美女と蝙蝠男


 顔の中央に寄った双眼は不気味だった。口は正面から見ると小さい三つ口だったが実際は耳まで裂けていた。

 そしてぬめぬめとした口内にのぞく真っ赤な舌には、無数の細かい針のような突起が内側に向かって生えていた。その舌の突起物は呼吸の度に風にそよぐ草原みたいに不気味にうねるのだ。

 どうみても人間の顔ではない。それは狐か猫のような顔だ。いや、それは蝙蝠の顔だった。その顔がエリカの顔の前にあったが彼女に表情はなかった。

 というのもエリカは気絶していた。体中に擦り傷や切り傷が無数にあって、着ていた濃紺のシックなドレスはあちこちが破れていた。ドレスから飛び出した白い脚は血に塗れていた。その脚を赤い舌が這っていた。

 蝙蝠の怪物はその舌先で彼女の脚についた血をぺろぺろと舐めているのだ。なんともおぞましい光景だった。


 やがてエリカの意識がおぼろげに回復すると、怪物は嬉しそうに眼を細めた。エリカはそれを知ると思いっきり身をのけ反らして抵抗したが、手と足の自由が利かなかった。両手両足を縛り上げられ床に敷いた毛布のようなものに寝かされていたのだ。


 ここは青梅市御岳渓谷である。そのなかの鬱蒼とした木立に囲まれた一隅に小さな滝がある、その裏側に昼なお暗い洞窟がある。その湿った場所こそが怪物の隠れ家なのだった。  


 エリカはその場所に捉えられていた。いったい怪物は何をしようと言うのか。どうせ良い事ではないだろう。その時、予期しない訪問者があった。


 滝の水が一瞬二つに分かれるとその中にシルエットが映った。美しい体のラインが浮かび上がる。それは田沼美沙だった。美沙はまた随分不機嫌な様子で怪人を睨みつけた。


「あんた! 自分のしたことがわかってるの!?」


 背後からのきつい言葉に怪人は思わずその赤い舌を引っ込めて美沙を振り返った。


「なんて勝手な真似をしてくれたの、警察があんたを探している。非常線を張ってあんたを待ち構えているんだ。世間ではあんたの事が大変なニュースになってるんだよ! 各新聞の一面はほとんどあんただよ。ネットでも流されてる。世間はあんたとこのホステスの話題で持ちきりさ。もし、わたしがあのビルに行かなかったらどうなっていたと思うの!」


「仕方ねえじゃねえか、あんただってやくざ集団に追われて、俺に助けられたことがあるんだからこれでお相子だ」


 怪物もまた不機嫌な顔をして応じた。


 ビルの屋上から怪物を救ったのは美沙である。怪物と美沙は鳴らない笛(高周波の笛)をお互いに持っていて緊急時にそれを使って連絡しあうのだ。

 怪物は鋭敏な耳で聴き、美沙は装置を携帯している。美沙は音の無いヘリコプターを自在に操る。だから誰にもそれとわからなかったのだ。それは組織の秘密兵器でプロペラのない高速ヘリなのだ。原理については述べないが、このヘリは黒い不気味な怪物でブラックナイトの科学力の結晶である。


「俺はもう誰にも束縛も干渉もされたくねえんだ。俺のやりたいようにやる。組織もあんたも兵頭さんも俺には関係ねえんだ」


「関係ない? あんたも黒川に作られたミュータントの一人じゃないか! 関係ないなんて言わせない」


 美沙がここまで語ったところで、怪人の正体を明かそう。怪物自身が自分の秘密を事細かに誰かに語ることもあるまい。怪物の本名は小延修このべおさむという、あのマッドサイエンティスト黒川の犠牲者だ。

 小延は昔、若くして家族全員を飛行機事故で亡くし、それが原因で心の病を患い、あの黒川精神療養院に収容されていた患者の一人なのだ。誰ひとり身寄りのない事を良い事にして黒川は彼までをも人体実験につかったのだ。


 実は黒川仁は今までに様々な改造人間を作り出してきた。最初はあの元治みたいな原始的な怪物だったが、聖獣の血を手に入れてからはそれを改良し、動物や人間に突然変異を誘発する新薬の合成にも成功していた。もちろん望月もその中の一人だが、大蝙蝠と人間を融合させて怪物を作った。その怪物大蝙蝠が今の小延修なのだ。

 

 人体実験ではほとんどの者が死んだ。しかし死なずに奇跡の変容を遂げたのが望月と小延である。だから怪物の身体には望月と同じ聖獣の血が流れている。


 元々精神疾患を持った小延は変わり果てた。世を呪う悪魔の大蝙蝠が今の小延の姿なのだ。長い間姿を見せなかったその小延が最近になって田沼たちの目の前に現れた。小延の存在に薄々感づいていた兵頭は、小延を配下に召し抱え、ブラックナイトの手先につかっていたのだ。


「でも勝手にこの女をさらって、あんたはいったいどうしようというの?」


 美沙が厳しい顔をして詰問した。


「この女は俺の妻にするんだ。それで俺の子を産ませようと思うのだ。俺はかわいい子がほしい、家族はむかし皆死んだからなあ」

 

 その言葉をきいて美沙は一瞬放心状態になった。あいた口がふさがらないと言う状態だ。


「俺はここで毎日彼女を抱く、もちろん人間の姿でな、そしてはらませるんだ」


 そういうと小延は薄気味の悪い笑い顔をしてエリカと美沙の顔を交互に凝視した。もうエリカは全身を震わせていた。


「気でも狂ったの! そんなこと兄さんだって兵頭さんだって絶対許さないよ!」


「許すも許さないもねえ、俺の自由だ!」


「まあいいわ、きょうわたしがここに来たのは、あんたの力が借りたいからだよ」


「……」


「実はブラックナイトの基地のひとつ、東京の拠点の存在が明るみに出そうなんだ」


「あの洋館か?」


「そうだよ」


「それはヤバイんじゃねえか。なぜ、そんな事になった? えっ」


「あそこの地下に望月をうまく拘束していたんだけど、逃げられたんだよ、しかも学生までにも嗅ぎつけられた。だから彼らを消して欲しいの。これは兵頭閣下からの依頼でもあるのよ。彼らの資料も置いてゆくわ。あの基地は跡形もなく焼いてしまうけど、人の口に戸は立てられないもの。組織の機密は絶対に守らなければならないわ。やがて来る帝国の時代の為にもね。三人を片付けたらこの女を自由にするがいいさ、わたしからも兵頭さんに了承してもらう。でないとあんた兵頭さんを敵に回すことになるよ。あの人の恐ろしさはあんただって知っているだろ!」


「ああ、知ってるさ、兵頭は人間じゃねえもんな。化け物だ。しかし望月ときいて俺の血が騒ぐせ。あんたの恋人の斉田を殺した化け豹だろ!」


「そうだよ、あんたと同じミュータントだ」


「あいつをれるのはこの俺以外にはいねえ」


 小延はそういうとしばらく目を閉じて思案しているようだったが、洞窟の奥にある調度品の中からアームチェアを引っ張り出してきて、そこに座って煙草をいっぷく噴かした。上等な洋モクである。そしてゆっくり言った。


「わかった。やろう」


「そうかい、それならこの女はわたしが一時預かっておくよ」


「なにっ?」


「……」


「ふふふふっ、まあ、いいだろう。その方が楽しみが増すってもんだ」


「いい、秘密裏にあいつらを始末するのよ、派手な事はくれぐれもやめてよ」


 二人の会話を生きた心地のしないエリカは黙って聞いていた。悲しげに瞼をじっと閉じていた。美沙はエリカを立たせて連れ添うようにして洞窟をあとにした。洞窟の外、滝の向こうには黒い鉄の物体が空中にあった。音の無いヘリだ。その怪物は全く音を立てずに二人を呑み込むと見る間に上空に消えて行った。

 

 ――薄暗い洞窟の中で蝙蝠の目がいつまでも爛々と光っていた。




  ◇  ◇




 その頃、望月は久しぶりに麻布の事務所にいた。長椅子に座り、ぼんやり天井を眺めていた。清掃の仕事も一段落がついて顧客もなんとか失わずに済んだ。研一と理香は無事に帰宅でき、捜索願は出されずに済んだが、あの洋館に警察が乗り込んだ時には、火を放たれていて大小の爆発が相次いだ。


 だから洋館の中の様子を調べるには至らなかった。あの洋館は完全に焼失してしまったのだ。だからブラックナイトの機密は把持はじされたと言ってよかった。

 だが事件は彼らの存在を社会に知らしめたと言う大きな収穫だった。警察や検事たちは本腰を入れて捜索に当たらざるをえなくなったろう。しかし田沼兄弟はどこに消えたのか? 

 望月は自分の甘さを反省もしたが、あの二人の事を考えると心に憤りがはしった。


 そこにノックの音がした。おもいもかけぬ客だろうか? それとも……。望月がたってドアを開けると一人の女がそこに立っていた。かなりの美人である。


「どちら様で……」


 そう言って望月がしばらく見つめると女が細い声を出した。


「あのう、おもての看板をお見かけしまして。なんでもご相談に応じますと、どんな事でも親身になってと、書いてありましたので」


「ええ、そうです。なんでも出来る限りのことをいたします。まあどうぞお入りください」


 女は望月に丁寧に促されて事務所のソファに腰をおろした。


「早速ですが、どんなことでしょう?」


「ええ、実は姉が誘拐されまして」


 望月の表情がいくぶん険しくなった。


「お姉さまが…」


「もう新聞で大きく報道されましたわ。銀座のクラブの事件ですわ」


「えっ? それじゃあ、まさかあの誘拐事件の」


 女が頷いた。


「ですが、もう警察が大がかりに捜索しているではありませんか」


「でも、見つかりません。まったく手がかりさえないのです、わたしもう心配で心配で」


「……」


「私立探偵にも頼んであるのですが、いっこうに姉の居所がわかりません」


「それでここに……」


「ええ、実はわたし堪りかねて占い師のところにもいきました。そしたらわたしの家から西の方角になんでも引き受けるような怪しい事務所があるから、そこに行ってみなさい。とそう言うのです」


「怪しい事務所ですか?」


 望月が頭をかいた。


「あらっ、ごめんなさい。そういうつもりじゃありませんでした」


「いや、いいんです。で、あなたはもしかして妹さんなのですか?」


「ええ、よくわかりますねえ。わたしは新藤サエといいます。姉はエリカと言う名でクラブで働いていましたが本名を新藤絵里といいます。わたし達は二卵性双生児なので顔は似ていませんが双子なんです」


 新藤サエは物腰の柔らかな如才ない女性だった。


「そうですか、これは大仕事かもしれませんねえ」


 女は心配そうな面持ちで望月をじっと見つめていた。その眼の奥にある悲壮な願いを読み取るのは容易な事だった。真剣な瞳が悲しみに揺らいでいた。


              

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