第33話 苦しみ
「うううっ、ああっ」
彼の苦しみは、日に日に強く、増大し、その持続時間も長くなっていた。決して回復することのない、悪化していくだけのその苦しみと痛み。それと否が応でも向き合わざる負えない彼の苦しみは見ているだけでも辛かった。
貧しく、お金もない彼は、私にもどうすることもできず、結局、生活保護という形に頼らざる負えなかった。そして、役所の福祉事務所の担当に紹介されたこの病院と、その保護費で賄われるその治療、ケア、緩和ケアは劣悪なものだった。
医者や看護師にやる気はなく、やさしさや、愛想すらがなかった。文句を言っても、まったく改善の兆しはなく、それどころかうるさい患者として増々対応はぞんざいになり、白い目で見られるようになった。
大分後で知ったことだが、この病院は、それを知る人たちの間では谷山病院、通称姥捨て山病院と呼ばれている、他の病院が受け入れたがらない生活困窮者や、ホームレス、精神疾患や知的障害などの問題を抱えた厄介な病人を放り込む低劣な最終処分場のような病院だった。虐待や劣悪な医療など、その非道ぶりは地元では有名で、この病院に入ったら終わりだと、その界隈の人たちの間で口々噂されていた。(後に、この病院は警察が入り、虐待と暴力で逮捕者まで出る)
堪らず、私はもう一度役所の福祉事務所に相談しに行った。だが、それもまったくの無駄骨だった。市役所の中で唯一ため口で市民と話してもいい場所。露骨に市民を見下してもいい場所。それが福祉事務所だった。
まじめさと勤勉さだけが取柄の役所の窓口のその担当の中年の男性役人は、にべもなくそんな私の訴えを、その長年の経験で培われたであろう卓越した詭弁のような理屈でけむに巻いた。丁寧な口調ではあったが、そこにはやさしさも思いやりも誠実さも何とかしようという気概も一切、欠片もなかった。ただ機械的に、私の訴えを一つ一つ叩き潰すようにして、棄却していった。しかし、頭の悪い私には、何か違和感があっても、何も言い返すことができなかった。
「病院も私たちも、やれることは全部やっている」
「他人に頼ってばかりではなく、あなた自身もっとやれることはあるでしょ?」
「ちゃんと働いて、お金を貯めておかないからだよ」
終始ため口でバカにしたような口調の、その野口というお役人は、相談に乗りながら、しかし、丁寧に愛想よく、理屈と正論で遠回しに私を追い払っていく。
「大切なみんなの税金だ。あなたのためだけにその大切な税金を使うことはできない。それは分かるね?」
野口は繰り返し繰り返し、私を追い込むように丁寧に正論を言う。
「・・・」
耐え鹿にその通りだった。でも、そういう話じゃなかった。ただ誠実さが欲しかった。もう少し、もう少し、人間としてやさしく扱ってほしかった。
しかし、一介の何の力もない若い女一人ではどうすることも出来ず、ただ、その役所の姿勢に屈服するしかなかった。
「・・・」
惨めだった。その帰り道、自分の大切な存在を守ってあげることのできない無力さが、私を苛んだ。お金がないことがこんなに惨めだと、私はこの時初めて知った。
「ううううっ、ああああっ」
そして、ついに彼は二十四時間苦しみ始めた。休みなく、眠ることさえも出来ず、彼は身をよじり、浮かせ、震え、喰いしばり、ありとあらゆる方法で苦しみと戦い、逃れようともがいた。
「うううっ、痛い、痛い」
私は必死で彼の体をさすったり、揉んだりするのだがそんなことは、大嵐の荒れ狂う海に、手漕ぎでボートで一人立ち向かうほどの虚しい行為でしかなかった。
「お願いします。彼が苦しんでいるんです。なんとか、なんとかもう少し何かしてください」
私は、見かねて医師や看護師に頼みに行く。しかし、出来ることはすべてやっている。これ以上はどうしようもないとしか彼らは言わなかった。それでもしつこく頼み込むと、仕方ないと言った感じで一応病室までは来るのだが、適当に、何かしたような振りをして、すぐにどこかへ行ってしまった。
「痛い、うううっ、痛い、痛い」
彼は叫ぶ。悶える。その一身に浴びる彼の苦しみが辛かった。どうしてあげることもできない苦しみが私を容赦なく責め立てる。
「ごめんなさい」
私はそんな彼の苦しみが怖くて震えた。
「あああっ」
彼の呻きが聞こえる度、私は身を縮めた。
私は怯えた。彼の苦しみに怯えた。苦しかった。苦しかった。彼の苦しみが堪らなく怖かった。
「うううっ、ああああ」
彼の苦しむ呻きを聞く度に、鋭利なナイフをぐさぐさと直接心の芯に突き刺されているようだった。神経一本一本に、罪悪感を擦りつけられているようだった。それは、耐えがたい苦しみだった。
でも、それは容赦なく私の目の前に厳然として、次々迫ってくる。
「ごめんなさい」
私は何もできない自分に失望し、そして、絶望した。
「ううう、ああああ」
それでも、彼は苦しむ。終わることなく苦しみが続いていく。私の目の前で容赦なくそれは続いていく。
私は堪らず病室を飛び出し、病室から遠く離れた廊下の長椅子に座った。そして、私は両耳を固く押さえ、目を硬くつぶり、その場にうずくまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
私は耳を固く押さえあやまった。私は耐えきれなかった。彼の苦しむ姿を、その呻く声を聞いていることに耐えられなかった。彼はその苦しみから逃げられないというのに、私は逃げ出していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
私は何にあやまっているのか、ひたすらあやまり続けた。
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