第12話 病理学上の奇跡
兵庫県立医科大学附属病院の精神科・特異診療部、そこに附帯する地下特別病棟に、紫合鴉蘭と来栖龍人は再びの訪問を敢行していた。
新任の研修医である龍人の感じた疑問について、入院患者である『彷徨える猶太人』アハスエルスの回答を得ることが主目的の面談を行うためである。
「さあ来栖龍人君、本日で二度目となるアハスエルス氏との面談だけれども……どうだい一晩の惰眠を貪った後では、より良い面談にて氏との信頼関係を構築できそうかい?
それに加えて、君には新たなる使命も果たして貰わないといけないのだけれどねぇ」
鴉蘭の軽口じみた無茶振りにも近しい
「紫合教授……面談については昨日からの継続として、アハスエルス氏の協力を得られるとは思うんですが……
それに、明治23年以降の60年にも渡ってこの地で過ごしているアハスエルス氏に、今更ながらの嘆願をせなアカンとか……紫合教授以前に係る全ての担当医の職務怠慢を、私に押し付けようとしとるだけやないんですか?
凡そ過去の先輩医師の皆様も、私と同じような仮説に辿り着いて、アハスエルス氏へ同様の実験への協力を願い出たんやないんですか?
その辺りの結果について、私に何の開示もせんまま私の身分を盾に取るなんて……それは横暴の極みとも取られかねん話ですやん。
そこら辺りの認識について、指導教授たる紫合教授にはご説明を賜りたいと思っとりますんやけど?」
最終的には詰問口調となった龍人の問いに、鴉蘭は口をモゴモゴと動かしながらも回答する。
「い……いや、それはそのう……過去にも何度かアハスエルス氏にお願いはしてみたのだがね、けんもほろろと云うか……何と云うか、アハスエルス氏からの承諾はどうしても得られなかったのが実情なのだよ。
そこで君の登場だ、どう云う訳だか君は……アハスエルス氏の信頼を初日にして大きく勝ち取ったようなのだ。
今でこそアハスエルス氏と僕の間には信頼関係が築けているが、当初……君のような立ち位置に居た時には会話はおろか、眼すら合わせてくれないような有様だったのだよ。
来栖龍人君、君は本当に不可思議な存在だよ、初対面からアハスエルス氏にあそこまで話をさせるとは……君のその不吉なまでに貧相なご面相が功を奏したのかな?
いやはやそれよりも、君を選んだ僕の慧眼の賜物ってヤツだろうね。
兎にも角にも『使える物は研修医でも使え』と云う医学界に古くから伝わる伝承に則り、君の……いや君にしか出来ない特命として、アハスエルス氏の承諾を取り付けてくれ給え。
来栖龍人君…頼むっ!この通りだっ!!」
最後にはひれ伏さんばかりの態度で懇願する鴉蘭、その態度に絆されたか……龍人は『どうでも良いけどこのオッさん……さり気なく人の顔のことをボロカスに
「顔を上げて下さいよ紫合教授、判った、判りましたから……私からも頼んではみますけど、アハスエルス氏の返答がどないなモンでも、私にその責任は押し付けないってことで良いですね?」
龍人の念押しに鴉蘭はパッと面を輝かせて、ウンウンと頷く。
「それでは来栖龍人君、宜しく頼むよ。
あ、そうそう……もしアハスエルス氏から了承が得られたならば、ここに用意してある天竺鼠を実証実験に使用してくれ給え。
アハスエルス氏の気が変わらない内に、可及的速やかにね」
そう言いながら鴉蘭は懐から一匹の天竺鼠を取り出し、その頭を撫でながら龍人に告げる。
「アンタ……最初からそれ狙いなんやないかいっ!
ホンマにもう、恐ろしいお人やで…………」
悪戯が大成功した子供のような顔をニヤリと歪ませて、鴉蘭は龍人をアハスエルスの待つ病室へと誘う。
「さあさあ来栖龍人君、本日のアハスエルス氏との面談に気合いを入れ給えよ。
色々な意味で僕は君に期待しているのだからね、指導教授の期待を裏切らぬよう注力して臨んでくれ給えよ」
鴉蘭の軽やかな弁舌を耳にして、龍人は大きく深い溜め息を吐いた。
『この……頭のおかしいオッさんはどもならんな……どもならんけど
教え子の引き締まった顔を見て、第一の扉を開ける鴉蘭の顔には龍人を嵌めた会心の笑みが浮かんでいたことに……幸か不幸か龍人は気付くことなく指導教授の後へと続いた。
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アハスエルスの病室へと続く第二の扉を、彼の許諾を得て潜った鴉蘭と龍人。
二人の眼前には、昨日と何ら変わらぬ姿勢で寝台に腰掛けるアハスエルスの姿があった。
アハスエルスの時間がそのまま静止し、二人が立ち去った後に一時停止され…入室後にまた凍り付いた時間が動き出したような錯覚を龍人は覚えた。
「紫合先生、それに来栖さん、昨日以来ですね。
時に来栖さん……私の血を浴びたことで良からぬ事態が起こっていなければ良いのですが………」
昨夜は指導教授から散々な目に遭わされた龍人は、アハスエルスの真心がこもった気遣わしげな声に……思わず目頭が熱くなる思いがした。
「ええ……安心して下さいアハスエルスさん、紫合教授は残念そうでしたけれども……私は吸血鬼ウィルス感染症に罹患はしていなかったようです」
龍人の第一声を聞いたアハスエルスは、ホッとしたように言葉を続ける。
「それは良かった、紫合先生からの依頼で自傷行為に及んでしまいましたが……来栖さんがもし私のような躰となってしまったとしたら、責任の取りようもなかったものですから……来栖さん、本当に良かったです」
アハスエルスの言葉に、龍人も感謝の言葉を返す。
「いや……私の方こそ何も考えずに行動して、アハスエルスさんにご心労をお掛けしてしまい、ホンマに申し訳ありませんでした。
紫合教授から事前情報を得ていなかったとは云え、自分の向こう見ずさ加減に呆れるばかりですよ」
アハスエルスに他意はなかったのだろうが、龍人は他意をふんぷんに漂わせて紫合鴉蘭を吊るし上げようとするのだが……こちらは一向に良心の呵責を感じたような気配もなく、穏やかな表情で二人の会話を見守り頷いている。
「アハスエルスさん、来栖龍人君は残念……いや幸運にも吸血ウィルスに感染していなかった模様で、昨夜も今朝も簡易検査の結果はシロだったよ。
凡そ精密な血液検査の結果も、推して知るべきだろうね。
これからは衛生管理にも充分に留意して、検査を行わねばならないなぁ」
アハハと高笑いを発する鴉蘭を、アハスエルスは苦笑いを浮かべて見遣り、また一方の龍人は忌々しげな表情で睨め付ける。
「あぁ来栖龍人君の貴重な面談時間を邪魔してしまったようだね、中断させて申し訳ない……それでは引き続き面談を執り行ってくれ給え」
クルクルと表情を変え、今度は本心からの真顔を貼り付けた鴉蘭は、業務の遂行を龍人に求める。
「アハスエルスさん、昨日の面談で触れられてはいない件について……私から幾つかの質問をさせて戴いても宜しいですか?」
龍人の言葉に、無言で頷き同意するアハスエルス。
「では最初の質問から……白痴の如き青年であったヤフシャ・ハマシアハは生家から行方不明となり、数ヶ月後に帰宅した際には才気煥発で弁の立つ……我々が知るイエス・キリスト像に見合う人物へと変異した訳ですが、ヤフシャ・ハマシアハの述べた『神の啓示を受けた』や『神の御業を賜わった』等と云う眉唾ものの話ではなく、何か彼の生誕地であるナザレ……いやナツレト市でしたか……の近郊や古代猶太の荒野において、人間を突如として変化させ得るような風土病の噂を聞いたことはありませんか?
私自身には往時の情報がまるでありませんので、アハスエルスさんが何かご存知であればと思っているのですが」
龍人の問いに、アハスエルスは遠く1900年前の猶太の地へと思いを馳せるような眼をしている。
「来栖さん、貴方が考えておられるのはヤフシャ・ハマシアハが出奔し失踪していた時に、何らかの風土病的な感染症に罹患したのではないかと云う疑念なのですね?」
ええそうですと呟き、龍人は重々しく首肯する。
「では……これは猶太に……いや中東から欧羅巴にも広く伝わる伝承なので、科学的根拠にも乏しい話なのですが、確かに私がまだ人間であった頃に聞いたことがある話です。
荒野を旅する旅人が、夜の闇に紛れた黒い獣に咬まれると……咬まれた人間もまた獣のように変異し、二度とは人間に戻れなくなると云う伝説がありました。
恐らくは人狼伝説のはしりとも云うべき話ですが、そもそもの人狼伝説とは狂犬病の病態を指す変異であり、知能や意識が以前を上回るような内容の話ではありません。
そして中東の風土病と云えば、川の生水を飲むことで感染する寄生虫由来の感染症……住吸血虫症が私がエルサレム市で暮らしていた時代にも確かな病として存在していましたね。
こちらの病も内臓疾患で腹水が溜まったり、吐血したり皮膚炎を引き起こす等の病態で……知能に影響を及ぼすようなものではなかったかと思います。
ヤフシャ・ハマシアハが出奔し放浪したナツレト市近郊の荒野は、両方の病気に感染し易い環境にあったとは想定されますが………」
アハスエルスの言葉に瞑目し、考え込んでいた龍人だったが……ふと目を上げると自身の疑念を口に出す。
「もし……狂犬病と住吸血虫症に同時期に罹患したとすればどうなるのでしょう?
狂犬病と云えば強毒性で感染者の唾液を媒介とし感染力も強く、致死率も非常に高いが……嫌気性の性質を持ちウィルス自体が死滅するのに容易い。
住吸血虫症は経口摂取が主たる感染源で、感染力や致死率がそこまで高い訳ではないが……慢性的に宿主に寄生し、罹患した宿主を殺そうとせずに生かそうとする。
もし……性質の違いすぎる二種の感染症が、何らかの科学的結合を奇跡的に起こし、完全に別種の感染症へと進化したとしたら…唾液を媒介とし感染者を瞬間的に仮死状態として生きながらえさせ、他者の血を吸うことで栄養補給をするような病態を発症させる。
そのような激変感染症が誕生する可能性は、確率論的にはゼロに近いがゼロではないと思われます。
そして……宿主を生かすためにこそ肉体的な欠損を即時再生し、もしも先天的な障碍があればそれすらも治癒させる……と云うような仮説は立てられないものでしょうか?」
龍人の言葉を聞いたアハスエルスは、物思いに耽るような表情で黙りこくってしまう。
そして……医学博士の紫合鴉蘭教授だけが、その言葉の後に続いて大きな音を立てて拍手をし、来栖龍人の仮説に賞賛の声を発した。
「ブラーヴォー!
最高だよ、来栖龍人君。
君の仮説・推論は僕の仮説に最も近付いた回答だよっ!!」
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