第35話 夏実の入部と、くずはの温泉旅行計画1

 甲子園予選開始直前となる水曜日。

 なんとか無事に転校してきた暁烏夏実が、野球部に正式入部した。

 なにも聞いていなかった西神田は当然驚いた。


「え、夏実? どうしてこの学校に?」

「センパイ……話は全部聞きました! 本っ当に申し訳ありませんでしたッッ!!」


 出会うなり泣きながら土下座をかます後輩に、西神田の頭が真っ白になる。


「え、えと、一体なにがあったの夏実? 大丈夫? 癒しマッサージする?」

「色々ありすぎてもう何が何だか……あとこの状況でウチが頼むのはすっごく厚かましいんですが、もしセンパイがいいんなら癒しマッサージ──お願いしますっ!」


 部室でふにふにと筋肉を揉みながら、夏実の話を聞く。

 中でも、ミーティング時に監督に退部届を叩きつけたシーンでは、聞いていた西神田が思わず絶句してしまった。


「──それでウチ、監督とか顧問とかキャプテンとか睨み付けながら、本気でぶっ殺したいって黒い衝動が止まらなくって、でも同時に今までなんも考えずにいた自分自身が情けなくて、センパイに申し訳なさ過ぎて……消えてなくなりたくて……」

「そっか。夏実はぼくのために怒ってくれたんだね?」

「そ、そんな格好いいものじゃ……そこ気持ちいいれすっ」


 夏実の反論が、優しい手つきの癒しマッサージ一回で封殺される。

 筋肉の芯から浸み出るような快楽に、夏実は自分の身体のみならず心までなんだかポカポカしてくる気がした。


 もちろんそんな二人の様子は、部室の外から他の野球部員みんなに覗き見……されなかった。

 正確に言うなら、覗き見しようとした部員はいたが、くずはにぶん殴られて地獄の特訓に強制連行されていたのだ。


「弟くんの癒しマッサージを無断で覗こうとするとか、マジで万死に値するからね? ……ボクだって見たいの我慢してるのに」


 その日の野球部の練習の様子は、凄惨の一言に尽きた。 

 今まで一番キツいと思っていた涼葉の練習すらまだ生ぬるい地獄を、野球部員たちは味わうことになる。

 その中でも覗きをしようとした張本人は、後日「練習中にいっそ殺してくれって何度思ったか分からなかったっす」と、しみじみ語ったのだった。


 ****


 まさに無間地獄のような練習がようやく終わり、部員はみんな帰って野球部部室に残るのは西神田とくずはのみ。


「──ねえ弟くん。お姉ちゃん大変だったんだよ」

「くずはさん?」

「あのバカ……夏実ってば滅茶苦茶な退部と転校の仕方だったからね、高野連との調整がすごく面倒で」

「えっ? それって……!」

「でもお姉ちゃん頑張って、なんとか今年の甲子園出場、オッケーにしてもらったから」

「くずはお姉ちゃんすごい! ありがとう!」

「く、くずはお姉ちゃん……!?」


 思わず胸に飛び込んできた西神田を抱きしめながら、くずはが感動に打ち震える。

 くずはお姉ちゃん……なんて甘美な響き。

 くずはお姉ちゃん。

 それは弟くんの感情が高ぶったとき、ごく稀にでる言い間違い。


 くずはが、いつもそう呼んでいいと何度言っても、遠慮して絶対そう呼んでくれない。

 だからこそ、この言い間違いは宝石のように貴重なのだ。


 このまま滅茶苦茶に癒しマッサージで揉みほぐされたいという、けものの本能を無理矢理ねじ伏せて、くずはが当初の計画を実行に移す。

 夏実が出場できるかどうかなど、くずはにとって実はどうだって構わない。

 これからが本番なのだ。


「それでね弟くん。お姉ちゃん、頑張ったご褒美が欲しいな?」

「もちろんだよ。……ごめんなさい、お姉ちゃんには最近とくにお世話になりっぱなしなのに、ずっとお礼できてなくて」

「そんなこと全然ないよ、だから気にしないで」

「ねえ、ご褒美なにがいいかな? ぼくできる限り頑張るよ!」


 暖かい言葉を掛けられて、くずはが思わずホロリとする。

 今すぐ「いいんだよ、お姉ちゃんは弟くんのその言葉だけで元気になるんだからね?」って言いながらギュッと抱きしめたい。

 ついでにそのまま処女喪失セレブレーションファックになだれ込みたい。


 けれどそこは策士くずは、ぐっと堪えて獲物を罠に誘い込むのだった。

 くずはがそんな内心のあれやこれやを悟らせない完璧な表情で、西神田に微笑みかける。


「ありがとう。──実はお姉ちゃんのご褒美にね、弟くんにちょっと付き合って欲しいところがあるんだ」

「どこ? どこでも行くよ!」

「それをこれから、弟くんと一緒に選ぼうと思って」


 くずはが鞄を取り出すと、その中から大量のパンフレットが出てきた。


「お姉ちゃんと一緒にお泊まり温泉旅行、行こっ?」

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