最終話
「悪い、待ったか」
「はい、待ちました。遅いですよ本田さん。遅刻したら通報するって言ったじゃないですか。通報しますよ?」
「このクソガキ……」
あの騒動から数日がたったある日の休日。
俺は今日も変わらず里奈、いや、クソガキの相手をさせられていた。
あぁ、子供のままでいいだなんて言わなきゃよかった。
そんな甘えた言葉を掛けてしまったせいか、このクソガキ、以前にも増して我儘を言うようになりやがった。
今日だって、仕事で疲れてるって言ってるのに嫌だ嫌だ付き合ってくれの一点張り。
お前は幼稚園児かと、そう思うくらいにここ最近の里奈は自由奔放になっている。
頼れる大人として認められているのか、それとも都合のいいおもちゃができたと見くびられているのか。
里奈が俺に対する認識をどう改めたのかは分からないけれど、ここは大人として、大人に対する口の利き方というものを教えてやるべきなのだろうか。
里奈のためを思うならば、ここらで一回ボコボコにして、社会の厳しさを教えておくのもいいんじゃないかとそう思う。
そうだな……ありっちゃありだな……
そうなると、問題はどうやって泣かすかだ。
引っ叩けば簡単に泣かせられると思うが、暴力はさすがにまずい。
せっかく晴れて無罪の身になれたのに(里奈の母親に里奈と会う許可を取ったため)、感情に任せて手を上げてしまえばまた追われる身に逆戻りだ。
とにかく、暴力だけは振るえなかった。
同様の理由で暴言なども候補からは外される。
となると、残された手段は限られてくる。
暴力もダメ、暴言もダメ。
それなら、俺にできる事とは何だろうか。
俺にできる、合法的にクソガキを躾ける方法とは何だろうか。
……あ、ゲームとかどうだろう。
オセロとか将棋とかスマブラとかでボッコボコにして、泣きじゃくる親戚の子供みたいにしてやるのはどうだろう。
いい、すごくいい。
我ながら名案だと、そう思った。
しかし、その案には一つの欠陥があった。
それは、俺のゲームの腕前があまり芳しくないという点だ。
イマドキの子供はゲームが上手い。
それに対して、俺はゲームの類があまり得意ではなかった。
麻雀も競馬もパチンコも、勝ったという記憶があまりない。
仮に里奈に藤井〇太先生のような才能があったとしよう。
その場合、分からせられるのは、悔し涙を流すのは俺の方になってしまう。
正直、良い大人が子供に泣かせられるのはまずい。
その光景は、まさに地獄絵図…………
……ま、今日のところ勘弁してやろう。
口の利き方を教えてやるのはまた別の機会にしてやる。
元気があるのなら、今はそれでよろしい。
「で、どうだ? 最近は?」
「どうって、何がですか?」
「母親とか、学校とか、上手くやってんのか?」
「あー……まぁ、その、なんとか……お母さんと一緒にいる時間は増えたし、友達にはあんまり気を遣わなくなりました」
「そうか……それは良かったな」
照れ隠しをするように、ぶっきらぼうにそう言う里奈の姿を見て、俺は素直に安心した。
よかった、上手くやってるみたいで。
ちゃんと気遣いと本心の折り合いをつけられるようになったみたいで安心した。
苦労した甲斐があったと、心の底からそう思ったのだ。
「えへへ……その……本田さんのおかげです。ありがとう……ございました」
「お、おぅ」
不意に言われたその一言に、俺は何だか恥ずかしくなって、そっけない返事をした。
すると、勇気を出してそう言ってくれたであろう里奈は不満顔になって、俺に抗議の言葉を投げかけた。
「もー、少しは気の利いた言葉とか言えないんですか? 面白い返しをするとか……そんなんじゃ出世できませんよ?」
里奈のその一言は、俺の頭の中にカチーンという擬音を響かせた。
あ、これはダメだ。
これは許しちゃいけない。
里奈のためにも、その類の冗談は、社会人に出世云々の話を振ってはいけないという事を教えてあげなきゃいけない。
見てろよ、このクソガキ。
「……まぁ、あれだな。気の利いた冗談も言えないし、面白い返しもできないけど、面白いモノマネくらいならできるぞ」
「え!? 本田さんがモノマネ!?」
「おぅ」
俺がそう言うと、里奈は驚愕の表情を見せた。
よっぽど、俺がそんな事をするのが信じ難かったのだろう。
「え……本気ですか?」
「本気だよ……見たいか?」
「み、見たいです!」
「そうか……じゃあ、やるぞ?」
「え……今ですか? ……は、はい、お願いします!」
恐る恐る、怖いものをみるように頷く里奈。
そんな期待と不安を抱いた様子の里奈に、俺はゆっくり息を吸い、渾身のモノマネを繰り出した。
「うわーん! お母さんー!」
「…………」
「…………」
二人の間に蔓延る沈黙。
一定の緊張感を含んだそれは、里奈の漏れ出すような声によって段々と薄くなっていく。
「なっ……なっ……」
そうして、顔を真っ赤にした里奈が、テーブルから身を乗り出すようにあげた大声で、その沈黙は破られた。
「最っ底です! そんなモノマネしないでください!」
「バ、バカ! 声がでけぇよ! 周りの人に迷惑だろ!」
「本田さんが悪いんじゃないですか! それに、本田さんの声も充分大きいです!」
「元はと言えばお前が出世できないとか言ったからだろーが!」
「事実じゃないですか!」
「いやそうだけども……いやそうじゃないわ! 出世する可能性くらいあるわ!」
「じゃあ何割くらいあるって言うんですか!」
「うーん……9%くらい?」
「一割未満!? 消費税より少ないじゃないですか!」
そうして罵りあっていると、不意に周囲の痛い視線に気がついて、お互いにハッと我に返る。
二人で軽く頭を下げた後、俺は羞恥心から顔を手で覆い、里奈はしゅんとなって自らの行動を省みる。
そんなお互いの姿を見て、俺達は……
「「ぷっ、ははははは」」
静かに、笑った。
目に涙を浮かべながら笑う里奈を見て、あぁ、こいつはもう大丈夫だなと妙な安心感を覚えた。
元から気を遣い過ぎるような性格だ。
そんな人間が子供みたいに笑って、誰かに甘える事ができるようになったのなら、それはもう人間としてかなり完成された状態に近いのだろう。
これからの里奈の人生は、かなり生きやすく、希望に溢れたものになるに違いない。
きっと、里奈は、“大人”と呼ぶに相応しい人間になるのだろう。
誰かを想い、誰かを助けられる人への道。
その一歩を、こいつは踏み出したのだ。
誰もがそうなれるわけではない。
そして、生きただけの時間が解決してくれるわけでもない。
だからこそ、素直に感心していた。
自分がそうなれなかったからこそ、そうなろうと今もまだ足掻いているからこそ、すごいなと、里奈の事を尊敬した。
誇らしさすら感じていた。
今は不完全でもいい。
友達に頼って、親に甘えて、ゆっくり、ゆっくり大人になっていけばいい。
正しい大人の姿を見て、正しい大人になればいい。
こいつならそれができると、そう、確信したのだ。
「なぁ、里奈」
「はい?」
涙を拭いながら返事をする里奈に、俺は“大人”として、ハリボテの“大人”として正しいと思える提案をする。
「もう、会うのはやめよう」
× × × × ×
「…………え?」
一瞬、その場の時間が止まったように思えた。
いや、俺も里奈も何も言わないから、二人の間に流れる時間は確かに止まっていたのかもしれない。
ただ、状況を理解していないポカンとした里奈の顔だけが脳裏にこびりつく。
ここ最近、ずっと考えていた。
俺が里奈に“大人”としてしてあげられる事は何だろう。
大人として、俺は里奈に何をしてあげるべきなのだろう。
大人として、“正しさ”を教えてあげるにはどうすればいいのだろう。
その答えを、俺はある人物から授かった。
里奈が失踪したあの日から、今日里奈と顔を合わせるまでの間。
俺は里奈には内緒である人物と会い、話をした。
それが、「もう会わない」という答えを生み出すきっかけとなった。
その人物とは、里奈の母親である。
あの騒動から数日が経った後、俺は里奈の母親に呼び出された。
とうとう警察に突き出されるのかとビクビクしながら応じ、指定された喫茶店に向かうと、俺の予想とは裏腹に、里奈の母親は深く頭を下げた。
里奈を見つけだし、説得してくれたお礼。
どうしてもそれが言いたかったのだと、里奈の母親は言った。
俺は恐縮し、保護者に内緒で未成年を誑かしたような人間にお礼を言われる資格なんてないと、だから頭を上げてくれと頼んだ。
それでも里奈の母親は納得してくれず、俺がいなければどうなるのか分からなかったと、最悪、里奈を失う可能性だってあったと、そう続けた。
今まで里奈と会っていた事にも目を瞑ると言われ、俺は困惑した。
罪の意識を感じ、必ずそれを償おうと思っていた手前、拍子抜けしてしまったのだ。
それに、下手に出てくる里奈の母親にも疑問を抱いていた。
どうしてそんな事を言うのだろうと、何となく居心地の悪さを覚えた。
けれど、それに続く里奈の母親の言葉を耳にして、俺は納得した。
「里奈にはもう会わないでほしい」
そう、里奈の母親は言った。
その言葉を聞いた時、不思議と違和感を覚えなかった。
当然だろうと、そう納得してしまったからだ。
里奈の母親の立場からすれば、そう思う事は普通の事で、娘に高校生らしい人間関係を築いてほしいと願う事は当たり前の事なのだろう。
謙虚な姿勢と、俺が犯した罪は水に流すという提案がある分よっぽど俺と里奈に配慮してくれたのだと思う。
最大限の譲歩の結果が、里奈の母親にその言葉を言わせたのだろう。
「え、えっと、冗談ですよね?」
「いや、本気だ」
苦笑いしながらそう聞いてくる里奈に、俺は真剣な眼差しを向けてそう返した。
すると、里奈は顔を青くして、焦ったような様子で聞き返す。
「わ、私、何かしました? もしかして、出世できないって言ったの怒ってるとか?」
「いや、ちげーよ」
「じゃあ……どうして……」
里奈の問いかけに少し笑いながら答える俺とは対称的に、里奈はしゅんとした様子でそう聞いてきた。
一度、里奈との関係を無理やり断ち切ろうとした時も、里奈は今みたいな悲しい声を出していたと思う。
少しだけ、心が揺らぎそうになった。
このまま全てをなぁなぁにして、全ての責任を放り投げて、里奈と楽しく、今までみたいに過ごしたところで罰は当たらないんじゃないかと、そう思ってしまう。
けれど、ダメだ。
それじゃあ、ダメなんだ。
結論から言おう。
俺は、里奈の母親からの提案を受け入れた。
もう里奈とは会わないと、そう宣言した。
けれど、条件付きでだ。
自分でも厚かましいとは思ったけれど、それだけは譲れなかった。
俺はもう里奈とは会わない。
その代わり、もう絶対に里奈に寂しい想いはさせないでくれと、俺は里奈の母親に言ったのだ。
それができるのであれば、俺も必ず約束は守ると。
俺のその提案に、里奈の母親は真剣な眼差しをして、深く真摯に頷いてくれた。
その肯定に嘘はなかったと思う。
多分、俺と同様に里奈の母親もまた、今回の騒動を通して“大人”になろうと思ってくれたのだろう。
だから、俺は里奈の母親を信用した。
子供のままでいいと、大人に甘えろと里奈に言ってあげる役割を里奈の母親に任せる事に決めた。
きっと、それが一番綺麗で正しい形だと思ったから。
それが里奈にとって一番望ましい環境だとそう思ったから。
だから、俺は里奈の母親の言葉を受け入れた。
そうして、また考えた。
じゃあ、俺が里奈にしてあげられることは何だろう。
ハリボテの“大人”として、里奈にしてあげれる事は何だろう。
里奈の母親に保護や支えの役割を任せた今、俺が里奈にしてあげられる一番正しい事とは一体何なのだろうと考えた。
答えは一つしかなかった。
それは、“大人”として正しい振る舞いを見せてあげる事。
“大人”として、正しい在り方を見せてあげる事だ。
「俺は、“大人”になろうと思う。だからもう、子供のお前と無責任に会ったりするのはやめるよ」
俺は里奈に、どうして里奈と会う事を止めるのか、その理由を説明した。
里奈が俺と会う事は間違いではないのかもしれない。
けれど、俺が里奈と会う事は正しい事ではないのだろう。
そんな“大人”の姿を、無責任で自己中心的な“大人”の姿を里奈に見せるわけにはいかなかった。
「わ、私、誰にも言いませんよ? どこかに連れて行ってほしいとか、そんな我儘も言いませんから……私は……本田さんとこうして話してるだけで……」
「里奈」
縋るように言う里奈を、俺は制した。
違う。
別に、お前が嫌だから距離を取るわけじゃない。
むしろ逆だ。
お前が大切だから、一人の大人として、正しい大人の姿を見せてやりたいから。
だから、“大人”として正しく接してあげたい。
それが、俺が唯一してあげられる事だから。
「本来は、俺達のような関係性はあってはならないんだ。今まではなし崩し的に慣れ合ってきたけど、今、こうして二人で顔を合わせているのは正しい事じゃない、間違いなんだ。一人の大人として、お前に間違った道を歩ませる事はできない。それに、お前もおっさんと会ったりしてるなんて噂が広まったら困るだろ? だから、分かってくれ」
「…………」
“大人”として、俺は里奈に正論を投げつける。
けれど、里奈には理解できていないようで、テーブルの中央を見つめて不満げな雰囲気を醸し出しながら、ピクリとも動かなくなってしまった。
でも、それでよかった。
今は、子供の里奈がその理由を分からなくてもいい。
例え嫌われてしまったとしても、いつか、それが正しい事なんだと、それが正しい大人の選択なんだと分かってくれれば、それでよかった。
「お前に会えてよかったよ。お前に会えなかったら、俺はずっと子供のままだった。大人になろうだなんて思わなかったと思う」
最後に、里奈に感謝の言葉を述べた。
その気持ちに嘘偽りはなかった。
里奈がいなかったら、俺はいつまでたって子供のままだったと思う。
現状に言い訳して、逃げて、文句しか言わなくて。
きっと、そのまま何も変わらずに、変わろうともせずに、つまらない人生を生きていたのだと思う。
だから、里奈には感謝しかなかった。
里奈がいるから、里奈に負けたくないから、里奈みたいになりたいから、俺も頑張ろうと思うよと、そう言ってやりたかった。
「里奈も、ちゃんとした大人になるんだぞ」
財布から取り出した五千円札を机の上に置き、席を立つ前にそんな言葉残した。
そうして里奈の前から立ち去ろうとしたその時。
「もし……」
消え入りそうな声で、里奈がそう声を漏らした。
ゆっくりと振り返り、続く里奈の言葉を待つ。
「もし……もし私が大人だったら、社会的にも、精神的にも自立した存在だったら、本田さんはどうしてましたか? 側に……居させてくれましたか?」
目に涙を浮かべながら、里奈はそう俺に聞いてきた。
俺はというと、その問いかけに戸惑って、その場に立ち尽くしてしまう。
もし、里奈が大人だったら。
そんな事、考えた事もなかった。
でも、そうだな……
もし、里奈が大人だったら。
「お前が大人だったら……」
素直に、自分が思い描いた言葉をそのまま口にする。
「お前の事、好きになってたかもしれないな」
俺がそう言うと、里奈はすぐに顔を伏せた。
さすがに踏み込み過ぎてしまっただろうか。
いや、そりゃそうか。
何歳も年の離れたオッサンにそんな事を言われたら、多感な女子校生が悪寒を覚えてしまっても仕方がないだろう。
いや、でもこのくらい言ってやってもバチは当たらないはずだ。
それくらいに、俺はこいつに振り回されて、引っ張ってもらった。
だから、このくらいは言ってやれ。
……い、いや、やっぱりまずいか?
最後の最後で通報とかされたら嫌だしな……
とりあえず謝っておこう……
「悪い、冗談でも気持ち悪かったな。忘れてくれ」
笑いながらそう謝って、俺は里奈に背を向けてファミレスを後にした。
散り始めた桜の花びらが、初夏の風に乗って俺の車のフロントガラスに舞い落ちる。
季節は移り替わり、また新しい季節が来て、色々な事が変わっていくのだろう。
今日という日は、長い人生の中の一瞬でしかない。
里奈は、これから先、色々な事を経験して、苦労して、大人になっていくんだろう。
俺だってそうだ。
大人と言ってもまだまだ若造。
これから先も生きてかなければならない。
きっと、今この瞬間の感情も、里奈という存在も、長い時間の中で風化して、どうでもよくなってしまう時が訪れるのだろう。
でも、それでいい。
俺にとっても、里奈にとっても。
大人になる過程で、この数日の経験が役に立ってくれるのであればそれでいい。
間違った事はしてはいけないと、そんな馬鹿真面目な事を言う“大人”もいたなと、記憶の片隅にでも残してくれればそれでいい。
それで、いいんだ。
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