第6話 全日本女子陸上強化合宿2 食堂にて
合宿初日の夜、西神田がくずはに連れられて食堂に入ると、中にいた人間の注目がババッと二人に集まった。
「さすがくずはさん。みんなから滅茶苦茶注目されてるね?」
「こ、これは……ちょっと舐めてたかも……」
「えっ?」
「……考えてみればここにいるのは全員、記録向上に貪欲な肉食獣ばっかりなのよね。でもそれにしても弟くんの天才に、あんな遠くから気付くなんて……」
「くずはさん、どうしたの? 小声でぶつぶつ言って」
「う、ううん? なんでもないよ、ただの独り言」
注目を浴びていたのは、くずはの方ではなかったのだが、本人は露ほども理解していない。
食事を受け取って席に着くと、西神田が申し訳なさそうに頭を下げた。
「くずはさん、今日は本当にごめんね。マッサージに夢中になっちゃって、気付いたら一時間以上もやっちゃったなんて……もうこんな事が無いように気をつけるから」
「えっ、そんなの気にしないでいいよ? 今日の癒しマッサージは弟くんの歴代マッサージ中でも、過去最高レベルの気持ちよさだったし……」
「そうなんだ……いつもならマッサージするとき激しくしすぎないようにしてるんだけど、野球部のみんなを癒しマッサージしなくなっちゃったから……微妙な揉み加減がコントロールできなかったかも……」
「だからいいんだってば。もう、そんな悲しそうな顔しちゃダメだよ?」
あのね、とくずはが口を寄せて囁いた。
「今日、お姉ちゃんは弟くんの癒しマッサージのおかげで、非公式だけど世界記録を大幅に更新しちゃいました」
「えっ!? ホントに!?」
「大声で話しちゃダメだよ? お姉ちゃん、無駄に騒がれるの好きじゃないから」
騒がれるのが好きじゃないのは自分が弟くんと呼んでいる存在のことで、自分の記録のことではないけれどそこは詳しく話さなかった。
くずはにしてみれば、自分が受けているゴッドハンド癒しマッサージが記録に直結したのは間違いないわけで、分けて話す必然性などまるで感じていない。
西神田とくずはが話している間、周囲の人間はどうにかして二人に話しかけるチャンスを窺っていた。
正確に言うと、この際くずははどうでもいい。
くずはが連れてきたあの初めて見る男の子に、どうしても話しかけたい。
あわよくば仲良くなって、個室なんかにお邪魔したりして、ガン見していた選手全員が嫉妬した、
けれど少しでも近寄ろうとすると、くずはが人殺しの目で睨んでくるので、どうしても近寄れないのだった。
霊長類最速女子、佐倉前くずはには一つの有名な伝説がある。
曰く、くずはは絶対に、絶対に体調を崩さない。
いついかなる大会の時でも、必ず最高のコンディションに仕上げてくるのだ、と。
その逸話が誇張無く真実だと知っている関係者は多くても、それがどうやってなされているかは今まで秘密のベールに包まれていた。
しかし今日、少なくともその秘密の一部が、唐突に明らかになった。
勘のいいトップ選手数人はすでに気付いている。
そうでない残りの大半も、くずはの体調維持に西神田が関係しているのは鋭く感じ取っていた。
アスリートは運動神経だけでは一流止まり。
鋭い観察力がなくては、本当に世界最高峰の選手にはなれない。
自分が圧倒的すぎる成績を残してきたくずはは、その点すこし鈍感だった。
さすがに今では失態に気付いて、心の中では滅茶苦茶慌てふためいている。
「……くずはさん、ありがとう」
「えっと、どうしたの? 弟くんに突然お礼されても」
「ちょっと強引にここまで連れてきてくれたのは、ぼくを励まそうとしてくれたからだよね? だからありがとうだよ。それに今日、くずはさんの練習直後で硬くなった筋肉を揉みほぐしたことでぼく、なんだか元気出た。野球部にいなくてもぼくが役立てるところはあるんだぞ、って気になった。だからありがとう、くずはさん」
「お、弟くん……!」
違うんだよ弟くん、ボク自慢の弟くんを見せびらかしたかっただけなんだ。
あといっつもボクの練習とか合宿に誘っても遠慮して来なかったけど、今ならOK貰えるかもって打算で誘ったんだよ!
──などという真実に蓋をして、くずはが優しい微笑みで頷き返した。
やばい、今夜これ処女喪失しちゃうかもしんない。
まだ成人してない男子にエッチなことを迫るのは女性として絶対しちゃいけない大罪だけど、男子から誘う分には問題ないもん。男の子の貞操観念は滅茶苦茶硬いから恋人同士ても男子から言い出すなんて普通は絶対ありえないけど、でもひょっとして部屋に戻ったら弟くんがボクに告白、その勢いで二人の青い春が一つに迸っちゃったりして──♡
脳内でどピンク妄想をたぎらせるくずはは、周囲の警戒と威嚇をその時怠ってしまった。
その結果、くずはに冷や水を浴びせる声が、西神田の背後からかけられることになる。
「えっと……ひょっとして委員長?」
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