血にも時間が掛かりますやんか」


 怯える部下を見て、自身が握る注射器の針を見た鴉蘭は、面白くもなさそうな声で龍人に告げる。


「だって針が太くないと意味がないじゃないか、この血液検査は意図もあるのだからね。

 アハスエルス氏の言葉を、よぉく思い返してご覧?

 氏は感染直後の状態について、このように言ってなかったかい?



 とね。

 だからもし君が吸血ウィルスに感染していたならば、もう既に躰になっている筈だから安心し給えよ。

 そして君の望み通りウィルス感染が発生していなければ、注射痕から血が流れるだけの話だろう?」


 ウフフと笑いながら片手に注射器を掲げて龍人に迫り来る鴉蘭、その不気味な姿に恐怖を覚える龍人。

 有無を言わさず龍人の右袖を捲り上げた鴉蘭は、素早くアルコール綿で消毒し……見た目にそぐわぬ強い力で龍人の腕を押さえつけて、注射針を肘の内側に突き刺した。


「いっつうっ!」


 乱雑な行動に見せかけて、鴉蘭の刺した注射針は龍人の右腕の静脈へと一撃で突き立った。

 そこは流石に鴉蘭の医療技術スキルを感じさせる手技であった。

 それでも龍人が痛がるのは、注射針の太さが通常の採血用の注射器よりも太かったことに他ならない。

 太い針を通過して行く龍人の血液は、みるみる内に注射筒の中を赤黒い静脈血で満たしてゆく。

 龍人の眼に映るそのドロリとした液体は、何の変哲もない普通の血液にしか見えなかった。


「さて……こんなモノかな?

 来栖龍人君……今から針を抜くので、きちんとアルコール綿で圧迫をし給えよ。

 その前に、出血が続くのか止まるのか……自分で視認することも忘れないようにね」


 冷徹とも言える声音で注射針を龍人の右腕から素早く抜き取る鴉蘭、その眼は何者をも見透すような鋭さで部下の右腕に穿たれた注射痕を注視している。

 龍人も己の運命を決定付ける、小さな赤い傷痕から目を離せずにいた。

 龍人の右腕からプクリと赤い血の玉が沸き上がり、みるみる内に表面張力を突き破り一筋の流れとなって腕から滴り落ちる。

 アルコール綿を左手に持った龍人は、慌ててその血液の流れを掬い取り……傷口を軽く押さえる。

 もう一度、注射痕からアルコール綿を離した龍人の目には、小さな穴から再度湧き上がる血液の丸い粒が視認された。


『血が……止まらん。

 大丈夫……やったんか………?』


 フゥーッと魂から直接溢れたような吐息を吐くと、龍人は縋るような目で鴉蘭の顔を窺う。

 龍人と目線を合わせた鴉蘭は、さもつまらない物を見てしまったと云うような表情で、平板な声を以て彼の部下へ結果を伝える。


「ふん……今現在では、君の躰が吸血ウィルスに感染していない可能性が非常に強いみたいだね、来栖龍人君。

 それでは次に、君から採取した血液を落下させてみよう。

 過去にアハスエルス氏から採取した血液を、誤って床に零したことがあったのだけれど……その時の血液は床で一瞬のみんだよ。

 まるで断末魔の苦しみに悶え苦しむ、原形質の生物のようだったな」


 そう言うと鴉蘭は、注射器を下に向けてそのピストンを軽く押した。


 ポタリ………ペタン………ポタリ………ペタン…………


 龍人の血液がリノリウムの白い床に数滴ほど落ちて、床の上で静脈血の赤黒い色と人工的で清潔な白とで美しいコントラストを描く。

 しかして龍人の血液だった赤い液体は、白い床の上で太陽の出来損ないのように弾けたままで微動だにしない。


「チッ!」


 その様子を凝視していた鴉蘭は、龍人に向かって吐き捨てるように告げる。


「と……云う訳だ、今夜は君が新たな感染者となった兆候しるしは見当たらないようだね。

 続きの検査はまた明朝に行おう、今夜はこの床の忌々しい汚れを清掃してから休み給え。

 この研究室の東側にあるのが僕の居室、そして研究室を挟んだ反対側が君の居室だ。

 何か質問があれば、今の内に聞いておき給えよ」


 常態よりもいささか不機嫌となった指導教授の姿に、龍人は少し気後れしながらも言葉を返す。


「あの……紫合教授、もしかして私が感染してなかったことをホンマに残念やと思てやいません………?

 簡易検査の後から、エゲツないぐらいにご機嫌が斜めなんですけど………」


 フンと鼻息も荒く、不機嫌そうな顔付きで鴉蘭は告げる。


「そんなことはないだろう来栖龍人君、人聞きの悪いことを言うのは止め給え。

 まさか僕が、可愛い部下が感染しているのを待ち望んでいるみたいに聞こえるじゃあないか。

 せっかくの新規感染者を逃したからと云って、僕が残念だと思うなんて……君こそが失礼な考え方をしていると思うよ。

 全く……役に立たない研修医だよ、君は」


 やはり龍人の印象はピタリと的中していたのだろう、支離滅裂な苛立ちをぶつけて来る鴉蘭に龍人は首を竦める。


「はぁ……申し訳ありません、それと申し訳ないついでに後いくつか質問があるんですけど………」


 片眉を上げた鴉蘭は、不機嫌に不機嫌を重ね掛けをしたような表情で応える。


「何だね……次から次へと、要件があるならサッサと済ませ給え」


 はぁ……と溜め息混じりの返事をした龍人は、鴉蘭に向かって話してみる。


「えぇ……実は紫合教授にはお話をしていなかったんですが、今朝の着任辞令を授与された時に、辞令文書で左手の指に裂傷を負うてしもとるんです。

 普通の感染症やったら、傷口が感染源となることなんてゴマンとあると思うんですが……私の場合はそれにも該当しておらんようなので………」


 龍人の話を聞いた鴉蘭は、一瞬で眼の色を変えて龍人に歩み寄る。


「来栖龍人君、君は何故にそんな大切なことを今更になって言うのだね!

 ちょっと、その裂傷を見せ給え!」


 余りの剣幕に龍人は自身の左掌を、鴉蘭に差し出す。


「ほぅ……これは……見事にパックリ割れているねぇ。

 この手で止血時に血を浴びたのに、君は吸血ウィルスに感染はしていなかったと……ふぅむ………」


 遠慮容赦なしに龍人の掌を探り、剰え傷口を広げるような行為に及ぶ鴉蘭。


「イテッ!

 痛たたたたっ!

 そないに広げられたら、傷口が割れてしまいますって!」


 余りの所業に慌てて己の左掌を、引き戻して庇う龍人。

 そんな姿を面白くもなさそうな眼で見つめた鴉蘭は、龍人に問いを投げ掛ける。


「で……来栖龍人君、君はこの状況をどう見るね?

 君の見解をきっちりと、聞かせて貰おうじゃないか」


 指導教授からの問いに、龍人は左手を振りながら痛みを堪えて応える。


「えっ?

 あぁ……私の見解ですか?

 う〜ん……どないなモンなんですかねぇ。

 取り敢えず傷口に血液が付着したのに、私は感染していなかった。

 これは吸血ウィルスの感染経路として、宿ウィルスなのか、はたまた宿ウィルスなのか……もしくはが、不老不死の吸血鬼を創造可能な存在である……感染経路が一点に限定される感染症だと仮定出来ますかね。

 後者二点の場合は科学的に想定し難い案件ではあるのですが、本日……私が体験したな諸々の事象と照らし合わせると、可能性として捨て切れる物ではないのでは……と思います」


 龍人の回答に満足したのか、鴉蘭は瞬く間に機嫌の方向を上方修正した。


「良いねぇ、来栖龍人君。

 君も我が特異診療部の思考と方向性について、かなり理解して来たようじゃあないか。

 君の予想についての検証には、アハスエルス氏の力添えが必要となるのだけど…氏は自分の口から生物の血を吸うことについて頑なに拒否しているだろう?

 採血した血液を天竺鼠に与える実験についても、この数年で初めて許諾を得たようなモノだったからねぇ。

 では…来栖龍人君、君に明日以降の業務指示を行う。

 明日から君はアハスエルス氏から、よう氏の理解と協力を得るために尽力してくれ給え。

 これは必須事項であり、業務命令として文書化する公式の命令となるからね。

 失敗は即ち君の失職に繋がる旨は、事前通知しておこう」


 それではまた明日と、爽やかな笑顔で言い残した紫合鴉蘭の背を見送る来栖龍人は、悲しみに満ちた声で呟く。


「アカン……あの人は……上司にしたらアカン類の人間や…………。

 いや……と云うよりも……人生で関わり合いになったらアカン人間や………」


 茫然と閉じられた扉を見つめる龍人の声は、研究室の壁に吸い込まれるだけだった。

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