第34話 彼の目
固い廊下、無機質な空気、すべての生命の消えた深夜――、しかし、その一隅に彼は鼓動し、生きている。
死は可能性と、日曜の暇な昼下がりに吹き抜ける一陣の風でしかなかった。生きるなんてかんたん過ぎて、人生は無報酬で勝手にやって来る当たり前の日常だった。
でも、それは錯覚だった。生は儚く、死はすぐ隣りにいつもあった――。
「誰か助けて。誰か助けて」
なんで、私はここにいるの?なんで、彼はここに寝ているの?ちょっと前まで私たちはあんなに希望に溢れ、安穏として幸せだったのに、なんで、こんなことになっているの?
どんなに願っても、決して叶うことのない希望。それは確たる絶望だった。
「うううっ」
私は一人、鎮静剤を打たれ寝ている彼のベッドの脇で、頭を抱えた。
季節はいつの間にか、秋を通り過ぎ、冬になろうとしていた。生命にとって一番辛い季節。それは死の季節。
「うううっ、あああ」
彼の苦しみは、いつ果てることもなく続いていた。
「あ、ああ」
「えっ、何?」
彼が苦しみの中で、何かを私に言おうとしていた。彼の声は、呻き叫ぶ中で、喉が潰れ、かすれていて聞き取りずらかった。
「あ、あああ」
言葉にならない言葉を、彼は必死でその潰れた喉の奥から搾り出そうとする。
「何?」
私は彼に顔を近づける。
「こ・・」
「えっ?」
「こ、ころして」
彼がかすれた声を振り絞る。
「殺してくれないか」
彼の声に力はなかった。だが、それは、はっきりとした意志として発せられているのが分かった。
「・・・」
私は胸を日本刀で一刀されたような衝撃でその場に固まった。私は今何が起こったのか、認識すらもできず、考えることもできなかった。だが、そのやせ細った蒼白の彼の私を見る目の奥には確たる意思があった。
「もう一度、お医者さんに掛け合ってくるわ」
私はそれを聞こえなかった振りをして、病室を出ようとした。
「殺してくれないか」
だが、彼はもう一度かすれる声を振り絞るようにして言った。私は彼を見る。彼の目はもう、すべてに疲れ果て、生きる希望に絶望していた。その目が私を見つめる。私はその目に縛られたみたいに動けない。だが、彼の目はそんな私を見続ける。
「・・・」
逃げられなかった。その目が私を捉え、逃げることを許さなかった。
見ないで。そんな目で見ないで・・。しかし、彼は、その疲れ果てた生気のない目で懇願するように私を見続ける。
「殺してくれないか」
目の奥の彼が憐れみを求める亡者のような顔で私を見つめ、そう訴えかける。
「ああ、わ、私、私・・」
私の頭は混乱し、錯乱し、沸騰し、訳が分からなくなって――、私は、気づくと病室を飛び出していた。
私は廊下の長椅子に一人ふらふらと座った。衝撃で心が発作を起こしたみたいにパニクッていた。心臓があり得ないくらいのスピードで鼓動している。今何が起こったのか、私は振り返ることすらが怖かった。
「・・・」
私は震えていた。心そこから全身で震えていた。
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