第174話 願わくば
トン、トン、トン、
暗闇に包まれる真夜中の校舎に、一定のリズムで音が響く。
その音を発しているのは、今まさにその校舎の階段を登る1人の少女だ。
「この階段も何回登りましたかね。———さんがいなかったときも登ってましたから、300回くらいですか」
その淡い茶髪の少女は、思い出を一つ一つ噛み締めるように階段を登っていく。
何を思い出しているのだろうか。その顔は笑顔になったり泣きそうになったり、また笑顔になったり。これから向かう先に、それほど沢山の思い出があるのだろう。
「とはいえ、思い出に浸ってる暇はないですからね。———さんに勘づかれたら困りますし」
そう呟くと、少女は少し急ぐようにその足を早めた。そしてすぐ、その突き当たりの扉へと辿り着く。
少女はドアノブに手をかけ、慣れた手つきでその扉を開いた。
「…久しぶりですね。ここへ来るのは」
少女がたどり着いたのは、学園の屋上。
時間はすでに遅く辺りは漆黒に包まれていたが、月明かりに照らされて屋上一帯はよく見えた。
「———さんに別れを告げたのが、遠い昔のようです。…先に折れてしまったのは、私だったようですけど。最初は、大丈夫だと思ってたんですけどね」
屋上を1人歩きながら少女は呟く。
少女の頭に思い出されるのは、約4ヶ月前のこと。———彼女が黒髪の青年へ別れを告げた、数日後のことだ。
彼女はその黒髪の青年の事をとても好いていた。彼へ別れを告げたときも、その胸は張り裂けそうなくらいに痛かった。
だが彼へ別れを告げて以降、彼女の精神状態に異常は特に無かった。夜中に急に悲しくなることも、胸に穴が空いたような気分になることも無かった。むしろ彼と関わっていたときよりも、その精神状態は良くなっているくらいだった。
だから彼女は思った。あの青年は自分にとって、そこまで大きな存在では無かったのだと。
だが、それは間違いだった。
「———さんと離れたことを、私の心が受け入れていなかったんですね。私の心を守るために。…だからまた会ったとき、私は」
普通、最愛の人と離れてしまったら一度や二度泣いてしまったり、精神的に疲弊するだろう。だが先ほども言ったように、少女の場合はそんなことは全く無かった。
しかしそれは決して、その青年が彼女にとってちっぽけな存在であったから、ではない。むしろその逆。彼女にとってその青年の存在が大き過ぎたから。
その青年と離れたことを完全に認めてしまえば、彼女の心は間違いなく壊れてしまう。そこで、彼女の心は無意識的にそれを認めなかった。
1人でいると、それを認めざる負えなくなる。学園に入学してからは、出来る限り彼の側にいたから。彼が学園にいないこともあったが、その間彼女はずっと彼の事を考えていた。しかし、当時の彼女の意識は彼の事を考える事を拒否した。
彼女の意識と心のすれ違いだ。
だから、彼女は自らへ言い寄ってくる男達を拒絶したりはしなかった。彼女は無意識にその男達を青年の姿と重ねていた。
決して彼とは決別などしていない。だって彼は私の隣にいるから。男達と遊ぶときは必ず2人で。彼が同時に2人以上存在する訳がないから。
彼女は学園内でも無意識的に本物の彼の姿から目を背けていた。その存在を認めてしまえば、自分の隣にいる男が彼では無いと認めてしまえば、彼と決別したことを認めなければならなくなるから。
意識的には彼の事を考えずして、無意識的に彼のことを想う。
彼女はそうして、無意識のままに心の平衡をギリギリのところで保っていた。
そんな中訪れたのが、聖王国の女神祭。
そのときはもう、目の前に現れた青年の存在を認めざる負えなかった。それを認めてしまった心は、青年に近づけと。その隣にいろと、そう言う。その一方で少女の意識は近づいてはいけないと、それを必死にセーブする。
彼の存在を認めたことで、心と意識のすれ違いはぶつかり合い、遂には争いへと変わり———彼女の精神は完全に壊れてしまった。
「結局、この髪も変えられませんでしたし…その時点で、私の負けだったということですね」
屋上の端までたどり着いた彼女は、その肩まで伸びた髪を指で軽く弄りながら呟く。
彼女が青年と会ってから、ずっと突き通して来たその髪型。それを突き通していたのには理由がある。
青年がいつでも、自分のことを見つけてくれるように。
少女が学園へ入学する前。まだ彼女がアルクターレという都市にいた頃。
彼女がその青年に会えるのは数年に一度、彼がアルクターレへ来たときだけだった。次にその青年と会えるのは、いつになるか分からない。
色々なこと、特に色恋沙汰には鈍そうな彼の事だ。数年もの間会うことがなければ、身長など外見の変わった自分のことを見つけてくれなくなるかも知れない。彼から貰ったブレスレットもあるけれど、それだけでは不安だ。
だから、髪型だけでもいつも同じに。そんな思いで、子供ながら髪型をずっと統一していた。
青年と決別した後、彼女は青年から譲渡されて以降ひとときも離すことのなかったブレスレットを外し、共にショッピングをした洋服なども全て捨てた。彼への未練を断ち切るように。
それに倣い、ずっと貫いてきたその髪型も変えようとしたが———出来なかった。
この髪型を変えてしまえば、彼が自分のことを見つけてくれない。彼に忘れられてしまう。彼と自分を繋ぐ最後の糸が途切れてしまうような気がして。
「一回、———さんが褒めてくれたこともあるんですけど…覚えてないでしょうね」
彼女の頭に思い出されるのは、まだ彼らが出会ったばかりの頃。
今はカイナミダンジョンと呼ばれる場所で特訓を受けていたとき、当時からその青年へ好意を抱いていた彼女は青年の好みを探るため、髪型について尋ねたことがあった。
『良いと思う髪型?髪は長すぎると色々と邪魔になるから短い方が.....今の君の長さくらいが丁度良いと思うよ』
軽く悩むようにその顎へ手を当て、青年はそう答えた。
今思えばそれは戦闘をする上で、髪は邪魔にならないよう短い方が良いという意味だったのかもしれない。だが、そんなことはまだ幼かった少女には関係なかった。好きな人が少しでも褒めてくれた髪型。その髪型でいたいと思うのは当然だろう。
「……どうしてこうなってしまったのでしょうね」
あの頃は良かった。と、彼女は思う。
ライバルも居なかったし、ただ青年の近くにいるだけで良かった。
彼を独り占めしたいと思い出したのはいつからだったか。彼に自分だけを見てほしいと思い出したのはいつからだったか。彼を——優しくて誰でも助けてしまう彼を、憎み出したのはいつからだったか。
「私の心が壊れてることなんて、私が一番分かってるんです。それが、———さんへ迷惑をかけるということも」
少女は腰ほどの高さまでしかない柵を乗り越え、屋上の縁に立つ。一歩踏み出せば、真下の膨大な漆黒に飲み込まれてしまうような場所だ。しかし、そんな場所にいる彼女の心は全くもって落ち着いていた。
それは彼女にとって怖いことはこんな場所から落ちることではなく、彼女の最愛の青年に嫌われることだから。
彼女は自身で理解している。
自分の中で青年への愛情が増すにつれ、彼への嫉妬や憎しみも急激に増していくことを。実際今でも、彼のことを殺すことが出来るのなら———彼と一緒に死にたいと思っている。
それほどまでに彼女は青年を愛して、憎んで慕って、恨んで——そして愛している。
だからこそ彼女は、自分を自身で制御できなくなる前に終止符を打つ必要があった。
「でも、そんな私でも———さんは嫌いにならないでくれました。また、私を名前で呼んでくれました」
そんな少女を彼は受け入れてくれた。少女のことを、かつてのように名前で呼んでくれた。無理矢理にキスをしても、強い殺意を向けようとも、少し我儘な少女のその全てを彼は許してくれた。
「…受けに回るのも悪く無かったですね」
そう自身の唇を指でなぞる彼女の頭に思い出されるのは、つい数十分前のこと。
愛する青年の方から、彼女へとその唇を重ねたのだ。彼女はそれを予期しておらず、完全に受けに回った形だった。
激しく、情熱的で灼けるように熱いキスだった。それを思い出すだけで彼女の頬は紅潮し、口角も吊り上がってしまう。
彼に対して攻めてばかりだった彼女は最期の後悔として、もう少し受けに回っても良かったかも、と思う。まあ、攻め手が彼では無理かとすぐに諦めたが。
「願わくば、———さんの記憶の中で生き続けられることを」
そして少女は立ったまま、前方へ倒れるようにして真下の漆黒へとその身を投じる。
彼と出会えないのならば、来世などいらない。ただ彼の中で、アルト=ヨルターンの記憶という形で生き続けることが出来るのなら———それが彼女、アーネ=エルトリアの本望だ。
ドン
そんな鈍い音が暗闇の中、響いた。
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