2023年4月26日 なんだかな

なんだかなー。

最初の印象はそれだった。クラスが変わって1日目、4月の真新しくもよそよそしい風の中、ちょっとグラグラする自分の席に座る。何度も椅子を引いていると、後ろから妙にねばっとした声が聞こえた。


「ねぇねぇ、それなぁに。」


“ねえねえ”と呼びつけるならそれだけでもいいはずなのに、同時に肩へと乗せられた指は、音楽室の重い防音扉でもこじ開けるかのように強く私を引き寄せた。すでに若干うんざりしながら、私は振り返る。明るい茶髪がまとわりついたその子の瞳は、サイズの合わないカラコンと重いまつげのせいで、こっちを向いているにも関わらず、どこを見ているのかさっぱり分からなかった。

後に続いた言葉は、小さな顎を横へしゃくりながら発されたおかげで、かろうじで何を言わんとしているのかが読み取れたものの、文字の輪郭はどろどろに溶けて、“れ”の音なんかほとんど小文字の“え”のようになってしまっていた。


「何よんでんの」


会話の終わらせ方を模索して対応が遅くなった私に追撃をするように、彼女は言葉を続ける。グロスの油分で口にひっついた横髪を払い除け、今度は指で私の机の中を指した。


「小説だよ。海外の。」


着席と同時に机へ投げ入れた赤いブックカバーの文庫本を、彼女の方へ一瞬だけ取り出す素振りを見せる。もちろんそれは、“対話に消極的ではありません”と言った程度のポーズでしかないため、すぐさま中へ戻した。

もしかすると、少し奥まで押し込みすぎたかもしれない。嫌味に捉えられていないかと恐る恐る相手の態度を盗み見るも、彼女はそんなことには全く気づいていないという様子で“あー”と“おー”の中間くらいの声を発していた。


「なんか、あれだよね。頭いいやつだ。」


一瞬の間があって、彼女が付け加える。今度はこっちが嫌味を疑う番だった。

攻守が交代しても、私のすることは変わらない。彼女の様子を盗み見た。いつの間にか頭を机に投げ出していた彼女は、ただ八重歯の覗く人懐っこい笑顔でこちらを見上げている。真上についた蛍光灯のぼんやりとした光が降り注いで、彼女の目の中に、カラコンの薄いドットで描かれた黒と、本当の虹彩の黒の境界線が出現した。


彼女の言葉は嫌味じゃなかった。多分。だからこそ“怖い”でも“ムカつく”でもなく、冒頭の感想である。




「あ、美味しそお。」


真っ白な厚紙の箱を開けると、彼女は覗き込むように身を乗り出しながら呟いた。


「ねえ、そこ踏まないで。」


上体を起こそうと立て膝をついた彼女の足元を指差す。部屋の小さなテーブルを急いであけたため、クリアファイルから雪崩れたプリントが彼女の足の下に滑り込んでいた。

ふてぶてしく吐き出された私の言葉に対し、がさつにファイルを避けたこちらの落ち度を指摘するでもなく、かと言って謝るでもなく、「えーん」と無気力に泣き真似をしながら、彼女は自分の足をどけた。10センチはありそうなありえん角度のサンダルで私の家を訪れたその足には、今もなお✕状の痕がたくさん残っていた。何本ものラインをあしらったシールのペディキュアとあわせて見ると、それすらも何かしらのおしゃれに見えて、少しだけ面白かった。


「えどやてたべんの」


“え、どうやって食べるの?”彼女はそういった。一学期丸々一緒にいれば、流石に聞きとれるようにもなった。

白い箱から仰々しく顔を覗かせたフルーツタルトは、放射状に広がる桃やリンゴの周りをキラキラ輝く赤いベリーが等間隔に取り囲んでいて、我ながら華やかな良い出来だと思った。

これを冷蔵庫で休ませ終わって、わざわざ白い箱へ梱包しているとき、箱を開けた瞬間この華やかさに圧倒される彼女の反応を想像しなかったわけじゃない。しかしまあ、期待したわけでもない。実際目の前の彼女は“美味しそお”と言ったきり、箸かフォークかと食べ方の話ばかりしている。箸はないだろ。と突っ込もうかとも思ったが、なんとなく気が乗らなかったので、私は一言「切るか」と言った。


「待ってー写真とる」


お茶と一緒に持ってきていた波刃の包丁に手を伸ばすと、彼女はゆらゆらと挙手をしてスマホを構える。何度か画面をタップして、しまいには体制をぐるりと返し、自分まで写り込んでいた。だいぶ引き気味のアングルになっている。部屋が散らかっているからと止めようかとも思ったが、撮影の合間にチラチラとタルトに向ける視線がこころなしか嬉しそうだったため、なんとなくそんな気分にもならなかった。


「なんか観覧車みたいだね。テンション上がるー。」


ひとしきり撮り尽くした写真を厳選しながら、彼女は言った。流石の私でも一瞬ピンとこなかったが、暫くしてその意味に気づいた。丸いタルトを切ったとき必ず一切れにつき一つ乗るよう配置されたラズベリーが、彼女には観覧車のゴンドラに見えたのだろう。確かに、色とりどりなフルーツの配色も、ちょっとした遊園地なんかに近しい雰囲気を持っているかもしれない。


「だったら、このカエルはどうなるの。」


私は笑いながら返した。包丁を熱い布巾で軽く温め、タルトの真ん中に鎮座したグミ製のカエルを、箱の底に敷いた灰色のトレーに移動させた。

ゴンドラに乗せてもらえなかったカエルは観覧車から滑落して、暇を持て余した目の前の友人にムニムニと突かれている。




「えー、食べれないの?なんで?」


夏休みが始まる少し前、席替えで離れ離れになってしまった彼女が、わざわざ椅子を引きずって私の元へやってきた。右手に収まったスマホには、誰かが作ったマスカットのタルトの画像がうつし出されている。


「なんか、カエルみたいじゃん。」


小さい頃一度食べてしまったときの感覚が口の中に蘇らないように最新の注意をはらいながら、私はなんとか理由を口にした。もちろん彼女のスマホの画面からは努めて目をそらしている。


昔母に連れて行ってもらった、おしゃれなケーキ屋さん。キラキラ輝くショーケースの中、黄緑一色を全面に押し出したそれを、私は好奇心で選んだ。あまりよく見ていなかったのだ。真っ白なテラスで少し待ってようやく運ばれてきたそれは、剥き身のフルーツではなくまだ皮がついた状態のぶどうにそのままナパージュがかかった見た目をしていて、妙につるっとぬめっとした質感は、幼い日の私にあじさいの裏のカエルを連想させた。

おいしそうだね、と笑いかける嬉しそうな母を落ち込ませたくなくて、私は無理やり一口食べた。皮のまま食べられるものなのはわかっていたが、やはりその食感は“食べられる皮”でしかなく、私の想像するフルーツのそれとはだいぶかけ離れていて、より一層頭の中の“カエル感”を強調させた。


思い出したくない記憶にこっそりえずいていると、目の前の彼女はにっと八重歯を見せた。


「かわいいじゃん、カエル。」


私はもう一度えずきそうになった。カエルはかわいい、かどうかはちょっとわからないけど、少なくとも彼女の中ではかわいいのだろう。それを否定するつもりはない。ただ、それは“見た目がかわいい”という話であって、決して美味しく食べられるかどうかという問題とは結びつかないはずだ。


「じゃあ、カエル食べれるわけ?」


あんたは。と付け加えた私に、彼女は曖昧なうめき声を上げてから口を開いた。


「ぶどうの味するなら?」


まじか、と思った。さっきの言葉を発したとき、私はもう彼女を論破した気でいた。かわいいとおいしいをごっちゃにしないでよね、と、そういった趣旨の発言だったつもりだ。しかし、彼女がぶどう味のカエルを食べられるとなると話は変わってくる。いや、そんな生き物は地球上に存在しないのだけど。


「そーだよ。そもって食べればいいじゃん。」


そう思って、食べればいいじゃん?

解読には成功している。聞き間違いではないはずだ。つまり彼女は、“マスカットのタルト”を“ぶどう味のカエル”だと思って食べればいいじゃん、と、そう言ったのだろうか。

何言ってんだろうと思ったが、それと同時になんだかわくわくもしてきた。マスカット嫌いを克服しようと試みたこと自体は何度かあったが、そんな突飛な方法を試したことは一度だってなかったからだ。

わかった。私はそう返した。そして決行に至る。




自分で作ろうとして初めて気づいたことだが、マスカット、特に私のトラウマの原因となった皮ごと食べられるシャインマスカットは、恐ろしく高い。

一切れだけならまだしも、ホールで作るとなったらまあまあな量がいる。まだレシピの分量をいじれるほどタルト作りに慣れてはいないし、そもそもぶどうを買おうと思ったら房やパックの単位でドカンと買う以外に方法がない。

財布との相談は一瞬で済んだ。私はシャインマスカットを諦めて、もうこの際ただのフルーツタルトでいいやと残りの材料を探した。


製菓コーナーの片隅に、そいつは居た。イチゴ味のウサギさんとオレンジ味のネコさんの間に挟まれた、その名の通り“ぶどう味のカエル”だ。グミで作られた体を砂糖でコーティングされたそいつは2本足で直立しており、顔つきもだいぶデフォルメされていたが、大きなトラウマを抱えた私にとってはまあまあしっかりした難易度だった。

マスカット克服は次の機会でいい。まずは“ぶどう味のカエル”に脳みそを慣らすことだ。私は買い物かごに迷わずそれを放り込み、大股歩きでレジへ向かった。




切り分けられたフルーツタルトに目をやる。透明なアガーで固められたフルーツたちは、少し厚切りになってしまったため若干食べにくかったものの、十分申し分ない味をしていた。目の前に座った彼女もまた、口をいっぱいにした状態で“美味しい”に似た鳴き声を発している。


彼女はいつも屈託がない。マスカットタルトの話になったときだって、彼女は彼女自身の好きなものを苦い顔で否定した私に腹をたてることもなく、それどころか“カエルみたい”と罵った感性をまるごと包み込むように、カエルだと思ったままで克服するという道を教えてくれたのだ。

初めこそ“なんだかな”なんて微妙な印象を持った彼女だし、もちろん今だってそういうところは沢山あるけれど、それはきっと、彼女の持つ優しさやおおらかさの裏返しのようなものなのだろうと思う。

なによりも、意地っ張りでとっつきにくい面がある私ともうまく付き合っていてくれているということこそが、彼女の偉大さの証だ。

私はきっと心のどこかで、彼女に、“ぶどう味のカエルが食べられる人”に、なってみたいと思っていたんだろう。

そして、彼女が一緒に居てくれるなら、それが可能なのだとも思えた。


キラキラのフルーツから引きずり降ろされ、灰色のトレーの上で私を待つぶどう味のカエルに目を向ける。しかし、あの鮮やかな黄緑色はどこにも見当たらない。ただ灰色一色、彼女が早々に投げ出した銀色のフォークだけがそれを反射させていた。


「はえほいはよ、はえう。」


食べといたよ、カエル。

今だけはこの解読スキルが忌まわしかった。もちろん、“私がカエルに挑戦するから、あんたは食べないで。”と、一言言っておけばよかった話だ。でも、勝手に食べる前に一言くらい断ってくれたって良かったじゃないか。


いや、これは嫌いなものをこっそり食べておくという彼女なりの気遣いなのかも。

ううん、そんなはずがない。そんなに嫌ならわざわざ自作のタルトにカエルを置いたりしないってことくらいわかるはずだ。

ひとしきり考えてもわからないから、私は降参してぼーっと前を向いた。彼女は自分の皿に乗せていた最後の一切れを素手で口に運び、また“美味しい”に近い鳴き声を上げた。


なんだかな。と、私は再度思った。




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お題:「灰色」「観覧車」「鑑賞用のカエル」

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夜毎三題噺 ナツメダ ユキ @aduki_an

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