第6話

『本田さん、明日は何か予定ありますか?』


『ないけど……何か用か……』


『そんなに怯えないでくださいよ……ちょっと買い物に付き合ってほしいだけです』


『お前な、前にも言ったけど、会ったりするのあんまり良くないんだぞ? もし補導でもされたら俺もお前も一瞬で終わっちまう』


『確かにそうですけど、どうしても行きたいんです。流行りの物とかに詳しくなれば会話の話題にもなると思いますし……それに、私は終わったりしません。終わるのは本田さんだけです』


『おい』


『冗談です。とにかくお願いします! 何かあったら親戚のお兄ちゃんってことにして乗り切りますから!』


『いや、そうは言ってもなぁ……まぁ何だ……行けたら行く?』


『それ絶対来ないやつじゃないですか……とりあえず、ステンドグラス? の前に13時集合でお願いします。1秒でも遅れたら、その瞬間に通報しますからね』


『……あーもうわかったよ! 行けばいいんだろ、行けば!』




     ×     ×     ×     ×     ×




 週末、良く晴れた春の昼下がり、地下鉄の中。


 仕事という病の後遺症と眠気に苦しまされながら、俺は電車に揺られて仙台駅を目指していた。


 昨晩、仕事を終え、僅かながらの幸福感と開放感を抱きながら、華の金曜日を精一杯楽しもうとビールの缶を開けた瞬間。


 携帯が鳴り、突如、休日終了の旨が宣告された。


 それはさながら神の啓示、いや、悪魔の囁きのようで、良いのか悪いのか分からない絶妙なタイミングで送られてきたそのメッセージに、俺は恐怖を覚えたくらいだ。


 メッセージの送り主の名は「佐藤里奈」。


 先日、俺がマッチングアプリ……(以下略)。


 彼女からのメッセージの概要を簡単に説明すると、「買い物に行くから付き合ってほしい!」みたいな、そんなシンプルで可愛げのあるお誘いだった。


 けれど、全然可愛くない。


 俺にとっては、全然可愛くなかったのだ。


 何故か。


 それは、彼女が今をときめくピチピチキラキラJKだからである。


 いや、この際JKかJKじゃないかなんてどうだっていい。


 【未成年】、その部分が成人男性の俺からすると相当にまずかった。


 “成人男性がネット上で女子校生を誑かし、二人で外出を繰り返す”


 この一文だけ読めば、とある未成年誘拐事件の見出しである。


 今までバカだなと軽蔑し、他人事のように思っていたそれらの事件に類似した事象が俺の身に降りかかろうとしている。


 事態は正念場を迎えていた。


 メッセージのやり取りだけなら、まだ言い訳ができると言うか、逃げられる余地があった。


 けれど、こうして一緒に出掛けるというのなら話は変わってくる。


 誰かにバレれば一発アウトの綱渡り。


 けれど、断ってしまえば元凶から通報されてゲームオーバー。


 押しても引いても逃げても立ち向かってもダメ。


 理不尽&理不尽。


 前門の虎後門の狼。


 今の俺の状態を表すのなら、そんな言葉が似つかわしいとそう思った。


 


 はぁぁと長い溜息をつきながら、ドアの横に体を預けて電車に揺られる。


 世間ではそれらの行為をする者をドア横キープマンと言い、乗客、特にサラリーマン達から煙たがられている。


 マナー違反だとは分かっていたけれど、今日は休日で、地下鉄の中もガラガラなので大目に見てもらいたかった。


 “パンが無ければケーキを食べればいいじゃない”という諺?があるように、疲れているなら座ればいいじゃないと多くの人がそう思うのだろう。

 

 けれど、それはできなかった。


 座ってしまったら、二度と立ち上がれる気がしなかった。


 それくらいに、精神的にも体力的にも疲弊してしまっていた。


 やはり、仕事は体に毒である。




 流れる景色を眺めていると、あっという間に仙台駅に到着し、俺は地下鉄を下りて改札を通り、エスカレーターを登ってステンドグラスの前を目指した。


 ステンドグラスとは、仙台駅の中央改札の目の前にある建築物の事である。


 宮城県民は仙台駅で待ち合わせをする時、ほぼ100%この場所で待ち合わせをする。


 いや、人混みを避ける時は違う場所に集まったりもするけれど、そう言っても過言ではないくらいに定番な仙台の待ち合わせスポットなのだ。


 確かに、電車移動の多い仙台民にとって、中央改札を出てすぐのところにあるこの分かりやすく目立つ場所は、人を留め、人を巡り合わせるのにはうってつけの場所なのだろう。


 しかし、そんな絶好の待ち合わせスポットにも欠点はあるわけで。


 いや、むしろ絶好過ぎるからこその弊害が起こるわけで


 それは、人が多すぎると言う事だ。


 特に休日。


 みんながみんな待ち合わせをし過ぎて、自分が待ち合わせしている人物がどこにいるのかわからなくなってしまうという本末転倒な現象が起こってしまうのである。


 まさに木を隠すのなら森、人を隠すのなら人混みを体現したような状態。


 さすがは杜の都の民。


 大らかさなら世界一である。




 例に漏れず、俺もステグラ前に辿り着いたのに彼女を見つけられずにいた。


 こうなってしまえば巡り会う事は容易ではなく、電話で位置を特定する以外に探し出す方法はなくなってしまう。


 しかし、俺は彼女の携帯番号を知らない。


 一応アプリの電話機能があるが、お察しの性能の低さ。


 この人混みの中で使う気にはなれなかった。


 あぁ……面倒臭い……。


 そう、本日二度目の溜息をついたその時だった。


 微かにバニラのような甘たっるい匂いが香った後、ドンと、小さな何かが背中越しにぶつかった。




「すいません……」


「あ、本田さん」




 振り返って謝ろうとすると、そこにいたのは俺が探していた人物。


 そう、佐藤里奈だ。




「……すまん、探すのに手間取った。待ったか?」


「いえ、大丈夫ですよ。それより、来てくれてよかったです」


「……どうゆうこと?」


「来ないんじゃないかと思って、丁度連絡しようと思ってたんです」


「俺にか?」


「いえ、警察にです」


「えぇ……」




 会って早々放たれるブラックジョークに、俺は冷汗を垂らす。


 こいつ、ガキの癖にいいセンスしてやがる。


 成人してたら、思わず引っ叩いていたところだろう。


 こいつが未成年で本当に良かった。


 いや、全然良くない。




「ふふ、冗談ですよ?」


「笑えねえ……」


「あはは……とりあえず移動しましょうか、ここ、人多いので」




 里奈はそう言うと、俺のシャツの裾を引っ張って、西口の方へとぐいぐいと引っ張っていった。


 あぁ……やめてくれ……そんなにべたべたしないでくれ……


 触られるのが嫌とかではなく、女に慣れていないとかでもなく、ただ純粋に回りの目が気になったからそう思った。


 余談だが、仙台では以外とパ〇活なるものが多い。


 駅前を歩いていると、祖父と孫くらいの年齢差の男女が手や腕を組んで歩いている姿を見かけることがある。

 

 本当の家族なのではないかと疑ってみた事があるけれど、顔が全然似ていないし、そもそも肉親同士があんなにベタベタするはずもないので、何かしらの契約関係にある仲であるのは間違いないのだろう。


 うわぁ……空想上の話じゃないんだなぁ……と、少し感動してしまったくらいだ。

 


 

 そんな風に周りに見られていないか、心配になっていた。


 いい歳した成人男性と女子校生。


 パ〇活より性質の悪いその風貌が、周りに引かれていないか不安になったのだ。


 パ〇活の方が何倍もマシ。


 パ〇活は合法だけれども、俺のしている行為は完全に犯罪行為。


 バレてしまえば、牢獄行きは絶対に免れない。


 翌々考えると、本当にヤバいんだな俺がやってる事って……




「本田さん」


「ん?」



 

 自分の置かれた状況に冷汗をかいていると、急に里奈が立ち止まり、くるりと振り返って俺に声を掛けてきた。




「来てくれて、嬉しいです」


「……なんだよ、急に」


「いや、なんて言うか……絶対に来てくれないと思ってたので……チャットも、返してもらえると思わなかったし……」


「言う事聞かなきゃ通報するって脅してきたのはそっちだろ……」


「いや、確かにそうですけど……」


「……それより、今日はどこ回るんだよ?」


「そ、そうですね……え、えっと、今日は……」




 突然頭を下げてきた里奈に対して、俺は内心驚いていた。


 ……え? 冗談だったの? む、無視しても良かったの?


 じゃ、じゃあ、俺がしてきた事って一体……


 い、いや、深く考えるのはよそう。


 それに、今日ここに来てしまった以上、女子高生と二人で出かけたという既成事実ができてしまった以上、俺にはもう後戻りなんて出来やしないのだ。


 後悔してしまったら、後悔に殺されてしまいそう。

 

 だから、もう後悔はしない。


 あれ……なんかよく分かんなくなってきた……動揺してんなこれ……




「えっと……まずは……」




 スマホを見ながら唸る里奈。


 おそらく、行きたいところをピックアップしてきたのだろう。


 それなら話は早い。


 俺は黙って彼女の後ろについていくだけだ。


 端的に言うと、楽。


 何もせず、干渉せず。


 ただ黙って彼女を見守っていればそれで……


 ……いや、俺が案内しないんなら、今日俺が付いてくる必要なくない?




     ×     ×     ×     ×   




 それから、俺達二人は駅前の様々な施設を見て回った。


 パルコ、イービン、ロフト、フォーラス、エスパル、クリスロード等々。


 商業施設や商店街の中にある、若者向けの店を片っ端から回っていった。


 これらを全て自分で調べたのだと言うのだから、若者、ひいては女子校生の情報収集能力には恐れ入る。


 普通に俺より仙台に詳しいんじゃないかと舌を巻いた。


 ほんと、俺がいる意味ないな……




「本田さん、そろそろ休憩しましょっか」


「そうだな……結構歩いたし、そうするか」




 時刻は三時半。


 おやつを食べるにはちょうどいい時間だ。


 おやつも何も、朝飯も昼飯も食っていなかったから、俺にとってはもはや食事という扱いになるのだけれど。


 それでも、ラーメンか定食屋にでも行くか! なんて色気のないセリフを吐いたら華の女子校生に煙たがられそうだったので、グッと我慢して黙っておく。




「行ってみたいお店があるんですけど、そこでもいいですか?」


「おぅ、構わんぞ」


「ありがとうございます!」




 そう言うと、里奈はとてとてと軽い足取りで道を先導していった。


 何だ、その店よっぽど行きたかったんだなと、少しだけ微笑ましくなってしまう。


 本当は上手いラーメン屋でも教えてやりたかったが、野暮な事はすまい。


 そのまま里奈の後ろについていくと、目的の場所に到着した。


 駅前のビルの中にある、ファンシーな門構えのビュッフェのお店。


 里奈がうわーっ! と歓声を上げ、パシャパシャと数枚の写真を撮る。


 里奈に話を聞くと、童話「不思議の国のアリス」をモチーフにしたお店のようで、お店の中に女子校生、女子大生がわんさかと詰め込まれていた。


 二人で席に着き、里奈が食べ物を取りに行く。


 俺はというと、隣に女子、後ろに女子、周囲を取り巻く全てが女子で身動きが取れなくなっている。


 パスタや軽食などを皿に取って戻ってくる里奈。


 いただきますとニコニコと手を合わせフォークをも持つその姿に、俺はとうとう我慢できずに声を挙げた。




「……っておい! なんだこれ!?」


「え?……何って……ただのパスタですけど……」


「料理じゃなくて! 何だこの店!? 男の客俺しかいないぞ!?」


「そうですね……え、でも、本田さんどこでもいいって言ったじゃないですか」


「いや、確かに言ったけど……こういうのは女友達とかと……あっ……」




 言ってから、しまったと思う。


 そうだ、こいつ友達いなかったんだ……




「もう、他のお客さんの迷惑になるので静かにしてください! 大丈夫ですよ、周りの人からなんて娘と父親くらいにしか思われてないんですから!」




 少しだけプンプンとしながら、そのままパスタを頬張る里奈。


 俺は何も言い返せず、黙って里奈が持ってきてくれたサンドウィッチを口に詰め込んだ。




     ×     ×     ×     ×   




 食事を終え、里奈がお手洗いに行っている間に会計を済ませておく。


 店の外で彼女を待っていると、里奈は納得のいかないような表情をして店から出てきて、こちらに駆け寄ってきた。



「本田さん、お会計って……」


「あぁ、払っておいたぞ?」


「え……そんな、悪いです」


「いや、いいよ別に」


「で、でも……」


「ガキが大人に気遣ってんじゃねぇ」




 おどおどと、そう聞いてくる里奈に俺はそう言った。


 それに、代金を支払ったのは償いの意味もあった。


 いくら焦っていたとはいえ、子供が気にしている事をなんの考えもなしに口にしてしまった事は反省しているのだ。


 悪かった、これで許してくれ。




「は、はい……え、えっと、ありがとうございました……す、すごいいいお店でしたね! 雰囲気もいいし、料理も美味しかったです」


「そうだな……まぁ、俺は周りを気にしすぎて、全然味が分からなかったけど……」


「そんなに気にしてたんですか……」


「あと、お前に父親だって言われたのもショックだったわ。俺、一応まだ24だぞ? おっさん扱いは傷つくわ」


「えぇ……なんですかそのメンタルの弱さ……子供ですか……」




 少し引きながら、里奈が言う。


 子供……まぁ、確かに、俺は子供かもしれない。


 具体的にどこが子供なのかというと、悪い事をしたという自覚があるのにも関わらず、面と向かって謝らずに、物やお金で許してもらおうという考えを持っているようなところが超ガキ臭い。


 

「うーん……流行りのお店とかは粗方回りましたけど、仙台ならではの名所とかも調べておきたいですね……本田さん、おすすめの場所とかないんですか?」


「おすすめ? おすすめなぁ……里奈は逆にどんな場所がいいんだよ?」


「うーん……景色が綺麗な場所とか?」


「景色か……それなら」




 里奈の要望に、俺は少しだけ考えた後、手を叩いた。


 景色……それなら、とっておきの場所がある。




     ×     ×     ×     ×   




「うわぁー! 綺麗―!」


「だろ」




 駅から少しだけ離れた、クリスロードの入口付近にあるビルの上階。


 その場所で、俺達二人は夕方の仙台の街並みを見下ろしていた。


 夕日がビル群を照らし、反射した光が瞳をオレンジ色に彩る。


 綺麗な景色を見たいという里奈の要望を聞いた時、真っ先にこの場所が脳裏に浮かび上がった。


 この場所は綺麗な情景を堪能できるだけではなく、仙台の街全体を一望できるのだ。


 仙台の事を深く知りたいという里奈にとって、これほどピッタリな場所はないと自分でも驚くくらいに納得してしまった。


 けれどこの場所、一つだけ難点がある。


 それは、夕暮れ時から夜景が見える時間に訪れると、周りがカップルだらけになってしまうという点だ。


 永らく訪れていなかったせいか、そんな重大な欠点をうっかり忘れてしまっていた。


 こんな甘ったるい空気が蔓延している場所に、女子校生と二人で訪れてしまっても良かったのだろうか。


 もしかしたら、俺はまた選択を間違えてしまったのかもしれない。




「本田さん、やっぱり仙台に詳しいんですね。何だか大人って感じがします」


「いや、何年も住んでたらそりゃ詳しくなるだろ」


「そうですか? 私、前に自分が住んでいた場所の事とか全然詳しくなかったですよ?」


「あぁ、そういえば最近引っ越してきたんだっけか」


「何度も言ったじゃないですか……」


「忘れてた」


「もう」




 景色を眺めながら、軽快な会話が続く。


 ちなみに、彼女の事を突然「里奈」と呼び捨てにしたり、砕けた言葉遣いで話しているのは、何も彼女を見くびったり、バカにしているからではない。


 メッセージを繰り返していく中で、彼女の方からそう申しだしてきたのだ。


 気を遣われるとやりにくいから、自然体で接してくれと。


 だから、こうして東に接する時のように、やや横暴に、それでいて部活の後輩にデカい顔をする時のような態度を取っている。


 「うわ、こいつあれだけ女子高生が怖い怖い言ってたくせに、満更でもないんじゃん」とか思われてしまいそうだったから、一応言っておいた。


 しかし、俺が気を遣わなくなった分、里奈も俺に気を遣わなくなってしまった。


 まぁ、長く付き合っていくのならそれでいいのだが、少し生意気過ぎる。


 これが里奈の素顔なのか、何か、東みたいだな……と溜息をつく。


 俺の周りの若者、碌なヤツいないじゃん。


 いや、もしかしたら今時の若者は全員こんな感じなのだろうか。


 それが事実なら、日本の未来は終わったも同然である。


 あと、里奈と長く付き合ったらダメじゃん。


 何考えてんだ、俺。




「そういえば、何で引っ越してきたんだっけか? 親の転勤とか?」


「えっと……」




 惰性で続く会話を維持する為に、何の考えもなしに俺がそう聞くと、里奈は少しだけ表情を曇らせた。


 ちょっとした感情の乱れに気がつき、どうしたんだと怪訝な顔つきをして里奈を見つめる。


 すると、里奈は少しだけ悩んだ表情を浮かべた後に、ゆっくりと息を吐き出して、言った。




「離婚です」




 彼女から放たれたその一言に、俺は言葉を失ってしまう。


 先程までの穏やかで弛緩した空気は一瞬で消え去り、俺と里奈の間に張り詰めた糸のような緊張感が生まれた。


 想像していたよりもずっと重く、悲しい理由。


 子供にとっては、親が全てなのだ。


 思春期真っただ中の、両親の支えが必要な中高生なら尚更。


 それなのに、今、目の前にいる彼女は、その大切な片割れを失ってしまった。


 それがどれ程辛くて痛い事なのかは、考えなくても分かる。


 だからこそ、俺は里奈に何て声を掛けて良いのか分からなくなった。


 痛みも苦しみも悲しみも分かる。


 けれど、俺には両親が離婚するという経験がないから、本当の意味での里奈の気持ちは理解してあげられない。


 分かったような気をして紡がれる言葉程薄っぺらく腹立たしいものはこの世に存在しない。

 

 だから、俺は里奈に何て語りかけて良いのか分からずに、その場で黙りこくってしまった。


 大人として最低の対応だと、そう思う。




「家の両親、最近離婚しちゃって……親権のある母の地元に戻ってきたんです。それで……」


「すまん」




 そこでようやく、俺は自分が言うべき言葉を見つけた。


 彼女を慰めるわけでもなく、救いの手を差し伸べるわけでもない、みっともない自己保身の言葉。


 そんな言葉しか語り掛けてあげられない自分の幼さに嫌気が差した。


 けれど、今の俺にはこれしかできなかった。


 彼女がこれ以上辛い記憶を辿らなくて済むように。


 そんな誤魔化しみたいな考えしか、頭の中に浮かんでこなかった。




「デリカシーがなかった、許してくれ。もうこれ以上は言わなくて大丈夫だから」


「い、いえ……そんな……謝らないでください……本田さんが悪いわけじゃないですし……」




 そんな俺に、気にしないでくれと、彼女はそう言葉を掛けてくれた。


 俺が頭を上げると、彼女は無理やり作ったような笑顔を浮かべて、続けて言う。




「なので、早くこっちの生活に慣れるためにも、沢山協力してくださいね、本田さん」


「……おぅ」




 そんな彼女に対して、俺は何も言えずにただ頷くだけ。


 俺が彼女に気を遣われる形になってしまった。

 

 情けない。


 本当に情けない。


 子供だと思っていたヤツに気を遣われる。


 これじゃあ、どっちが子供か分かったもんじゃない。




 多分、俺が思っていたよりも何十倍も、里奈は“大人”だったのだろう。


 理不尽を受け止め、周りを気遣う。


 大人の俺でもできないような事を、平然とやってのけている。


 それは本当に凄い事で、尊敬に値する事だと思う。


 けれど、そう思うと同時に、本当にそれでいいのかと疑問を抱いた。


 子供の彼女が、周りの大人のために“大人”になる事を容認してもいいのかと、そう思ったのだ。


 答えなんて分からない。


 けれど、それが正解かと問われれば、決して頷く事は出来なかった。




 この日、里奈に対する認識が俺の中で明確に変わった。


 「佐藤里奈は子供なんかじゃない」と、そう思わされたのだ。


 その見立ては、この時点では間違いではなかったと思う。

 

 誰が見たって、里奈はできた人間だと、そう思うのだろう。


 けれど、それが、後からあんな事件を起こすだなんて……

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