第7話
『本田さん』
『何?』
『日曜日、付き合ってください!』
『またか……で、どこに行くんだよ?』
『水族館です!』
『水族館?』
『はい!』
『情報収集もいいけど、いい加減学校とかで同級生に声掛けたほうが早いんじゃ……』
『う、うぅ……わ、分かってますよそんな事! あんまり傷つくような発言ばかりしてると通報しますよ!?』
『わかったわかった……行けばいいんだろ、たくっ』
『分かればいいんです。それで、また仙台駅集合で大丈夫でしたか?』
『いや、現地集合にしてくれ』
『げ、現地ですか? 別にいいですけど……』
『後で集合時間教えて』
『分かりました』
『あいよ』
× × × × ×
日曜日。
世間の大人達がまだまどろみの中にいるであろう午前10時。
俺は眠い目を擦りながら車を走らせ、里奈が待つであろう水族館へと向かっていた。
スピーカーから聞こえてくるラジオパーソナリティーの声が疲れた体に染み渡る。
どうしてこう、子供と老人の一日の始まりは早いのだろうか。
日曜日と言えば、朝早くから子供はアニメや戦隊モノの番組を、老人は釣り番組や囲碁、ワイドショーを見ているイメージがある。
一方で、労働を生業としている人間の日曜日のスタートは限りなく遅い。
良くて昼、最悪夕方からの始業と相場が決まっている。
起床時間が日によって変わるのはあまり良くないと何かのテレビ番組で言っていたような気がするが、仕方がないのだ。
それほどに、働くという行為は過酷なのだろう。
子供の頃はよく起きれていたなと、そして、自分が老人になった時に早起きできるかなと、無意味な不安が脳裏を過る。
子供や老人と、自分の違いは何なのだろう。
年齢か、それとも働いているかいないかの違いなのか。
うーん、やっぱり後者な気がする。
そうなると、仕事というものに割かれる人間のリソースは相当なもので、人間にとってそれがどれだけ“毒”となっているのか、その真実に気づいて驚嘆してしまう。
やっぱ、仕事ってクソだわ。
目的の場所に到着し、バックでゆっくりと駐車する。
工業港の近くに位置するその場所は、日曜日の朝にも関わらず働く大人達、そして働く車達で賑わっていた。
お勤めご苦労様ですと、目に涙をにじませながら労働者達に敬意を払う。
車を降り、入場口の前で里奈の姿を探すも見当たらない。
あれ、もしかしたら早く着いてしまったのだろうか。
いや、でも集合時間の15分くらい前だな……
まぁ、ここに来る交通手段と言えば、車を除けば電車かバスぐらいしか存在しない。
そして、里奈の家付近からこの場所まで公共機関を使って来るとなると、少なく見積もっても一時間くらいはかかる。
だから、里奈の到着は集合時間ギリギリになるのだろう。
おそらくそうに違いない。
ここは大人として気長に待ってやるかと、周りに人がいないのを確認して、タバコと携帯灰皿をズボンの後ろポケットから取り出し火をつけた。
日曜日だからもっと人で溢れかえっているのかと思っていたけれど、想像よりも人の入りは少ないみたいだ。
やっぱり、日曜日と言えど、世間の人々の活動は基本午後から開始されるのだろう。
こんな時間に、こんな場所に、男一人でいるのは俺くらいである。
そう思うと、何だか突然恥ずかしくなってきた。
里奈、早く来てくれ……
「本田さん」
そう、自分の置かれた状況を恥じ、里奈の到着を心待ちにしていると、駅の方向から歩いてきたであろう里奈が俺に声を掛けてきた。
おぉ! ナイスタイミング!
助かったと、初めて里奈に感謝に近い感情を抱く。
「よぅ」
「おはようございます……早いですね?」
「まぁ、車で来たからな」
「……え?」
タバコの火を消しながらそう返事をすると、里奈が疑問を口にした。
簡潔に返答すると、里奈はきょとんとした後、信じられないと言ったような表情になって俺を見つめてくる。
……え、なに。
「え、車で来たんですか?」
「お、おぅ……」
「私、電車で来たんですけど」
「そ、そうか……」
何故か不機嫌そうに聞き返してくる里奈を不思議に思いながら、低い声で返事をする。
すると、里奈はムムムと小さく唇を噛んだ後、腹の中にあったのであろう俺への不満を吐き出した。
「そうかじゃないですよ! どうして乗せてくれないんですか! どうせ近所に住んでるんですから迎えに来てくれてもいいのに! ここまで歩いて来るの結構遠かったんですからね!」
「いや、未成年を保護者の許可なく車になんて乗せたら罪が重くなるだろうが……」
そう、ムキーという効果音が聞こえてきそうなくらいにプンプンと憤る里奈。
それを宥めるように、俺はそれらしい理由を立てて反論する。
たしかに里奈の言い分も分かる。
どうせ近くに住んでいるのなら、通り道で拾ってくれてもいいじゃないかと、その方が効率的ではないかと言いたくなる気持ちも分かる。
俺だってそうしてやりたいと思っていた。
でも、それは不可能なのだ。
“少女”という立場の里奈にそれをしてしまえば、“大人”として扱われる俺は罰せられてしまう。
それだけは、理性のある“大人”として避けたかった。
未成年誘拐だけじゃなく、拉致監禁まで付いたらシャレにならない。
「会ってる時点で犯罪なんですから、今更気にしたってしょうがないじゃないですか!」
「お、お前が無理やり付き合せてるんだろうが!」
「そうですけど……もう、本田さんのケチ!」
里奈の反論に大人げなく言い返すと、里奈は更に機嫌を悪くして、そう言ってそっぽを向いてしまった。
一瞬ぶっ飛ばしてやろうと思ったけれど、未成年誘拐の他に暴行罪まで加わってしまえばさすがに実刑を免れられないので、グッと感情を飲み込んで、里奈の気持ちに歩み寄る。
「はぁ……俺が悪かったよ……水族館は奢ってやるから、機嫌直せ」
「……本当ですか?」
「あぁ、反省してる」
「なら、許してあげます」
「このクソガキ……」
……やっぱり、ぶっ飛ばしておいたほうが良かったかしら?
× × × × ×
受付で大人二枚分のチケットを買い、片方のチケットを里奈に渡して入場ゲートへと向かう。
ゲートをくぐると、若い女性のスタッフさんが「ようこそ!」と出迎えてくれた。
まるで真夏の青空に下に咲く向日葵のような、弾ける笑顔が眩しい。
か、可愛い……と、そう思った。
この笑顔を見れただけで今日来た甲斐があったなと慎ましい幸福を感じていると、背後からの鋭い視線が俺を刺す。
悪寒がし、何だ何だと後ろに振り返る。
すると、里奈がジトーっとした目でこちらを覗いていた。
「……え、何」
「……いや、別に」
不貞腐れたように、プイッとそっぽを向く里奈。
……え、何、本当に。
もしかして、まだ機嫌直ってなかったの?
それは話が違うじゃん。
水族館のチケット代奢るから、今朝の事は許してくれるって言ったじゃん。
俺、奢り損じゃん。
そう、自分の身に降りかかる理不尽を嘆いていると、里奈はそんなのお構いなしにゲート付近に置かれていたパンフレットを取りに行き、手に取ってそれを眺め、へぇーと声を漏らした。
……早!? 切り替え早!? 鬼か、切り替えの。
そう思いながら、里奈に近づいて背後からパンフレットを覗き見る。
パンフレットには、海の生き物達と一緒に園内の見取り図が記されていた。
この水族館は日本の海の生き物、世界の海の生き物、ステージ、グッズ売り場と順番で見て回れるように建設されているようで、「ふん、効率的だな」と、そんな感想を抱いた。
……いや、いかんいかん。
何でもかんでも効率とか、コスパの事とかを考えてしまうの社会人の悪い癖だ。
風情もクソもありゃしない。
ここはもっとこう……ワクワクしちゃうぜ!★ みたいにはしゃいだ方がいいのかもしれない。
里奈もその方が楽しいだろう。
きっとそうだ、そうに違いない。
そうと決まれば、早速一芝居打ってと……
「おぉ! すごいな! ワクワクしちゃうな! な、里奈?」
「え? ……あ、あぁ……はい」
「どうした?」
「いや、確かにすごいと思いますけど……すいません、連れてきてもらった身で非常に言いづらいんですが、良い大人がそんなにはしゃぐとは思わなくて……水族館、来た事なかったんですか?」
「…………」
俺の渾身の演技に、里奈はドン引きしていた。
このガキ……人がせっかく気を遣って……と、腹の中で激しい感情を燃やす。
しかし、その気遣いは里奈に頼まれたものではなく、ただの俺のお節介に過ぎなかったので、強気になれず、渋々吐き出したかった言葉を飲み込んだ。
まぁ、何だ。
俺は里奈を子供扱いし過ぎたのかもしれない。
イマドキのJKが、水族館如きではしゃぐわけがないだろう。
子供でもないし、大人でもない。
そんな微妙で中途半端で扱いずらい存在、それが世のJKというものなのだろう。
改めて、その儚さと脆さを認識した。
そのまま、俺達は順路に従って水族館内に侵入していく。
天井と水槽とが融合し、そこに上手い具合に日の光が差し込んで、まるで星空のようにキラキラとしている細い道を通り抜けると、開けた場所に辿り着いた。
目の前に、映画館のスクリーン代の大きさはあるであろう巨大水槽が現れる。
「うわぁ……す、すごい……」
「おぉ……」
俺も里奈も、思わず息を飲み、嘆声を挙げた。
巨大水槽の中には何種類、いや何十種類もの魚達が共存し、舞うように水の中を泳いでいる。
近くによって、目を凝らして確認する。
サメ、エイなど、海の生き物に詳しくない俺でも分かるメジャーな生物達。
その周りを泳ぐ、大振り、小振りな魚達。
あれは……マグロか? いや、カツオか?
馴染み深い魚のはずなのに、実際に生きている姿を見ると判断がつかないのが日本人として情けない。
切り身で見れば分かるのにな……と、水族館にいる人間としてあるまじき発言を頭の中に浮かべていると、不意に、背後からカメラのシャッター音が鳴り響いた。
振り返ると、里奈がスマホのカメラを使って、無我夢中で水槽の全体像と中にいる魚達を撮影していた。
魚達が驚かないように、フラッシュは焚いていない。
何だ、こいつ以外と気が利くというか、しっかりしているなと感心していると、里奈が興奮気味に声を掛けてきた。
「本田さん、早く次行きましょう!」
「お、おぅ」
逸る里奈に手を引かれ、俺達は次のエリアへと進んでいく。
……何だ、やっぱり子供じゃないか。
そう、はしゃぐ里奈の姿を見て思った。
落ち着いた、大人びた姿を見せたかと思ったら、はたまた子供みたいに無邪気に笑いだす。
本当に、この年頃の子の扱いは難しいなという事を実感する。
けれど、楽しいそうにしている里奈の姿は、正直悪くはなかった。
× × × × ×
「本田さん、見てくださいあれ!」
「え?」
「うわー! かわいいー!」
日本の魚達、世界の魚達、そしてアザラシやセイウチ、ペンギンなどのメジャーどころを見て回った後に辿りついたそこで、里奈は今まで聞いた事のないような猫撫で声を挙げた。
ショーウインドーにギリギリまで近づき、つぶらな瞳でこちらを見るそれにブンブンと手を振っている。
そんな里奈の姿に少しだけ引きながら、俺も近づいてそれを見た。
それとは、この水族館のスター的立ち位置に存在する動物の事である。
……そう、カワウソだ。
正式名称:ツメナシカワウソ。
カワウソの中では大型の種類であり、前肢には爪が無く、とても器用に物を掴むことができる。愛くるしい見た目とは裏腹に、鋭い牙を使いながら荒々しく食事をする。前肢を使い、顔やお腹をがしがしとグルーミングする姿はとても個性的。一度みたらこの可愛さに魅了されるはず。
と、ショーケースの隣に設置されたパネルに表示されている。
うぅ……確かに可愛い……
短い手足、ごわごわとした毛皮、間抜けそうで愛嬌のある顔つき。
そんな無垢で純粋な存在に、つぶらな瞳で見つめられてしまえば大抵の人間が堕ちてしまうのは間違いないだろう。
里奈だけではなく俺でさえ、その魅力に陥落してしまいそうだった。
まずい、このままでは貴重な休日の時間の大半を、ここでカワウソと向き合って過ごす事に消費してしまいそうだ。
それは何としてでも避けたい、でもかわいい、でも帰りたい、でもかわいい。
……いや、でもこれ、精神的に癒されてるからありっちゃありなのでは?
休日は、体と心を休めるためにある。
それなら、このアニマルセラピー的な過ごし方も悪くはないんじゃないかと、そう思えてきた。
体、全然休めてないけど。
そう、カワウソの魅力に憑りつかれかけていた時だった。
場内アナウンスが鳴り、イルカショーの開催がお知らせされる。
お、これはありがたい。
無理やりにでもこの場を離れないと、閉館時間までこの場に留まってしまいそうだった。
だから、今の俺達にとってそのアナウンスは好都合。
丁度いい理由ができたと、そう思った。
イルカショーを見なきゃ……という気持ちを利用してこの場を離れ……
しかし、里奈はカワウソの前に張り付いて、決して動こうとはしなかった。
「おい、里奈」
「な、何でしょう……」
「イルカのショー、始まるってよ」
「そ、そうですね……」
「……いや、そうですねじゃなくて、見なくていいのか?」
「いや、イルカのショーは絶対に見たいです。でも……」
「でも?」
「体が、言う事を聞きません」
「はぁ?」
里奈のその言葉に、俺は溜息をつく。
詳しい事情を聞くと、里奈はこう言った。
「この子が、私に行かないでって……」
………………………。
どんな事情があるのかと思えば、ほとんど妄言だった。
気持ちは分からなくはないが、正直何言ってんだこいつと思ってしまった。
それと同時に、どんだけ名残惜しいんだと驚いてしまう。
小さい子供でもこんなに粘らんぞと、里奈の予想外の幼さに舌を巻く。
けれど、このままじゃ帰宅時間が何時になるか分からない。
それに、今、この時間のイルカショーを逃してしまえば、次は何時になるのか分からない。
ここはそそくさとイルカショーを見て、タスクを前倒しにした方が絶対にいい。
そのためには、この図体だけデカくなったガキをこの場から引きずり剥がす必要がある。
俺は心を鬼にして、里奈に言う。
「いや、でもイルカショー見逃したら次何時になるか分からないぞ? 良いのか、見れなくなっても」
「いや、ダメです。イルカショーは絶対に見ます。でも……でも……」
「あぁもう、ほら、行くぞ」
「いやぁ、やめてー」
「おまっ、バカ!」
里奈のその一言で、一瞬で周りにいた人達の視線がこちらへと集まった。
まるで俺が変質者みたいな、そんな視線。
実際、やっている事は、未成年を水族館に連れてきているという行為は犯罪そのものなので文句は言えないが、それにしてもマズイ。
何がまずいって、このまま不審に思われて係員でも呼ばれてしまえば、里奈と俺との関係が芋づる式にバレてしまいそうでまずい。
こいつ、俺達の立場分かってんのか? 絶対に忘れてるだろ……。
痺れを切らし、危機感を持った俺は、自分に不都合しかない最終手段、切り札を切った。
「また連れてきてやるから、今日は行くぞ!」
「また…………」
俺がそう言うと、里奈はすんなりとショーケースを掴む手の力を抜いた。
「……絶対に、約束ですからね」
「はぁ……分かったよ……ったく」
俺から言質を取ると、里奈は上機嫌でイルカショーの会場へとその足を向けた。
本当もう、子供かよ……
その場に、俺の溜息が広まっていく。
背後にいたカワウソが、「大変だなぁ……」みたいな、哀れなものを見るような瞳でこちらを見つめている。
お前のせいじゃと、小さな声で言い返した。
× × × × ×
やや小走りでショーの会場に向かうと、既にほとんどの席が埋まり、もう前の方の席しか残されていなかった。
やはり、カワウソの前で時間をロスしたのが原因だろう。
それに、朝より客が増えているような気もした。
午前中と言っても、やはり休日。
これがこの水族館の本来の集客力なのだと、圧倒的な実力を見せつけられて思わずたじろいでしまう。
仕方なく、俺達は前方の席に座り、今から始まるであろうショーに備えた。
イルカショー……前の席……
何となく、嫌な予感がした。
けれど、席が埋まっているのであればどうしようもない。
立ち見じゃ良く見えないし、そもそもイマドキ水しぶきでずぶ濡れになるショーなんて聞いた事がない。
これもいつもの杞憂だろうと、そう、自分に無理やり言い聞かせた。
しばらく待つと、明るい曲と共に飼育員さんが現れ、耳に掛けたマイクを使って挨拶をし、ショーに登場する動物達の紹介を始めた。
イルカの○○君、○○ちゃん、アザラシの○○君……
外国人のような名前の海の生き物達が、リズムに乗って現れる。
アザラシのなんたら君に至っては、紹介された後にお辞儀をしてくれた。
テレビなどで何度も見た光景だったが、実際に現物を見ると感心してしまう。
これはショー自体も楽しみだなと、期待に胸を膨らませる。
隣にいる里奈を見ると、ボーっと、何かに取り付かれたようにステージを見つめていた。
あ、ダメだ……完全に別世界に入っている……
こいつ、意外と動物とか好きなんだな。
話しかけたらキレそうだから話しかけんでおこ。
そう決意し、俺もステージに目を向け、ショーに集中した。
全集中の呼……いや、寒いからやめておこう。
また、里奈にオッサンみたいだと言われてしまう。
動物達のパフォーマンスは、どこかで見た事があるような、よく言えば普通、悪く言えばありきたり、そんな内容だった。
けれど、それでも生で見ると迫力があり、思わず嘆声を上げてしまう。
本日二度目の「ほー」である。
おっさんみたいなリアクションに、「俺、やっぱりおっさんみたいじゃん」と軽くショックを受けていると、いつの間にかショーも終盤を迎えていたようで、三匹のイルカによる大技が繰り出されようとしていた。
飼育員さんの合図と共に、三匹のイルカが弧を描き宙を舞う。
まるで半月のようなそれは数秒間空中に滞留し、しなやかな入射角で水面に消え落ちた。
心配していた程、水しぶきは跳ねない。
よかったと安堵しながら、大迫力のショーの余韻を噛み締めた。
そのまま再度動物達の紹介・お礼を終え、ショーは終わりを迎える。
観客は皆席を立ち、再び館内に戻り動物鑑賞をしようとしていた。
俺達もそうしようと、隣にいる里奈に声を掛ける。
「里奈、行こうぜ」
「…………」
「里奈?」
しかし、里奈から反応は返ってこず、ただただ動物達がいたステージを見つめているだけだった。
返事がない、ただの屍のようだ……
もしかしたら、余韻に浸っているのだろうか?
………………。
……え、そこまで!?
そこまで感動する!?
俺達の隣にいた小学生ですら、最後の方飽きてきて「〇滅の〇見たい~」ってグズってたぞ!?
里奈の純粋さと言うか、影響の受けやすさに舌を巻く。
水族館来た事ないんですかとか言ってたけど、本当はこいつが来た事ないんじゃないのか……
里奈が覚醒するのを待っていると、飼育員さんとイルカが奥の控え室から出てきた。
どうやら、次のショーの打ち合わせというか、リハーサルをするらしい。
よかったら見てってくださいーと声を掛けられ、軽く会釈を返す。
しばらく待つと、「はっ」という声が隣から聞こえてきた。
こいつ大丈夫かと、そう思いながら里奈に声を掛ける。
「おい、大丈夫か」
「あ、本田さん……すいません……」
「お、おぅ……お前、大丈夫か? そんなに凄かったのか?」
「えっと……はい……」
「そ、そうか……まぁ、具合が悪いとかじゃないんならよかったよ」
「はい、すいません。ありがとうございます」
「おぅ」
里奈にそう言い、再び視線をステージへと戻す。
落ち着いてから移動しようと、そう思ったのだ。
まぁ、余韻に浸りたいのであればそうすればいい。
それを邪魔する程、俺は野暮な人間ではない。
「昔」
すると、突然里奈が口を開いた。
ゆっくりと里奈の方に視線を向け、里奈の言葉に耳を傾ける。
「昔、家族で水族館に行って、今日みたいにイルカのショーを見た事があるんです。たしか、小学生の頃だったかな。その頃はまだ家族仲が良かったので、何か、色々思い出しちゃって」
里奈の口から紡がれるその言葉は、想像以上に重たいものだった。
動物が好きなだけで、あんなに心を砕かれたような態度になるはずがない。
そんな簡単な事も分からずに、俺は無神経に里奈に接してしまった。
それが、死ぬほど恥ずかしかった。
申しわけない気持ちが心の中に広がっていく。
「すいません、私から誘ったのにこんな事言っちゃって。ショーを見るまでは何ともなかったんですけど……」
「いや、別に謝る事じゃないけど……」
何か、何か気の利いた言葉を掛けてやれと、自分自身をそう問い詰めた。
どんな些細なことだっていい。
根本的な解決にはならない言葉だっていい。
ただ、この一瞬。
折角の休日を悲しい思いで終わらせる事だけは阻止してやりたいと、そう思いながら、大人としてしてあげれる事はないかと必死に考えた。
けれど、頭の中には何にも浮かばず、風に揺れる水面の音だけがその場に響く。
自分の不甲斐なさに嫌気が差していた。
里奈より何年も多く生きているのに、多くの事知っていて、教えてあげなくちゃいけない立場なのに、俺は里奈に未だに何もしてあげられていない。
無言の時間が続く。
そうして、さすがに何か声を掛けてあげないと焦った俺は、何て言っていいか分からないまま、ほぼ投げやりに声を掛けた。
「里奈――――」
「あっ!」
しかし、俺の声は里奈には届かない。
何故なら、目の前でショーのリハーサルをしていたはずの飼育員さんの声が被ってしまったからだ。
里奈と二人、叫び声にも似たその声の発生源の方向に目を向ける。
すると、視界の先には飼育員さんの姿はなく、そもそも景色がなく、モザイクがかった水素と酸素の集合体、端的に言えば“水しぶき”がこちらに迫っていた。
ザパーン! っと、俺達は大量の水を頭から被る。
状況が全く理解できずに、ただ前方を見つめていた。
すると、飼育員さんが慌てて近寄ってきて、「大丈夫ですか!?」と声を掛けてきた。
どうやら、リハーサル中に何らかのアクシデントがおき、イルカがいつもよりも勢いよく飛び込み、その水しぶきが客席に舞い散ったらしい。
良かった、事故とかではないみたいだ……いや、全然良くない。
最後の最後に、とんでもないアクシデントに見舞われてしまった。
まぁ、あのどうしようない雰囲気を打破する事は出来たけれども、それにしたって代償がデカすぎる。
隣にいる里奈を見た。
未だに何が起こったか理解できていないみたいで、ポカーンと前方を見つめているだけだった。
けれど、しばらく経った後に、
「こんな事、漫画やドラマ以外で本当にあるんだ……」
と、うわ言のようにそう漏らしていた。
た、確かに……
俺も、同じ気持ちだ。
× × × × ×
控え室に通され、渡されたタオルで体を拭き、ドライヤーで乾かせるところは乾かし、一応の応急処置を済ませた後、俺達は水族館を出た。
「クリーニング代をお支払いします」と、そうスタッフさんには言われたが断った。
ミスは誰にだってある。
しかも動物、自然に近いそれらによって引き起こされたアクシデントを咎める気にはどうしてもなれなかったからだ。
俺がそう言うと、里奈も同じ考えだったようで、「大丈夫ですよ、お気になさらず」と、納得したような優しい微笑みを浮かべながらスタッフさんにそう言った。
こいつ、大人だなと……と、少し誇らしくなってしまったくらいだ。
そうして、俺達二人は水族館の入場ゲートの前に立っていた。
これからどうするか、水を被ったせいで妙に冴えてきた頭で考える。
「へくち!」
隣から、可愛らしいくしゃみの音が聞こえてきた。
無理もないだろう。
春と言ってもまだまだ気温は低く、水なんて被った日には風邪を引いてしまっても可笑しくはないような寒さだ。
それに、ドライヤーで乾かしたとはいっても表面的な部分の話で、深部、いわゆる下着なんかはずぶ濡れのはず。
俺のボクサーパンツもさっきからピッチピチに肌に張り付いている。
分かっているからこそ、聞かなかった。
いや、聞けないだろう。
現役女子高生に「下着濡れてるだろう?」なんて聞いてしまえば、それこそ俺は後戻りできなくなってしまう。
それに、生臭い匂いも問題だった。
真水だったらまだしも海水を被ったのだ。
仮に完全に服が乾いたとしても、このまま里奈を電車に乗せて帰らすわけにはいかない。
それに、この状態で家に帰ったら、里奈の母親に絶対に怪しまれる。
そうして問い詰められてしまえば、俺達の関係性がバレてしまうのは必然だろう。
それだけは絶対に阻止しなければならなかった。
でも、全てを解決するには、それ相応のリスクを取らなくてはいけないわけで……
「里奈」
「は、はい」
頭を抱えて溜息をついた後に、俺は太く低い声で里奈に声を掛けた。
すると、里奈は困惑したような様子で返事をする。
多分、こういうトラブルに見舞われたのが初めてだったのだろう。
明らかに動揺しているのが分かった。
そんな里奈を不憫に思い、できるだけ優しい声音を意識して言葉を紡ぐ。
「このまま帰るのキツイだろ? 近くにショッピングモールがあるからそこで服買おう。ほんで、お前の家の近くまで車で送ってやるから」
「え……でも……」
俺がそう言うと、里奈はさらに困惑したような表情になった。
おそらく、遠慮したんだと思う。
俺が今朝、お前を車に乗せたら罪が重くなるだなんて言ったから余計に。
確かにそうだ。
これは苦渋の決断だった。
一人の大人として、里奈にはあまり深く関わってはいけないのだと思う。
その決意は今も揺らいでいない。
でも、状況が一変した。
こんな状態の里奈を一人家に帰らせるのは、仮にも成人した人間がする事ではないとそう判断したのだ。
それに、散々な目にあったまま帰らせるのもどうかと思った。
何かしら楽しい記憶で上書きしてやりたいと、そんな親心にも似た想いを里奈に対して抱いていた。
だから、今日だけ。
今日だけは、里奈を甘やかしてやろうと、そう決めたのだ。
「しょうがねぇだろ、濡れたまま電車に乗るわけにもいかないんだから。それとも、俺の車に乗るの嫌か?」
「いや、別にそういうわけじゃ……でも、本田さん、本当にいいんですか?」
「おぅ、いいぞ。気にすんな」
「あ、ありがとうございます……それじゃあ、お言葉に甘えて……」
そう、遠慮がちに頷く里奈を手招きして、自分の車が停めてある駐車スペースまで連れて行った。
なんだろう、この誘拐犯みたいな気持ちは……
迸る違和感から必死に目を背け、助手席に置かれていた荷物を後部座席に移動する。
里奈を隣に乗せ、俺は車を発進させた。
目的のショッピングモールは、ここから10分も掛からない場所にある。
里奈も、俺も、何故か緊張していた。
俺は里奈を車に乗せてしまった事で罪が増えてしまったから、里奈は……多分、男の車に乗るのが初めてだったのだろう。
そのせいか、お互いに無言のまま、車だけが意気揚々とエンジンの音を鳴らした。
車内には、ラジオの能天気なMCの声と、潮の香りが充満している。
× × × × ×
ショッピングモールに到着し、別行動を始めてから約一時間が過ぎた。
お互いに自分に必要な服を調達しようと、そう約束して別れ、そそくさと自分の服を選んできた俺は、集合場所に指定したベンチに座ってスマホを眺めていた。
ファストファッションの店でさっさと服を選んだ俺は、かれこれ40分近くこの場所で里奈を待っている事になる。
その間に、4回ぐらいは喫煙所に行っただろう。
長いな……と、正直そう思っていたけれど、仕方がない。
女なんて皆そんなもんだ。
それに、このアウトレットモールでは有名ブランドの衣類が特価で売られている。
学生にとって、これほど嬉しい事はないだろう。
嫌な思いを塗り替えられるくらい、好きな服を、好きなだけ買ったらいい。
だから、文句は言わずに、ネットサーフィンでもしながら里奈を待つことにした。
ちなみに、服を調達する軍資金は里奈に渡してある。
金を渡した時、あり得ないくらいに里奈に拒否されたが、どう考えても服を一式揃えるような金が里奈の、いや高校生の財布の中に入っているとは思えなかったので、無理やり、押し付けるように受け取らせた。
結局、後で返すという約束付きで何とか受け取ってもらえたが、まぁ何というか、頑固というか律儀なヤツである。
子供が大人に気を遣わなくてもいいのに……なんて、いつも里奈に対してそう思っているのだが、アイツは変なところで俺に気を遣うというか、対等であろうとしてくるのだ。
普段は我儘なくせに。
もしかしたら俺の事、子供か何かと思っているのだろうか。
頼りにならない、見ていて心配的な?
私がしっかりして、助けてあげないと的な?
もしそうだったら、少しショックである。
「本田さん~」
里奈の心理を深読みしていると、その本人が小走りでこちらに向かってきた。
ビクッと驚いたのを誤魔化すように、俺の名前を呼ぶ声がする方向に振り返る。
シンプルなスカートにシャツ、それに無地のカーディガンを羽織った里奈が、こちらに向かって走ってくる。
多分、アイツも安い店で服を揃えてきたのだろう。
なんだ、どうせなら自分の好きな服を買えばいいだろうに……と小さな溜息をつく。
けれど、何を言ったところで、「私はこれで充分です」とか言われそうなので、あえて何も言わなかった。
里奈は、そういうヤツなのだ。
「すいません、お待たせしちゃって……」
「おぅ、いや大丈夫だぞ、俺も今来たところだから」
時間が掛かってしまった事を詫びる里奈に、そう大人な対応を取った。
大人が子供を待つのは当然の事だろう。
澄ました顔で、何の問題もないと里奈を肯定する。
けれど、里奈は何故か浮かない顔をして、言いづらそうにその言葉を吐いた。
「あの……すいません……私が服を選んでた店からこの場所丸見えで……本田さん、一時間くらいここに座ってましたよね……」
「………………」
申し訳なさそうに、そう言う里奈。
どうやら、俺が見栄を張ってついた嘘が、里奈には最初から筒抜けだったらしい。
うわ、恥ずかしい。
「お前……そういうのは知ってても知らないフリをするもんなんだぞ?」
「そ、そうなんですか?」
「そうだろ。恥ずかしいだろうが、俺が」
「あ……でも、なんだか申し訳なくて……」
「はぁ……あのな里奈、俺にあんまり気を遣わなくてもいいんだぞ? ほら、他に見たい店とかないのか?」
「え、えっと……」
浮かない顔をする里奈に、そんな言葉を掛けた。
前々から思っていたが、里奈は負い目を感じている時、極端に人に対して謙虚というか、遠慮がちになる節がある。
多分、今もそうなのだろう。
自分から誘った水族館でアクシデントに遭遇し、俺に迷惑を掛けた。
だから、こうして必要以上の気を遣ってくれているのだろう。
どうしてそこまで人に嫌われる事を恐れるのかは分からない。
元々の性格がそうなのかもしれないし、生きてきた環境が、里奈をそうしてしまったのかもしれない。
きっと、里奈は“人に嫌われる事”を恐れているのだろう。
両親の離婚や、慣れない環境での新生活。
普段から気を遣う事が多すぎて、それが普通になってしまったのかもしれない。
失う恐ろしさを知っているから、失わないように努力するのかもしれない。
だからこそ、俺は伝えたかった。
俺はそんな小さな事でお前を嫌いになったりはしないと。
世の中、そんな人間ばかりではないという事を。
「えっと……帽子とか、ちょっと見てみたいなって……」
「帽子? 帽子なら確か……」
遠慮がちに、そう言う里奈。
かくいう俺は、もぞもぞしながらも里奈が自分の気持ちを打ち明けてくれた事が何だか嬉しくて、慌て気味に近くにあった案内図を見て帽子屋の場所を探した。
「お、やっぱあった。ほらここ、専門店あるぞ、行こうぜ」
「は、はい」
まごつきながら俺の顔を見つめる里奈の背を叩き、俺達は帽子屋へと足を進めた。
× × × × ×
「おぉ……」
「すごいな」
「はい、こんなに種類があるとは……」
棚に詰め込まれたありとあらゆる種類の帽子を見て、俺達は感嘆した。
そもそも、帽子屋というところに入ったのが人生で初めてだったので、驚いてしまったのだ。
普段、帽子なんてものを全く身に着けないので、縁がなかった。
帽子なんて被ったのは、小学生の頃に被らされた赤白帽以来だろう。
だからこそ、一つのカテゴリーだけで店内を埋め尽くしてしまう“帽子”という存在の奥深さに驚いてしまったのだ。
「ど、どうですか?」
「いいと思うぞ」
「な、何か投げやり……」
里奈がジト目でこちらを見つめている。
いや、確かに感動したけれど。
申し訳ないけど、そもそも俺、帽子にそんなに興味ないんだ。
それに、俺、帽子はあんまり……
「本田さん、ハットとか似合うんじゃないですか?」
「いや、似合わないと思う」
「いやいや、被ってみたら意外と……」
そう言って、里奈が黒のハットを持ってきた。
おそらく、反応の薄い俺を楽しませようとしてくれたのだろう。
わざわざ持ってきてくれた手前、被らないわけにはいかない。
気は進まなかったが、俺は里奈の気持ちを鑑みて、渋々そのハットを頭の上に被せた。
「…………」
「…………」
「おい、何か言え」
沈黙に継ぐ沈黙。
あまりの気まずさ、そして自分のハットの似合わさなに何だか腹が立ってきて、理不尽に里奈に感想を求めた。
「いや……えっと……あの……」
すると、里奈はしどろもどろになりながら、必死に肯定的な言葉を捻りだそうとした。
けれど、どう頑張ってもそんな言葉が思い浮かばなかったみたいで、褒めるのを諦めたかたと思うと、突然何かの糸が切れたみたいに笑いだした。
「ぷっ……ふふふ……あははは」
腹を抱えて笑う里奈を、俺は無言で見つめる。
全身を襲う僅かな羞恥心に、これは何のプレイだと自問自答を繰り返す。
「すいません……あの……こんなにハット似合わない人初めて見て……スナフキンみたい……」
「お前が被せたんだろうが……」
ひとしきり笑い終えた里奈が、目尻に溜まった涙を拭いながらそう言う。
あまりの言い草に面白くなくなって、大人げなく、少しだけ恥ずかしそうに抗議の意見を吐き出した。
すると、その態度がまた里奈のツボに入ったのか、里奈は「ごめんなさい」と言いながら、また笑いだした。
……え、いくら何でも笑い過ぎじゃね?
このガキ、今すぐ〆てやろうか……
と、思ったはずなのだけれど、里奈の笑う顔を見ていると、不思議と怒りがどうでもよくなった。
多分、先程までの落胆したような、変に気を遣うような態度と比べて、こっちの方がだいぶマシだと脳が勝手に判断したのだろう。
まぁ、腹は立つけれど、元気になったのならそれでいいか。
そんな気持ちが、全身を巡っていく。
すごく、穏やかな気持ちだった。
× × × × ×
「もういいのか?」
「はい、もう満足です。ありがとうございました」
帽子屋の内部を粗方見て回り、店を出た後、里奈に他に見ておきたい場所はあるかと問い掛ける。
すると、里奈はそう言って手を横に振って頭を下げた。
ゆっくりとした語りのスピードを見るに、遠慮して嘘をついているみたいではないようだ。
「そうか、じゃあそろそろ帰るか……」
「あ、でも…………あの、本田さん」
「ん?」
里奈の様子を注意深く確認した後で、大丈夫だと判断し、帰ろうと、そう促した。
しかし、俺の予想とは裏腹に、里奈には心残りがあったみたいで、不意に思い出したように俺に声を掛けてきた。
「本当に申し訳ないんですけど、もう一つだけ、我儘を言ってもいいですか?」
「……何?」
“我儘”という言葉を聞き、里奈が面と向かって自分の気持ちを吐き出したのを感心すると同時に身構えた。
自分から“我儘”だと認識する辺り、相当無茶なお願いをするつもりなのだろうか。
例えば100万貸してくれだとか、家に泊めてくれだとか。
里奈がそんな事を言うヤツではないというのは知っているけど、それでも気を遣うなと言ってしまった手前身構えてしまう。
や、ヤバいお願いだったらどうしよう……
けれど、そんな俺のバカみたいな心配とは裏腹に、里奈の口から出たお願いはとても可愛らしいものだった。
「海、見に行きませか?」
× × × × ×
「綺麗……」
車を数分走らせ着いた工業港の近くの防波堤に立ちながら、里奈がそんな言葉を吐いた。
それを耳にし、俺は里奈に問い掛ける。
「海、見た事なかったのか?」
「何回かは見た事あったんですけど、あんまり。私、内陸の方に住んでたので……」
「そうか」
返ってきた言葉に里奈の過去を感じさせる言葉を見つけ、また昔を思い出させて悲しませるわけにはいかないとそう思い、不自然な相槌を打って会話を切った。
持たない間を誤魔化すように、タバコに火を付けて、里奈から距離を取ろうとする。
しかし、それは叶わなかった。
何故なら、里奈が俺の着ていたシャツの袖を掴んで離さなかったからだ。
怪訝な表情で里奈を見つめる。
すると、里奈が口を開いた。
「だから、近くでタバコ吸っても良いって言ってるじゃないですか」
「いや、でもお前……」
「私、変に気を遣われる方が嫌です。それに、この状況で一人寂しく海辺に残されるのはもっと嫌です」
「……たっく」
そんな里奈の我儘に、俺は渋々頷いて、加えたタバコの火を消して携帯灰皿に詰め込んだ。
何となく、今里奈の側を離れるべきではないと、直感でそう判断したのだ。
あぁ……タバコもったいない……
「別に消す事ないのに……」
「いや、だからって吸うわけにもいかないだろ、それも未成年の前で」
「むー……ふふ、やっぱり本田さんは優しいですね」
「からかうな」
「からかってませんよ、本心です。……でも、健康面から考えるとやっぱりタバコは良くないかもですね。やめるのが一番ですけど、それは現実的じゃないので吸う本数を減らしてみたりできませんか? 本田さん、結構吸ってるみたいだから体が心配です」
「それなら大丈夫だ。昔から“酒とタバコは百薬の長”と言ってな、吸ったり飲んだりした方が却って健康にいい……」
「………………」
「……分かったよ。減らすよ、減らす。だからその顔やめろ」
「……せめて、私といる時ぐらいは吸わないでください。約束ですよ?」
ヘラヘラとした態度で言葉を返すと、里奈がかなり冷めた表情でこちらを見つめて来た。
無言の圧力に耐えきれなくなり、渋々里奈の言い分を飲んでしまう。
こいつ、時々お袋みたいな事言い出すな。
多分、結婚したら旦那を尻に敷くタイプだ。
可哀想に、こいつと結婚する男。
ご愁傷様と、無念の気持ちを込めて空に手を合わせる。
「今日、すごく楽しかったです。水族館も、ショッピングモールも、海も、すごく新鮮でした」
「そうか、それは良かった」
そのまま、俺達は腰を下ろして海を眺めながら、グダグダと会話を続けた。
夕暮れ時の海辺には一抹の寂しさが漂うが、不思議と、悲しい気持ちにはならなかった。
多分、里奈が隣にいたからだと思う。
「はい……えっと、何て言ったらいいか分からないんですけど、水族館、今まで昔を思い出すから苦手な印象が強かったんです。けど、今日、本田さんと来たおかげで、何だかイメージを塗り替えられたような気がします」
「塗り替えられた?」
「はい。多分、これから先水族館の事を話す時は、家族の事じゃなくて、全身に水を被って、本田さんと一緒に服を買いに行った事を思い出して笑うんだと思います」
「……それはいい事なのか?」
「良くはないかもしれないですけど……昔を思い出すよりはマシかなと」
「……まぁ、お前がそれでいいならいいけど」
「はい。だから、今日連れてきてもらって本当に良かったです」
そう言って笑う里奈の顔を見て、俺は穏やかな気持ちになる。
里奈の悲しみを少しでも癒す事ができたのなら、それは俺にとってこの上ないほど嬉しい事で。
大人として最低限の義務は果たせたなと、息を吐いて安堵した。
「まぁ、何だ。昔はな、松島の方にも水族館があったんだ」
「松島ですか?」
気分が良くなった俺は、唐突に自分語りを始めた。
おっさんの昔話など、若者にとっては退屈で最も忌み嫌われるものだという事は理解している。
けれど、言葉を紡ぐ口の動きを止められなかった。
俺にだって、過去を語りたくなる時だってある。
だから、俺は話す事をやめなかった。
今日一日里奈の我儘に付き合ってやったんだ。
俺の我儘に付き合ってもらってもバチは当たらないだろう。
「おぅ、今は閉館になったけど」
「それは悲しいですね」
「それで、昔そこに行った時に、色々やらかしちゃってな。それから俺も水族館に対してあんまりいいイメージを持てなくなったんだよ。でも、今日、里奈と来てそんな事はなくなった。だから、お互い様だ。」
「そ、そうだったんですか……えっと、えへへ」
何故かは分からないけれど、里奈が嬉しそうに笑った。
それが何だか嬉しくなって、俺は調子に乗り、里奈をもっと笑わせようと話を続けた。
「まぁ、何をやらかしたかって言うと、高校の頃にできた彼女と初めてのデートでそこに行って、俺だけはしゃぎ過ぎてフラれちゃったんだよな。それ以来、水族館の存在を恨んでたんだ。ほとんど逆恨みだけど、ははは」
「……元……カノ……」
「笑っちゃうだろ? でも、今日……」
「本田さん、その話もういいです。聞きたくありません」
「え、えぇ……」
俺が期待していたリアクションとは裏腹に、里奈は急に不機嫌になり、仏頂面で俺の話を遮った。
え、えぇ……。
さっきまで上機嫌で聞いてたじゃん……急にどうしたんだよ……
もしかしたら、情緒が不安定なのでは?
いや、それとも、調子に乗ったおじさんの話にイラっときてしまったのか。
う、うーん……後者っぽいなぁ……
世のおじさん達は、若者に話を聞いてもらえるのが嬉しくて、ついつい話過ぎてうざがられてしまうという悪癖を持っている。
多分、知らず知らずのうちに俺も里奈に対してその悪癖を発動してしまっていたのだろう。
だとしたら、里奈がキレるのも当然である。
悪い事をした。
おじさん、反省。
「……ふふ、そんなに落ち込まないでくださいよ。怒られた子供じゃあるまいし」
少しだけ落ち込んで海を眺めていると、里奈が優しい声音で話掛けてきた。
その声がすごく大人っぽくて、俺は思わず本音を吐き出してしまう。
「……いや、本当にたまになんだけど、俺、お前より子供なんじゃないかって思う時あるわ。本当にたまに」
「そ、そんな事ないですよ。本田さんはしっかりしてると思います……多分」
「曖昧だなおい。多分って何だ多分って」
「あはは」
俺が突っ込むと、里奈が笑った。
里奈の笑い声と、波の音が重なり合う。
穏やかで、心地の良い時間が流れていく。
「海っていいですね。なんか、広くて、深くて、果てしなくて。自分がちっぱけに思えて気が楽になります」
不意に、里奈がそんな事言った。
里奈の言葉に、俺も共感する。
「まぁ、確かにそうだな」
「死ぬときは、こんなところで死にたいです」
「……ガキが滅多な事言うな」
「あはは、すいません、忘れてください」
続く里奈の言葉には、流石の俺も我慢できずに注意した。
すると、里奈はまた笑いながら謝った。
それで、それ以上里奈のその言葉を追及する事はなかった。
「……ほら、近くまで送ってやるから帰るぞ。遅くなると親御さん心配するだろ」
「いや、大丈夫ですよ。心配なんて……」
言葉を続けようとして、里奈がハッとした顔になる。
すると、里奈は次の瞬間にはすぐに笑顔を作って、続く言葉を無理やり捻じ曲げた。
「いや、そうですね。ありがとうございます。お願いします」
それからはこれと言った問題もなく、助手席に乗せた里奈とくだらない話をしながら、里奈を家の近くまで送り届けた。
里奈と別れ、しばらく車を走らせ、自宅の駐車場に到着する。
そうして、車のシートにもたれかかりながら溜息をついた。
俺は見逃さなかった。
里奈が言葉を捻じ曲げた一瞬に見せた、寂しそうな表情を。
そうして考えていた。
何が里奈にそんな表情をさせるのかを。
まずいなと、そう思っていた。
本来、俺は里奈と関わるべきではない人間なのに、今は、里奈を悩ませる、里奈の笑顔を雲らせる原因を取り除いてあげたいと思ってしまっている。
これは相当にまずい状態だろう。
立場もある、でも、情もある。
どうしてその瞬間を見てしまったのかと、自分を責め立てた。
あんな表情を目にしなかったら、こんなに悩む必要もなかったのに。
そうして煮詰まった挙句、俺はポケットから煙草を取り出し、火を付けようとした。
けれど、すんでのところでやめた。
ある約束を思い出してしまったからだ。
あんな口約束、守る義務なんて俺にはないのに。
それに、今この場所には俺しかいないんだから、吸ったところで誰にバレるわけでもないのに。
それなのに、分かっているのに、何故かタバコに火を付けれなかった。
「タバコの量、減らせませんか? 体が心配です」
そんな女子校生の言葉が、頭の中を駆け巡っていく。
意図せずして、アイツの声音を、気遣った言葉を覚えてしまっていた。
マズイ……今の状態は相当にマズイ。
深夜の駐車場の車内で一人、自分の手遅れな状態を知り、俺はうめき声をあげてのたうち回った。
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