兵頭玄一

 回想

 

 いつものように父が飲んだくれて帰ってきたとき、坂野美沙は言いようのない不安に苛まれた。とても恐ろしい予感のようなものが、全身を凍りつかせていた。というのも夜中に帰って来て、早々に勇二をかなり離れたコンビニまで煙草一つ買わせるためにつかいにやったのが、そもそも父の奸計かんけいであってその隙に酒の力に任せて中二の美沙を殴りつけた上に、力ずくで犯してしまったのだ。


 坂野剛三は実の父ではない。母、時枝の再婚の相手なのだが、もうこの時は時枝は病死していてこの世にはいなかった。なんという不幸な出来事なのだろう。

 勇二がコンビニから帰ったときには美沙は、スカートの裾をおさえておいおい泣くばかりで決して兄の顔を見ようとはしなかった。あの時の憤怒と救いようもない絶望が今でも美沙の心の中に冷凍されている。


 剛三の鬼畜のような悪行はこの日ばかりに留まらなかった。

 ある時、障子越しに自分の妹が父に犯されているのを覗き見したとき、中三の勇二の心に抜き差しならぬ殺意が芽生えた。勇二の感情は研ぎ澄ました理性と並行して鋭い刃物のように冷やかに光っていた。


 ――夜、

 雨が降っていた。折から近づく低気圧に颶風が吹きすさんで舗装のない小径はぬかるんでいた。そんな中に美沙はサンダルをつっかけて駆け出した。彼女は剛三の手を逃れたくて外に飛び出したのだ。

 剛三が美沙を追い、その後をやせっぽちの兄の勇二が追いかけた。勇二の手に握りしめた包丁に、悲哀と復讐とが凝結していた。ぬかるみに足をとられて美沙がそこに転ぶと、剛三は立ち止って真っ赤な顔をして美沙を暫らく見下ろしてから美沙の白い手をぐいっと引っ張った。


 そのタイミングで勇二は包丁を背後から振り下ろした。包丁が剛三の背に刺さった。しかし剛三は物凄い形相で勇二を振り返ると、怒気を孕んでこう言い放った。


「こ、この野郎、勇二てめえ誰に飯を食わせてもらっていやがるんだ!」


 包丁は急所を外れていたし、厚手の着物を着ていて、おまけに剛三はスーパーボディの大男だった。血をみると剛三は狂ったように勇二を地面に叩き付けると、その剛腕で勇二を死ぬほど何度もなぐりつけた。勇二の顔面から血潮が噴き出てきた。まるで糸の切れた人形がぬかるみに転がったような、見るも無残な光景だった。


 むろん美沙は泣き叫んでいた。兄を何とか救おうとして剛三の脚に絡み付いて泣きじゃくった。その美沙を剛三は蹴り上げた。彼女がゴムまりのように転がった先に黒いブーツがあった。はっとしてブーツの主を仰ぎ見る美沙。

 

 しかし顔は雨に霞んでみえない。革の長いブーツは、まるで軍人の履くような代物だった。その男は濃い茶の長いマントを身に纏っていた。腰から細身の刀を提げていた。まるで時代ずれした異様さだった。剛三がその男を凶悪の視線で射た。そして罵るように言った。


「な、なんだてめえは!」


 その男の顔はまるで鋼鉄のデスマスクのように無表情を極めていた。そして男は美沙を一瞥するとまるで居合の達人のようにさっと刀を抜き放った。剛三が急を悟って身構えようとしたときには刀身が既に閃いていた。


 剛三の首から肩口にかけて赤い筋が入った。そこが裂けて鮮血が噴出した。剛三がゆっくりと空を仰いで回転しながらその場に這った。一瞬の出来事だった。

 それを見据える目があった。勇二の恨めしい目だ。美沙の悲痛な目だ。


 翌日の新聞に坂野剛三の殺害とその子供が二人行方不明になった事が記事になった。結局子供の行方は皆目判らず、時間だけが過ぎた。


 兵頭玄一はその時から二人を一切学校に通わせなかった。苗字は母の旧姓せある田沼を名乗らせた。そして教科書の代わりに帝国主義の教本が教科書になった。世間への復讐、そして世の変革こそが兵頭の教えだった。彼らの収容されたのは恐ろしく精神の屈折した人間を育てる施設であり、いつしか二人はその施設の首席になった。武道を習得し、十代で英才教育を受け、狡知にたけるようになった。


 勇二はあるとき半グレ集団をほとんど皆殺しにして、半グレ集団の抗争事件にすり替えて兵頭の高い評価を得た。その勇二は根気と執念にすぐれた生物学者になり、美沙は医者になった。これは学会にコネを持つ兵頭の力が多分に作用をしていた。

 それにこの二人の実の父が優秀な科学研究者であったことも否めない事実だ。そんなふうにしてこの侮れない二人の鉄の精神を持つ人間が誕生したのだ。


 ◇  ◇


 兵頭玄一はその冷酷、怜悧な一瞥を田沼勇二と美沙に向けて叱咤するように言った。


「今回の件で組織はだいぶ損害を受けた。たった一つの小さな穴が大型船をやがて沈めてしまうように、ちょっとしたミスが忽ち大事を引き起こす。あの子供二人に感づかれ、あの基地を知らしめた上に、逃げられるとはどういう事だ、田沼!」


「はっ、申し訳ございません」


 田沼は頭をさげたきり、決してあげられなかった。


「どうして望月は逃げた! どうやって、どうして奴は拘束椅子を壊しもせずに逃げたんだ田沼」


「はっ、それが土田の証言では望月はあの拘束椅子からすり抜けていたらしいのです」


「……考えられん」


 兵頭が唇を捻じ曲げた。彼はステッキをつき、まるで旧日本軍の士官のような服を着ていた。頬に恐ろしい傷跡があり、眼光に刃物の鋭さがあった。ここは東京中野、実は彼らのアジトは首都東京にも各所に散らばっている。中野サンプラザからそう遠くない場所に雑居ビルがあり、その古ぼけた廃墟みたいなビルの地下室にブラックナイトの連絡基地があった。彼らに居るのはビル三階の陰気な薄暗い部屋で、常に重いカーテンが外界を拒絶するように引かれてあった。その地下の一室にエリカは監禁されていた。むろん田沼美沙がここに連れてきたのだ。


「あの二人を消せ、あの二人は危険分子だ、生かしておけばろくな事にはならんだろう。あの二人はお前が責任を持って始末しろ、我慢がならん。事故か何かに見せかけ、我々の存在を世間に気づかれるな。府中の基地はもうないのだから、このまま時を待てば事件も霞んでしまうだろう。望月は小延にやらせろ、あいつなら望月を倒せるだろう。もし双方が倒れたとしても仕方あるまい。秘密を知りすぎている望月をこれ以上野放しにはできん。いいか、勇二、命令だぞ、失敗したらお前をブラックナイトの審査会にかけなければならなくなる。審査会は非情だぞ。そうなればお前は終わりだ」


「はいっ、なんとしてもやり遂げて見せます」


 悲壮な覚悟で返事をする勇二、しかし心の底から忠誠を誓っているわけではない。彼の狡猾な頭脳が考えることは、この組織をうまく利用して成り上がりことだ。悲惨な過去があったにせよ、悪人同士に信頼関係などは成立し得ないのだろう。だが田沼兄弟は違う、あの苦境を共に生きてきたので、その絆は妙な具合に強かった。


「それから……」


 と今度は兵頭はさっきから一言も話さずに傅いている田沼美沙を睨んだ。


「あの地下の女はどういうつもりだ。どういう事なんだ!」


 兵頭の強い憤りが伝わってきた。勇二が美沙に目配せした。


「あの女は、小延が勝手にクラブから浚ってきたのです。あの女に自分の子を産ませると小延が言うので、望月の始末をしたら自由にしろと言ってあります」


「けっ、奴は自分のしたことの愚かさがわからんのだ。あの気違いはある意味、望月より始末が悪いかもしれん。いずれ始末せねばなるまい。或いは完全に洗脳してしまえば、なんとか使えるかもしれん。――しかしあの女は殺せ」


「はい。しかしお言葉をかえすようですがすぐに殺してしまうのですか?」


 しかし兵頭は次の瞬間には薄気味悪い笑いでこう言った。


「いや、ちょっと待て、わしに名案がある」


 兵頭とは恐ろしい男だった。だがこの男の秘密もいずれ明らかになる時がくるだろう。背中になにか幽鬼でも背負っているような男だった。

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