第9話

 その日の夜だったろうか。


 自宅のベランダでタバコを吸っていると、不意に座卓の上に置いておいた携帯電話が鳴った。


 電話やラインとは異なる独特な着信音。


 初めて聞いたそのリズムと音に、とうとう壊れてしまったのかと少しだけイラつきながら携帯電話を手に取った。


 そうして画面を確認して、俺は渋い表情になる。




 携帯電話は壊れていなかった。


 いつもと異なる着信音の正体は、あるアプリ内での着信を知らせていたから。


 そのアプリの名は「チャット+」。


 数日前に会社の後輩に薦められたマッチングアプリだ。


 このアプリ内で俺に電話を掛けてくるような人物は一人しかいない。


 それを知っているからこそ、俺は電話に出るのを躊躇ったのだ。


 何となく、話をするのが気まずかった。


 願う事ならこのまま着信が途切れて、相手があきらめてくれないかと、そう思っていた。


 けれど、そんな願望は儚く散り、独特な着信音は何もない六畳間に響き続ける。


 しばらく無言のまま何もせず、携帯電話を眺めていた。



 しかし、永遠と鳴り続ける電子音にとうとう痺れを切らし、根競べに負けた俺は、ゆっくりと携帯電話のロックを解き、溜息を吐いた後に低い声で電話に出た。




「もしもし」


「あ……本田さん……」




 しょぼくれたような声で、里奈が俺の名前を呼ぶ。




「どうした?」




 そんな里奈に、俺は気遣うような言葉も掛けずに、要件だけを問いただした。


 それがかなり大人気ない対応だという事は、自分でも分かっていた。




「あの……ごめんなさい……」


「何が?」


「いや……その……ずっと……嘘ついてました私……」


「…………」




 謝る里奈に、どうして謝るのかを聞いた。


 すると、里奈は正直に、自分が今まで何をしていたのかを言葉にした。


 もっと、言い訳するのかと思っていた。


 子供は我儘で自分勝手だから、だってだってと駄々をこね、自己保身に走るのだろうと思っていた。


 けれど、里奈は決してそんな事はしなかった。


 自分の非を認め、謝った。


 それは、その対応だけは凄いと感心した。


 俺なんかよりも、よっぽど大人の対応をしていたと思う。




「……一体、何が目的なんだ?」


「……え?」


「“友達を作るのを協力してほしい”って言う明確な理由があったから俺はお前と会ってたんだぞ。それなら仕方ないって自分に言い聞かせて、リスクを承知の上でお前に協力した。でも、それが嘘だって言うんなら、俺達が今までしてきた事って一体何だったんだよ? お前は、どうして俺に関わろうとしたんだ?」


「そ、それは……」




 大人な里奈とは対照的に、俺は大人気なく、語勢を強めて里奈を問い詰めた。  


 自分で言っていてクソダサいなと、そう思っていた。


 でも、止まらなった。

 

 仕方なかった。


 怖かったんだ。

 

 自分の身が危険に晒される事が。


 理不尽に蹂躙されるのが。


 里奈にも何か事情があったのかも知れない。


 その可能性は否めない。


 けれど、俺にはそれを受け入れる度量がなかった。


 自己の保身だけを考えるべきだと社会に出て学んだから。


 社会を統べる体だけが大きくなった子供達にそう教え込まれたから。


 だから、自分もそれに倣った。


 自分もまた、体だけが大きくなった子供になった。


 そうする事が、そうある事が一番簡単で安全だから。


 だから、誰もが認める“大人”になんてなれなかった。




「やっぱり、何か企んでたのか? おっさん陥れて楽しんでたとか?」


「ち、違います!? そんな事、私は……」


「すまん、信じられない」




 否定する里奈に、冷たく、突き放すようにそう言った。


 それを境に、里奈は何も言わなくなった。


 いや、何も言えなかったんだと思う。


 人生経験の少ない人間に、全てを否定するような言葉を投げかければそうなるのも仕方ないのだろう。


 ただ、張り詰めたような息遣いが画面から聞こえてくるだけだった。




「……悪い、言い過ぎた。今のは忘れてくれ。でも、お前に友達がいて安心したよ。ずっと心配してたんだ」


「ほ、本田さん……」




 さすがに言い過ぎたと反省し、丁寧な声音で里奈に謝った。


 すると、里奈も安心したのか、少しだけ明るい声でそう返した。


 そのまま、俺は諭すように里奈に言う。




「良かった。これで不憫な思いをすることもないよな」


「本田さん……あの……私……」


「だから、もう連絡を取るのはやめよう」


「……え?」




 俺がそう言うと、里奈は甲高く短い声を挙げた。


 その後、里奈は黙りこくってしまう。


 おそらく、俺の言葉に理解が追い付かなかったのだろう。


 そんな里奈の返答を待たず、俺は自分の要件だけを淡々と述べていく。




「里奈、悪い事は言わない。元々こんな関係おかしかったんだよ。大人として弁えなかった俺が悪かった。でも、いい機会だ。これを区切りにちゃんとしよう。お前も高校生らしく、同世代の人間と接しろ、な?」


「そ、そんな……私、急にそんな事言われても……」


「大丈夫。お前ならなんとでもなるよ」


「本田さん、待っ……」


「元気でやれよ」




 そのまま、里奈の言葉を遮るように電話切った。


 一瞬、これで良かったのかという疑念が脳裏を過ったが、俺の判断は間違えていなかったと思う。


 リスクを負う前に損切りする。


 社会人として理想的な判断ができたと思う。


 物事が拗れる前に、強制的にその原因から距離を取る。


 後は時の流れが癒してくれるはずだ。


 きっとそうに違いないだろう。


 だから、大丈夫だと。


 俺にとっても、里奈にとってもこれは正しい判断だったと、必死に自分に言い聞かせた。


 けれど、そんな理性的な思考とは裏腹に、気分は最悪だった。


 まるで、二日酔いの朝のような気分。


 これだから、他人を信用して、情を持ってしまうのは恐ろしい。


 こんな気分を味わなればいけないのであれば、俺は一生“大人”になんてなれなくてもいい。


 人を疑い、自己を保身し、負の感情を巻き散らす子供のままでいい。


 こんなんだから、世の中には子供ばかりが増えてしまうのだろう。


 裏切られる事を恐れ、傷つく事を恐れるから、皆自分勝手に生きるのだろう。


 今なら、そんな気持ちが少しだけ理解できる気がした。


 俺は、もう誰も信じない。

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