ブラックナイトのアジト
――そこはまだ春になり切らぬ肌寒さの残る夜の銀座。
望月の目の前に高層ビルが
それにうら若き女性に涙目で頼まれたら、つい一肌脱がずにいられない望月の性格もあった。そしてこの事件の解決が高額な報酬をもたらすのと、裏に何かありそうな予感も手伝って、なんとしてもエリカを探し出そうと考えていた。
しかし昼間ここに来た時にはまだ検察の調べが続いていて中には入れなかった。当然とはいえ、望月はどうしても現場を確かめたかった。まだ立ち入り禁止だったが、望月は現場を自分の目で見る事に決めていた。
現場を見れば必ず手掛かりがあると望月は踏んでいた。彼はかなり長い時間ビルを見上げていたが、周りに誰も人がいないことを確認すると、瞬時に黒猫に変身した。望月は猫への変身を既に体得していた。かなり大きなしっとりとした毛並みの黒猫だ。
そして思わぬ速さでそのビルの壁斜面を駆け上がった。まるで肉球が壁面に吸い付いている様だった。そして『クリスタル』の割れた窓から薄暗いフロアの中に侵入した。室内を物色しているうちに警官の血痕が床に付着しているのを眺め、エリカの匂いを複数の人の中から嗅ぎ別けた。
まず、望月には怪人の体臭がすぐ鼻についた。そして怪人と近距離にいたエリカの匂いを嗅ぎ分けたのだ。その匂いは窓から壁を伝い屋上まで続いていた。しかしその後がわからなかった。その匂いは屋上のある地点で忽然と消えていたのだ。黒猫から人間の姿に戻った望月は夜空を仰ぎ見てため息をついた。匂いがだめなら他の方法で彼女を探さなければなるまい。望月はただじっと夜空を眺めていた。
名探偵には例えばホームズのように頭脳派の探偵もいるが、足の探偵というのもある。ただじっと瞑想するタイプの望月ではないのでじっとしていられなかった。
だからその超人の嗅覚と直感を駆使して街中を歩き回った。しかし中々めぼしいものは見つからなかった。望月は半日を費やして歩いたが、空が白み始めてきたから、さすがに諦めて帰ろうと思った。
だが依頼主の新藤サエの面影が胸によみがえった。たしか彼女はデザインの仕事をしていると言った。姉のエリカの写真も見せてもらっていたが、サエは姉より控えめで質素な美人であった。そのとき何を思ったのか望月は中野に向かって歩き出した。
ここのところ毎日、新聞とネットニュースを見るのが望月の日課だったが、今朝の新聞の三面記事に、昨日中野駅付近で黒い大きな怪鳥を見たと言うサラリーマンの記事が不意に脳裏をかすめた。
新聞の解説によれば、おおかたカラスか何かを酒に酔った男が見間違えて大騒ぎをしたのだろうと面白おかしく書かれてあったのだが、それが何となく気になったのだ。なぜなら屋上に消えたエリカは、まるで空から来た何かに運び去られたようだった。まるで怪鳥にでもさらわれたようだったからだ。
望月は中野通りをとぼとぼと歩いていた。収穫なしだ。しかたなく麻布に向けて踵を返すと、はたと望月の動きが止まった。そこに匂いがあった。そしてその匂いが望月の脚を止めたのだ。以前に嗅いだ事のある香水のにおい。望月は神経を集中させた、そして思い当たった。これはノアビルのまえで嗅いだことのある香水、かなりきつい香水だ。
この香水は田沼美沙が身に
そこで望月は近くに人の気配を感じてとっさに物陰に隠れた。その男は帽子を深くかぶり、薄手のコートを着込んでいた。周りを何回も見まわしてから、男はそのビルの裏階段から地下に降りて行った。それが望月にはあのチンピラの一人、坂田だと直ぐにわかった。望月は気配を消してうまく後をつけて行った。
東京中野、望月はついに薄暗い路地の奥にブラックナイトの隠れ家を突き止めたのだ。あちこちが欠け落ちた、湿ったビルの階段を下ると坂田は目の前に現れたドアを一回だけノックした。ドアが開き彼は背後を確かめてから部屋に入った。
そこで望月は美沙の香水の匂いと別に、もう一種類の匂いを確実に嗅ぎ分けた。この階段を最近降りたのは美沙だけではない。エリカの匂いもまたこの一隅に残っている。あのクラブ・クリスタルで憶えた嗅だ。
望月の鋭い嗅覚はそれを知らしめていた。ここにエリカがいる。望月は興奮を覚えずにいられなかった。彼の鋼の肉体に力が
望月はドアに耳を当てた。物音も足音もしない。そこで静かに、だが無類の怪力でドアノブを引きちぎった。中に侵入すると薄暗い室内の奥に更に地下に階段が続いていた。あたりを注意深く見回しゆっくりと前進する。
そして
そこにしゃがんで体を隠すようにして奥の様子を窺がう。その先に赤銅色のドアがありそのドアの両サイドに門番みたいな男が二人貼り付いていた。黒い服を着て後ろに手を組み真正面を見ている二人、望月は何を思ったのか、そのまま涼しい顔をして二人の前に立った。あまりの事に思わず唖然として望月を凝視する二人。一瞬言葉を失ったようだった。
「お疲れ様。さて交代の時間だぞ、ここは俺一人で充分足りる」
望月がふざけた冗談みたいなセリフを吐いた。二人が顔を見合わせ、狂犬みたいに殺気だった。だが二人が行動を起こす前に望月の手刀が一人の首筋に炸裂し、もう一人の鳩尾には正拳突きが食い込んだ。二人が床に這うにはものの十秒とかからなかった。
鉄製のドアは頑丈だったが望月は簡単に鉄のノブをひん曲げた。ドアを開けると殺風景な空間に女が後ろ手に縛られて床に転がっていた。布で目隠しをされ、さるぐつわまで噛まされている。素早く近づき声をかける。
「大丈夫ですか? エリカさん、大丈夫ですか!」
女は疲れ果て、ぐったりとしていたが味方だと直感したらしく、弱々しくただ頷くばかりだった。人心共にダメージが色濃く残っているのだろう。
望月は彼女を担ぎ上げると、もと来た階段を早足で駆け上がった。と、そこに一人の男が立ちふさがった。それを見透かすように目前に誰かが躍り出たのだ。望月が反射的に距離をおいて立ち止まった。その男は裾の長い薄紫のロングコートに身を包んでいた。それはどこか尋常でない雰囲気を身に纏う田沼勇二である。
いつになく異様な程に目がすわっている。そして彼はまるで佐々木小次郎みたいに日本刀を背負っている。まるで中世の剣士のようだった。
しばらくお互いがにらみ合うようにしてじっと相手の目を見た。恐ろしい程の気迫と殺気が火花を散らせる。
「望月、ここからは簡単には逃がさないぞ」
「あいにく俺はお前の意向などにかまう男じゃないし、この女性を心配している人がいるから素直にここから帰しちゃくれないか」
望月の落ち着いた言葉の中に無類の闘志が凝縮されていた。
「なあ、俺たちはどういう巡りあわせか敵同士の星の下に生まれついた。どうだ今ここで決着をつけちまおうじゃないか」
「――いいだろう、お前がその気なら俺はいつでも相手になるぞ」
「いい度胸だ。だがその前に、ふふっ、決闘の前に悲しい話をきかせてあげようか」
勇二の口調が急に人をからかうような調子を帯びていた。
「……」
「あの、以前おまえを探しに来た若い二人だが、今頃はもう……」
望月の血相が瞬間に変わった。
「あの二人をどうした!」
望月が吠えた。
「今頃、警官に化けた俺の手下が二人を連れだしているだろうな。洋館であなた達を監禁した犯人が捕まったから、証言の為に警察に来てほしいってな。真面目な二人は協力してくれるだろうな。だが二人の向かう先は警察なんかじゃないんだ。地獄の一丁目って訳だ」
田沼はあくまで冷酷な口調だった。
「きっさま! 二人に何かしたら許さねえぞ!」
「許すも許さないもない。こんなところで暇をつぶしてていいのか! 望月!」
瞬間、望月の脳内で何かが爆発した。と同時に獣性を帯びた鋭い眼光が田沼を睨みつけていた――。
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