第12話
「里奈」
水平線に浮かぶ朝日を見つめていた里奈の背中にそっと声を掛けた。
里奈は振り返り、俺の顔を見ると、ビクッと体を震わせた。
どうしてこんなところにいるのと、そんな風に言いたそうな表情をしていた。
隠し事がバレてしまった幼子のような、そんな顔だ。
「こ、来ないでください」
里奈の要望を、俺は受け入れた。
近づかず、その場から動かない。
けれど、話すとは言われなかったので、俺は里奈の瞳をじっと見つめながら、優しい声音で語り掛けた。
「お母さん、心配してたぞ」
「……お、お母さんに会ったんですか?」
「あぁ」
俺がそう言うと、里奈は面を食らったような顔をした。
自分がオッサンと会っていた事が親にバレたのが相当ショックだったのだろうか。
それなら最初っから会うなよと心の中で愚痴ってみるが、それを言葉にしたらまた面倒な事になりそうだったので黙っておく。
「う、嘘です。お母さんが私の心配なんてするわけない……仕事が忙しくて余裕ないのに……」
「んなわけないだろ。高校生の娘が深夜にあんな意味深なメモ残して行方不明になってみろ。心配しない親なんているわけないだろ。見ろ、ここ。お前の母親に殴られたんだぞ」
「え……」
「お前がしょうもない事するから」
「え、あ……ご、ごめんなさい……」
里奈の母親に殴られ赤くなった頬を指さすと、里奈はまた、信じられないといった表情になった。
里奈の母親は、普段は人に暴力を振るうような人間ではないのだろう。
娘の里奈を見ていれば良く分かる。
子は親を映す鏡だ。
心優しい人間の親が心優しくないわけがない。
そんな母親が、他人に暴力を振るったというのが信じられなかったのだろう。
里奈がそんな顔をするのも仕方がない事だ。
「まぁいい、許してやる。俺もこの前お前の話ちゃんと聞いてやらなかったからな。これでおあいこだ」
俺がそう言うと、里奈は何とも言えない表情を浮かべながら下を向いた。
何と言っていいのか分からなかったのだろうか。
それとも、頬を打たれただけでは私を無視した罪は償えないとでも言いたいのだろうか。
まぁ、どっちでもいい。
「なぁ、里奈」
「……はい」
「お前、本当は誰かに構ってほしかったんだろ?」
「っ……」
優しい声音で里奈に語り掛け、俺はこの一連の騒動の意味、里奈の行動の深層心理を言葉にした。
何も言わないという事は、図星なんだろう。
里奈は、誰かに構ってほしくて、甘えたくて、マッチングアプリなんていう代物に手を出した。
それが、俺が多くの情報や記憶からあぶり出した結論だ。
「お母さんに聞いたぞ。お前、普段はしっかり者なんだって? ファミレスにいた時も、友達に大人みたいだって言われてて、可笑しいと思ったんだよ。俺と接する時のガキみたいな我儘を言うお前とは別人みたいだって」
ずっと、違和感を覚えていた。
俺と接している時と、母親や友達に接している時の里奈の姿が別物だという事を。
本当の里奈はそうで、俺が知っている里奈が作られた、演じられた里奈なのではないかとも考えた。
けれど、違かった。
本当の里奈は、俺が知っている方の里奈だった。
我儘で、甘えた事ばかり抜かす“子供”。
それが、里奈のありのままの姿だ。
どうして、近しい人間ではなく、俺みたいな会って間もない他人に本当の姿をさらけ出したのか。
詳しい事情は知らないが、何となく、里奈の考えが、気持ちが想像できた。
多分、普段しっかりしているから、いや、しっかりしていると思われているから、弱みを見せるのを躊躇ったんだろう。
期待とか、義務感とか、色々なしがらみに取りつかれて、誰かの理想に寄り添い、自分自身を殺していく。
それは、社会に出てからの俺と同じだ。
そういう人間にとっては、近しい人間よりも赤の他人と接する方が気楽だったりする。
だから、里奈は気軽に弱みを見せられる他人に近づいたんだろう。
「お前は気兼ねなく依存できる大人を探していた。それで、出会い系アプリなんかに手を出して、アプリの中で比較的扱いやすそうな俺を見つけて、友達作りに協力してほしいだなんて断りにくい理由で縛って、ありのままの自分の側に居てくれる人間を作った。全部俺の妄想だけど、違うか?」
自分の中で組み立てた推察を、ゆっくりと、里奈に言い聞かせた。
「……そうです」
すると、下を向いていた里奈はその顔を上げて俺を見据え、ゆっくりと、肯定の意味合いを持つ頷きをした。
「昔から、取り繕うのだけは上手かったんです。真面目で聞き分けのいい、手間のかからない優しい子。そうすれば、そういれば褒めてもらえるから、認めてもらえるから。だから、我慢して、自分を抑え込んで、家族や友達にとっての理想の人間を演じてきました。それでよかったんです。それで、全てが上手く回っていました。そうすれば、一人ぼっちにはならないから」
我慢していたものが溢れて止まらないかのごとく、里奈は今までの自分の在り方についてを語りだした。
「でも、両親の離婚で突然環境が変わって、自分を取りまく人間関係が変わって、今までの全てが、色々な事が変わって、追いつかなくなりました。余裕がなくなって、周りの想いや期待を汲み取る事が苦しくなって、でも、それでも、今までの自分らしさをなくしてしまうのが怖くて、自分まで変わってしまうのが怖くて、しんどいのにまた我慢して、取り繕って」
里奈の瞳の奥底に、もがき苦しむような重圧と孤独を感じた。
きっと、里奈は頑張ってきたのだろう。
自分が何とかしようと、自分だけは変わらずにいようと、自分が、誰かを支えられる存在になろうと、“大人”になって、全てを受け入れようと、そうしたのだろう。
「そうしているうちに、限界が来ました。生まれて初めて“寂しい”と思いました。どうして自分ばっかりって思いました。だから、少しだけ悪い事をしてやろうって、少しだけ我儘になろうって、そう思ってアプリを始めました。……最初は話相手を探そうくらいの軽い気持ちだったんです。でも、現実は厳しくて、怖い思いもしましたし、気持ち悪い言葉も沢山投げかけられました。正直、失望しました。あぁ……この世界に大人なんていないんだって、みんな自分勝手に生きてる子供だって」
里奈の言葉に、俺はハッとさせられる。
子供がそんな言葉を吐いた事に、子供にそんな言葉を吐かせる世の中に、憤りと不甲斐なさを感じてしまったのだ。
「でも……」
そんな、全てに絶望していた里奈が、冷めた表情をしていた里奈が、優しい表情を浮かべて言った言葉は、俺にとってとても歯がゆい物だった。
「でも、本田さんは違いました」
じっとこちらを見つめて、里奈は言う。
「初めて、子供として誰かに甘えられました。初めて、一方的に話す事を許してもらえました。初めて、我儘な自分をさらけ出しました。初めて、“大人”な人だなと思える人に出会えました。私の周りは子供みたいな人ばかりだから、本田さんと一緒にいるのは新鮮で、居心地が良かったです」
そう言う里奈の表情は、未だかつてないほどに大人びて見えた。
多分これが、里奈が周りの人間に見せる、普段通りの姿なのだろう。
誰かを気遣い、誰かを想い、誰かのために我慢をする。
きっと、今も真実を知った俺の事を気遣って、甘えた言葉を吐き出すのを我慢しているのだろう。
「だから……ごめんなさい。本田さんに依存してしまいました。甘えてしまいました。この人なら許してくれるだろうって、そう思って我儘を言いました。でも、それも終わりにします。私も、本田さんみたいに“大人”になろうと思います。」
謝る里奈を見て、確信する。
こいつはきっと、この先もずっと自分以外の誰かのために自分を殺すのだろう。
きっと、誰かのために“大人”になろうとするのだろう。
それは美しいことだと俺は思う。
立派で、褒められた事だと思う。
「里奈……」
頭を下げる里奈に、低い声で語り掛けた。
お前はすごいよと、素直に尊敬の言葉を送りたかった。
でも……でも。
「わるいけど、俺は子供だぞ」
それは、今じゃない。
「……はい?」
「いや、だから、俺はお前が思うような人間じゃないって。何かあれば平気で回りのせいにするし、上手くいかないとすぐに環境のせいにするし、自己保身の塊だし、いっつも自分に言い訳して頑張らないで逃げるし」
「えっと……あの……」
「俺は大人なんかじゃない。なんだったら、お前の方が大人なんじゃないかって思うくらいだぞ」
「え、えぇ……」
しんみりとしたシリアスな雰囲気は、俺のその言葉で台無しに。
里奈はドン引きしていた。
いや、確かにそうだろう。
信仰していた相手が、信頼していた大人がただのクソガキだったなんて、そんな胸糞展開、下手すれば子供にトラウマを植え付けかねない。
我ながら、本当に大人げない言葉を投げかけたと思う。
「えっと……じゃあ、私はどうすれば……」
「今はまだ子供のままでいいんじゃないか? 子供なんだから。どうすれば大人になれるのかは……これからゆっくり考えていけばいい」
「子供……」
でも、今はそれでよかったんだと思う。
子供は子供らしく、誰かに依存して、誰かに甘えていればいい。
それを許してあげるのが、許して、道を示してあげるのが大人の使命であり義務だと思うから。
だから、今は子供のままでいいんだと、心の底からそう思う。
問題は、そんな大人が里奈の周りにいないという事だ。
そもそも、大人とは何のだろうか。
何が人を大人と定義付けるのだろうか。
ずっと考えていた。
ずっと悩んでいた。
里奈は俺を大人だと言った。
けれど、それは年齢的な部分からそう感じただけで、他の人間から見てもそうであるとは限らない。
そもそも、俺自身が自分を大人だとは思っていなかった。
我儘で、自分勝手な子供だと、そう思っていた。
東が言っていた。
大人とは、自分自身をコントロールし、自分の意思で生きていける人間の事を言うのだと。
確かにそれは正しいのだと思う。
というか、世間一般的に言う大人の定義の全てが正しいのだと思う。
誰かを思いやり、誰かを助け、誰かを導く。
そんな完璧な人間こそが、大人と呼ぶに相応しいのだと思う。
本当は初めから分かっていたのかもしれない。
分かっていて、目を背けていた。
決して手の届かない理想に嫉妬し、知らないフリをした。
大人になるのは、大人であるのは大変だ。
それなのに、大人でいる旨味は、メリットはあまりない。
社会は、人間は皆不完全だ。
時に誰かを傷つけ、時に誰かを否定し、時に誰かを裏切らなければ生きていけない。
自己保身、そして自己愛の塊。
みんな自分が可愛くて、みんな自分さえよければそれでいいのだ。
自らの身に降りかかる不条理を、誰かのせいにして許されたいのだ。
そんな欠陥だらけの存在の中で、誰かのために生きようと、完璧であろうとするのはハッキリ言ってバカのする事だ。
きっと、一人だけ損をして、理想に絶望して潰れるだけ。
それを知っているから、世の大人になるべき人間達は大人になれない、いや、ならないのかもしれない。
自分勝手に生きる方が楽で安全だから、体だけ大きな子供のままでいるのかもしれない。
きっとそうだ、そうに違いない。
俺だってそうなのだから。
誰だって、自分が損するのは怖い。
自分だけ割を食うのは面白くない。
だから、第三者として傍観を決めようとする。
だから、自分以外の誰かに責任をなすり付けようとする。
結論として、“大人”になるという事は、ほぼ罰ゲームみたいなものなのだろう。
自己愛にまみれた世の中で、誰かのために身を切る行為をするのは正直しんどい。
不完全が当たり前の世の中で、完璧でいようとするのは無意味な事なのかもしれない。
だから、みんな大人になるのを恐れるのだろう。
我儘を言って、子供のままでいようとするのだろう。
俺だってそうしたいし、今までだってそう生きていた。
けど……けど。
もし、その役割が、大人であるべき人間達が放棄した役割が、巡り巡って“大人”になるべきではない子供に回ってしまった時。
それが、自分の目の前で、自分が少なからず大切に思っている存在に適応されてしまった時、俺はどうあるべきなのだろうか。
答えは、決まっていた。
世間が思う完璧にはなれないかもしれないけれど。
お手本になるような人間性は持ち併せてはいないかもしれないけれど。
その子供が、いや、里奈が困ったり、助けを求めている時に、手を差し伸べてあげる大人がいないのであれば。
大人に頼れと、お前は子供のままでいいんだと言ってあげる“大人”がいないのであれば。
俺が、大人になるよ。
大人に頼れと。
子供みたいに甘えていいんだと。
俺が、何度だって言ってやる。
きっと、“大人”になるというのはそういう事なのだろう。
大切な何かのために、完璧であろうともがき苦しむ事ができる人間。
それが、“大人”と呼ぶに相応しい人間。
人を“大人”したら占める要因。
それが、俺が長年探し求めた答えなのだと、そう思う。
「……子供って、何をすればいいと思いますか?」
俺の言葉に、里奈は戸惑いを見せている様子だった。
そんな里奈の問いに、俺はシンプルな子供のイメージを答える。
「さぁ……まぁ、親に甘えたり、泣き付いたりするのはすごい子供っぽいと思うな」
「そ、そうですか……」
何となく理解できていないような里奈を尻目に、俺は車で待機しているはずであろうある人物に合図を送った。
すると、その人物は急いでドアを開け、物凄い勢いでこちらに近づいてくる。
「里奈!」
「お母さん……」
勢いよく里奈に抱き着き、安心したような様子を見せる里奈の母親。
対照的に、里奈は戸惑ったような様子を見せていた。
後ろ髪を撫でられながら、強制的に母親の胸に顔を埋めさせられていて表情は確認できないけれど、声のトーンから相当困惑しているのが分かる。
「ゴメン……お母さん、里奈の気持ち考えてなかったよね……辛かったよね……ゴメン……ゴメン……」
「ううん、大丈夫だから泣かないで、私は……」
泣きながら謝る母親を、里奈は気遣おうとした。
けれど、途中で言葉が詰まって、何も言えなくなる。
横顔から見える里奈の瞳には、薄く涙が滴っていた。
その姿は、我慢しなくてもいいのだろうか、自分の本当の気持ちをさらけ出して、みっともなく子供みたいに泣いてしまってもいいのだろうかと葛藤しているように見えた。
里奈と目が合った。
何となく、その答えを俺に求めているように見えた。
何となく、そう思えたのだ。
だから、俺は迷わず、ゆっくりと、優しく頷いた。
泣いてもいいのだと。
我慢しなくてもいいのだと。
今はまだ、子供のままでもいいのだと。
「うぅ……うぅ……」
わんわんと泣きじゃくる里奈の姿は、俺が今まで見た事のない里奈の姿だった。
いや、その姿は、誰も知らない里奈の姿だったのかもしれない。
本当の、嘘偽りない里奈の姿だったのかもしれない。
けれど、その姿は、俺の知らない里奈の姿は、今までで一番里奈らしい姿だった。
一番しっくりくると、そう思った。
泣きじゃくる彼女を咎めるものなど何も存在しない。
春の優しく照り付ける朝日も、西から吹く頬を撫でるような柔らかい風も、全てが彼女を肯定しているようだと、そう、思った。
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