第19話 天国から地獄
「ふわぁ……眠い……あまり眠れなかったな」
昨晩、夏菜が帰り際にとった行動……頬にキスされたことを思い出し寝付けることができなかった。お陰で今から仕事だというのに寝不足だ。
夏菜のあの行動は一体なんだったんだろうか……俺を揶揄うにしてもあれはやり過ぎだ。夏菜はやっぱり俺のことを……いや……今、そのことを考えるのは止めよう。
布団の温もりが名残惜しいけどベッドから這い出て眠い目をこすりながら仕事へ行く準備を始める。
◇
「あ、今日は早番か……夏菜に会えないからメッセージしておくか」
通勤途中の電車の中、夏菜に会えない旨のメッセージを打とうと思いスマホを取り出し文字を打ち始めるが、その手が止まる。
「なんてメッセージを送ればいいんだ?」
昨晩のことを思い出し、気まずさからかどうしていいのか分からない。
恋愛経験が少ない故に女性の気持ちを理解することできない。唯一付き合っていた前の彼女の時もそれで失敗した。
「うだうだ考えても仕方がないか。昨日のことは触れずに今日は早番で会えないことだけ送っとこう」
『今日は早番だからいつもの時間にはいないから』
俺は手短に用件だけのメッセージを夏菜に送った。
なんとも素っ気ない文章だ。自分のコミュニケーション能力の低さに呆れてしまう。
ピロン♪
スマホに新着メッセージが届いた旨の通知音が鳴り慌てて確認する。
『うん、分かった』
メッセージを送ってから一分もしないうちに夏菜から返信が届いた。その文面は短くて素っ気ないものだった。
昨日の二人で過ごした甘い時間のことを考えると、この短いメッセージでは物足りないと感じてしまう。夏菜も俺のメッセージを見て同じ気持ちだったのだろうか?
「なんか夏菜のことばかり考えてるな……」
どうにもセンチメンタルになっているみたいだ。それだけ昨日の夏菜とのデートは俺にとってかけがえのない時間になったようだ。
◇
「鬼島くんお疲れさま」
遅いお昼休憩をしているところに休憩室のドアから入ってきた存在感のある人物に声をかけられた。
「お疲れさまです。所長も今から休憩ですか?」
上司で大学の先輩でもある高山所長だ。
「そうなの。さっきまで本社に行ってたから今からお昼休みなの」
「そういえば所長は朝から本社でしたね。あの指定管理者選定の件ですね」
このスポーツ施設は公共事業であるため施設を管理する業者を四年に一度更新する。その時に名乗りを上げた業者がプレゼンテーションを行い、その施設を所有している地方自治体が業者を選定することになる。
当然うちの会社もこのまま継続して施設管理を希望しているため名乗り出ることになる。その為の準備で本社の営業の人は忙しくしている。
「そうなの。大手の会社も名乗りをあげていて、うちの会社と比べてノウハウがあるから油断できないのに、本社きたら今回も選ばれるだろうって甘く考えてる感じなのよね」
この施設はうちの会社が四回連続で指定管理者に選ばれている。だから次も大丈夫だろうと高をくくっているのかもしれない。
「それは心配ですね。万が一選ばれなければ二百名近くいるスタッフが路頭に迷うことにもなりかねないですからね」
この施設はかなり大型の施設で体育館も複数あり、グラウンドや武道場、弓道場や射撃場まである。そのスタッフの数はアルバイトも含めてかなりの人数になる。
「そうなのよ。だから絶対に落とせないけど本社の方はそれが分かっているのか分かっていないのか……」
選定のための準備に所長は協力する立場ではあるが、実際に選定のための準備を進めているのは本社の営業の人たちだ。現場との感覚のズレに所長は頭を悩ませているようだ。
「鬼島くん今日は早番よね。仕事が終わったら飲みに行きましょう」
「え? 今日ですか?」
「なにか用事があるの?」
高山所長は飲むと絡むタイプなので面倒くさいから避けたいのだが、一生懸命スタッフのために動いてくれているし、たまには労ってあげてもいいだろう。
「そういう訳ではないですけど……分かりました。明日は遅番なので付き合います」
「ホント⁉ じゃあさっさと今日の仕事を終わらせて飲みに行くわよ!」
「いや、定時までは帰れないですからね」
飲みが決まった途端にテンションが高くなるあたりが所長の酒好きを物語っている。
――所長が飲み過ぎないように俺が気を付けないとな。
◇
「でさぁ、あの営業はほんとに分かってるのかしらぁ」
仕事を終えて職場近くの居酒屋に所長と二人で来てからまだ三十分ほどしか経過していない。しかし所長はすでに出来上がっていて言葉も怪しくなってきていた。
「はいはい、そうですね。所長も大変ですね」
「分かってくれるぅ⁉ 本社にはさぁアタシの味方はいないのよぅ。アイツってば本社に移動したいっていうからさぁアタシが推薦してあげて営業部に移動できたのにぃぜんっぜん意見を聞いてくれないのよぅ」
アイツって高山所長の部下だったあの人か。今は今回の選定のプレゼンテーションを担当する予定だったな……あまり上手くいってないようだな。
営業部も現場の意見を取り入れて資料を作成して選定に挑まないと、本当に取りこぼしてしまう可能性もあるから上手くやってほしいものだ。
「自分も話す機会がある時に進言してみますから」
この件は営業部が主導で進めているのであまり自分には権限がない。
「ホントぉ? さすが頼りになるわぁ。はい、もっと飲んで飲んで」
所長は明日休みなので後先考えずに飲みまくっているが俺は明日仕事なんですよ。
「所長、明日休みだからって飲み過ぎないようにじてくださいよ」
「へーき、へーき、アタシはこれくらいじゃ酔ったりはしないわよぉ」
いや、もう全力で酔っ払いなんですが?
このまま朝まで飲み続けるとかないよね? 俺は酔ってもいないのに頭が痛くなる思いだった。
◇
「所長、大丈夫ですか? あれほど飲み過ぎには気を付けてって言ったのに」
結局あれから愚痴を聞かされ二十二時近くまで居酒屋で飲み続けた。足取りが覚束ない所長に肩を貸し、駅へ向かっている。
「らいじょうぶ、ひとりで帰れるからぁ」
もたれ掛かってくる酔っぱらって無防備な所長の大きな胸が俺の身体に当たる。
――ほ、本当に大きいな……夏菜も大きいがそれ以上だ。
などと
「い、いや、どう考えても一人じゃ無理ですよ。肩貸さないと歩けないじゃないですか」
だいぶ鬱憤が溜まっていたようでいつも以上に所長は酔っぱらっていた。
「と、とりあえずそこのベンチで酔いを醒ましましょう」
このままでは電車に乗るどころかタクシーにも乗せられない。俺は駅に向かう橋の上のベンチに所長を座らせる。
「所長、水飲んでください」
俺は事前に買っておいたペットボトルの水は所長に渡そうとしたが何の反応もない。
「ね、寝てる……」
あろうことか所長はすぅすぅと寝息を立てているではないか。
「はぁ……こりゃしばらく帰れないな……」
自力で身体を支えていられない所長の頭を俺の肩に寄り掛からせる。
「ホント飲むと世話の焼ける人だな。普段はあんなにピシッとしてデキる人なんだけどなぁ」
俺はしばらく夜景を眺めながらそんなことを考えていたところ不意に後ろから声を掛けられた。
「おにーさん……?」
その聞き覚えのある可愛い声、俺は背筋に冷た汗が流れるのを感じた。
振り向くとそこには制服姿の夏菜が立っていた。
「な、夏菜……」
「邪魔をしてごめんなさい」
夏菜は俺と肩に頭を乗せた高山所長を交互に見やり、そうひと言だけ告げ足早に立ち去ってしまった。
「夏菜! 待っ――」
「う、う~ん……」
俺は追いかけようとするが苦しそうにしている高山所長の支えが無くなってしまうし放置するわけにもいかず、呆然と夏菜が立ち去るのを見送った。
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ヤマモトタケシです。
この度カクヨムコン6におきまして特別賞および漫画賞の受賞などがあり多忙なこともあり更新が遅くなり申し訳ありませんでした。
今後も不定期になりますが更新をしていきますのでよろしくお願いします。
この作品にイラストが付きました!
詳しくは近況ノートをご覧ください。
https://kakuyomu.jp/users/t_yamamoto777/news/16816452220819827145
仕事に疲れてベンチに座っていた時に声を掛けてきたJKの押しが凄いのですが、知らないうちに何かフラグを立てていたのかもしれない ヤマモトタケシ @t_yamamoto777
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