第11話 渚が野球部を辞めた日2

 男子マネージャー10人に癒しマッサージされた翌日の朝、渚は西神田家の玄関前にいた。

 チャイムを押して出てきたのは、残念ながら西神田ではなく、西神田の妹の涼葉だった。


「……あの。ボク、野球部の篠宮渚といいます。えっと……」

「わっ……! ホンモノの渚ちゃんですね、サイン貰っていいですか?」

「……あ、えと……その……?」

「酷いですよね? 兄さんに、渚ちゃんのサイン貰ってねって何度も頼んでるのに、いっつも渚ちゃんの練習の邪魔になるからって断られるんですよ?」

「……そうなんだ……べつに構わないけど」


 涼葉は知らなかったけれど、渚は大変な人気者である一方、サインをことごとく拒否することでも有名だった。

 自分の本分はあくまで野球をプレイすることであり、字を書くことではないというのがその理由だ。

 それに誰にも話したことはないが、渚は自分のヘタクソな字にコンプレックスを持っていた。

 だから、たとえ監督や校長が相手でも、サインを頼まれたら断っていた。


「はい、色紙持ってきました。お願いします」

「さらさらっと……汚い字でごめんなさい」

「とんでもないです。へえ、渚さんってサイン風な字じゃなくて、普通に名前を書くんですね」


 西神田涼葉は自分が貰ったサインがどれだけ貴重なものか、まったく理解していなかった。

 渚としてもそれを説明する気はない。

 相手が監督や校長ならいくらでも断れるが、いつも渚がお世話になりっぱなし、迷惑かけっぱなしのマネージャーの、その妹にサインを求められて断るなど、絶対にあり得ないことだったから。

 もっとも兄妹の仲が険悪ならばその限りではないけれど、見たところ仲は良さそうな感じだ。


「えっと、兄さんに用事ですよね? でも兄さん昨日からいませんけど?」

「えっ……」

「どこかの合宿に呼ばれたって言ってましたけど。野球部のみなさんには、何か言っていきませんでした?」

「……うん」

「どうしたのかな? ちょっと兄さんの携帯に掛けてみますね」


 涼葉が携帯をコールするものの、兄も、そして兄を連れて行ったくずはも電話に出なかった。

 ならばとくずはの妹の璃沙りさに掛けると、こちらは電話が繋がった。


「璃沙ちゃんですか? はい、おはようございます──」


「──それでですね、兄さんがどこに行ったのか知りたくてですね──」


「──はい、具体的には聞いてないんですよ。それで野球部にも言ってないらしくて、いま目の前に渚さんが──はい、あの篠宮渚さんですよ──」


「──え? 渚さんが直接ウチに来たら教えてやってもいい? これるもんなら来てみろ? それどういう意味ですか──あっ、切れちゃいました」


 涼葉が困った顔を渚に向けて、肩をすくめた。


「意味が良く分からないですけど、渚ちゃんが自分で家に行けば教えるって言ってます」

「……それで教えてくれるなら、行く」

「そうですか? では地図を書きますね、すぐ近くなので」


 もし涼葉がこの時点で、自分の兄が野球部を追放されたと聞いていたら。

 もし涼葉が、兄が追放されたことを璃沙が知っていると分かっていたら。

 涼葉は決して、渚を璃沙の家に案内することはなかっただろう。

 涼葉が渚に佐倉前家を紹介するのは、渚が兄と同じ野球部の仲間でかつ有名人であり、大丈夫だろうという理由に過ぎないのだから。

 そもそも涼葉が兄から野球部追放のことを聞かされていたら、この時点で渚は門前払いされていたに違いないけれど。


「ほんとは涼葉も一緒に行きたいんですけど、そろそろ学校に行かなければいけないので。すみません」

「……ううん、とても助かった。ありがとう」


 渚が簡潔に礼を言って、佐倉前家へと向かう。

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