2023年3月26日 間違っていると思いますか?

タイムマシンで目を覚ます、これは僕の下らない遊びの一部分である。大学近く、一人暮らしのアパートから電車を乗り継ぎ最短3時間、母校の裏手の寂れた林に、その小さな楽園はあった。


子供の頃、よく遊んでいた友達と連れ立って、通りの向こうの公園から、奥へ奥へと歩みを進めた。お散歩コースの小洒落た石畳は花壇と融合して、お構いなしに歩く人の足で踏み固められた雑草の道も、いつしか膝まではありそうな、大きな草の化け物になっていく。転がる石を蹴りつけて、伸びる枝葉をもぎ取りながら、僕らはなんとなく一列になって、木々の間を歩いていく。無限の緑が途端にひらけ、小学校の歪んだフェンスが見えたとき、同じ感動に震えたことをよく覚えている。そこは僕らの秘密基地になった。


帰りの会が終わると、「さようなら」で下げた頭をそのままに、勢いよく出口へ向き直って、前傾姿勢に教室を飛び出した。同じクラスだった僕らは、そのたびに後ろの出口で詰まり、他のクラスメイトたちの通行を一時妨げていた。走るなと言うのも面倒になったのか、僕らの名前をため息のように吐き出す先生の声を背に、靴を履き替え、秘密基地へと向かった。そうして日が落ちるまで、何もない緑の中で遊び、朝はわざわざ早く集まってぎりぎりまでそこで過ごしては、フェンスを飛び越え裏庭から小学校へ侵入した。


そんなある日のことだった。いつも通り秘密基地で走り回る最中、友達の一人が図工の時間に作ったティッシュケースとラップ芯のロボットに、一匹のカマキリがよじ登っていた。気づいた僕が、そいつを追い払おうかと一歩近づくと、もうひとりが後ろから駆けてきて、縫い付けられた顎のゴムがくるくると撓んだキャップ帽をそいつ目掛けて勢いよく振り下ろした。後方から「あーっ!」と大きな声がする。ロボットの発明家が、へこんだ機体を指さしてキャップ帽の主を糾弾していた。言い争う声を聞きながら、ぼくはただ帽子のメッシュ地に引っかかる緑色をした小さな鎌を見つめていた。

「なー、なぁコイツ飼おうぜ?」

白熱する口喧嘩を切り裂くように、甲高い声が追撃する。やっと僕らの様子に気づいた最後の一人が、さらに喧しく付け加えた。

「ねぇクラスでさ、飼えばいいじゃん!」


ランドセルをしまう背の低いロッカーの上、掃除用具入れにぴったりと寄り添うように、小さな緑の虫かごは設置された。本当はもっと日の当たる場所を与えてやりたかったのだが、特等席の真下に薄紫のランドセルを取りに来た女の子が、気持ち悪いと涙ながらに抗議したため、僕らが悪者みたいになってしまって泣く泣く却下した。

あの日、捕まえたカマキリをロボットのコックピットに閉じ込めて、それの持ち主を除く僕ら三人は、飼育の準備に奔走した。と言っても、僕は生き物など飼ったことがなく、一度家へ戻ったって、役に立つものを持ってこれるわけがない。まだ家族の誰も帰っていない家にランドセルを置き、冷蔵庫に入ったものをつまみ食いして、申し訳程度に部屋を物色してから、虫が表紙のいきもの図鑑を持ち出した。


結論から言うと、これが結構役に立った。暫くして集合した僕らは、持ってきたものを次々に取り出して報告し合った。早く見せたくてたまらないといった様子で落ち着きなく虫かごを差し出し、一人が甲高くまくし立てる。わざわざ持ち出してきたらしい大きな黒のリュックサックからは、生き物を飼うために必要なあれこれがいくらでも飛び出してきて、簡易的ながらもなんとか一式持ってきたらしいもうひとりは、つまらなさそうに顎にかかった帽子のゴムを弾いている。

虫かごにカマキリを移し終え、僕らはいきもの図鑑を開いた。カマキリがたくさん載ったページのコラムには、ちょっとした豆知識と一緒に、捕まえ方や飼い方が図解で説明されていて、僕らはそのページと隣の虫かごとを見比べながら、あれこれと試しては日が暮れるまでその中身に構い続けた。

黒のリュックサックに仕舞われたそれは友達の家に一度持ち帰られ、翌日の朝、担任の先生の前に突き出された。元々こういったことはたまにあるもので、先生もクラスで虫を飼うことについて、とても好意的な対応だった。それも、僕がついた嘘が一役買っていたからというだけかもしれないのだが。


登校早々、虫かごを手にした僕らに詰め寄られた先生は、あっけにとられながらも僕らの声に耳を貸す。「これ捕まえてさ、教室で飼っていい?」とひときわ響いた声をかろうじて聞き取った先生は、興奮する僕らをいなしつつ「わかったわかった」と頷き、かごの中身に目を落とした。

「これでっかいねー、どこで捕まえた?」

そわそわとしつつも少しは落ち着きを取り戻した僕らに、先生は感心した様子で問いかける。外したキャップを弄ぶ一人が強く息を吸ったのを遮るように、僕は声を発した。

「朝裏庭で捕まえました。」

自分にしては、だいぶ大きな声だった。ふーん、と楽しげに頷く先生を飛び越え、向こうから視線が飛んでくる。僕が目を合わせると、みんなはニヤッと笑った。

前に僕らが、人んちのマンションのエントランスで勝手に遊んで学校に苦情が入ったとき、怒る先生に僕が適当な嘘をつき、お説教タイムを切り抜けたことがあった。それ以来みんなは、僕が大人に嘘をついたときは、その真意が分からずとも、この顔をして話を合わせてくれるようになった。この瞬間、僕らにはなんとも言えない連帯感のようなものが芽生えたし、僕自身、まるでこのチームのリーダーにでもなったかのようで、なんとなく誇らしかった。


今回僕が嘘をついた理由は単純だ。このクラスでは、前に生き物を飼っていたことがある。一匹目が青虫で、その次がなんだかよくわからない虫だ。両方ともすぐに死んでしまった。確か、隣の隣のクラスにも、誰かが捕まえた生き物がいる。しかし、そのどれもが、この学校の敷地内で捕らえられた生き物だ。おそらく、休み時間などに複数人で捕まえた場合、誰が持って帰るかでトラブルになるのを防ぐためだろう。もちろん、前例がないからといって、敷地外の生き物を飼うことが必ずしも却下されるとは限らない。でも僕は、嘘をついてでも安全を取りたかった。それに、僕らだけの秘密基地のことを、やすやすと学校なんかで話してしまいたくなかったのだ。


一週間後の昼休み、事件は起こった。僕がトイレを出て教室へ向かうと、聞き慣れた声が聞こえた。校庭の土埃で汚れたキャップ帽が頭にちらつく。大きな声だ。嫌な予感に足を取られながらも、僕はなんとか教室へたどり着き、引き戸に手をかける。予想通りの後ろ姿が、皮膚を真っ赤にして誰かに掴みかかっている。遠巻きに制止の声を投げかけるクラスメイトたちの間を割って覗く。相手も僕の友達で、あの秘密基地を知るうちの一人だった。

「おいやめろよ、何。」

その姿を認めた瞬間、僕の足は人の輪の一歩前へ飛び出していた。

「こいつがさぁ!お前のさ、」

僕の声を聞いたそいつは、相手の胸倉を離さないまま、真っ赤な顔で僕の方を振り返った。つかみかかられた友達は、今にも泣き出しそうな震える声で、小さく抗議を繰り返し、次の瞬間「ちがう!」という半ば絶叫のような言葉とともに、目の前の友達の頬を殴った。殴られた方は真顔でぐるりと向きを変え、手を離してめちゃくちゃに相手を殴りつけ始めた。後方で上がった金切り声のような悲鳴を皮切りに、教室内は不規則な足音と先生を呼ぶ声で溢れかえった。僕はただひとり、その様子を直立不動で眺めていた。そこで起こる全てが、さっきまでの僕の人生と切り離された、どこか別の世界の出来事かのように思えた。


それからのことは、あまり良く覚えていない。僕はふたりの居ない教室で、何事もなかったかのように5時間目の授業を受けて、気づいたら、先生とふたり、夕暮れの教室に取り残されていた。

「何があったのか、知ってるかな。」

先生の声は割れ物を扱うように優しく、保護者を相手に話すときのように他人行儀だった。

「知りません。」

僕は答えた。本当だった。しかしそれ以上に「このことについてもう何も話したくありません」という気持ちを込めた、投げやりな言葉だった。先生は僕を叱らなかった。その後、僕は初めて、一人で秘密基地へ向かった。


「ここがタイムマシンな!」

楽しげに声を上げるキャップ帽の後ろ姿を思い出す。秘密基地の横にある、ちょっとした窪地のような一角に、無理やりつけた設定だ。そこに10秒入ると、タイムスリップをしたことになる。鬼ごっこの特別ルールを作るときに生まれた産物だった。ランドセルを枕にして、僕はそこに寝転がる。目を閉じて10数えて、そうして目を開けると、今日の喧嘩が起こる前の下らない日常が待っているはずなのだ。“仲直りした後の世界”に行こうとは思わなかった。そんな未来はこないのだと、不思議と心のどこかでわかってしまっていたから。

いくら時間が過ぎても、楽しい日々は戻ってこなかった。頭の中では、数時間前の喧嘩の様子が何度も何度も再生されていた。殴り合いになったふたりが、でたらめに罵り合う。違うと叫んだあいつは、一体何を否定していたのだろう。

「お前が先に壊した!」

担任の先生と、駆けつけた隣のクラスの先生に引き離されながら、涙でぐしゃぐしゃの顔はそう叫んでいた。二人が争っていたのは、僕が開けた引き戸の真ん前、ロッカーの横だった。思い出したくないことと後味の悪い空想が、頭の中で結びついていく。僕は今日、あの後一度もカマキリを見なかった。


翌日、先生とふたりきりの面談室で聞かされた話は、昨日僕の頭にあった最悪の想像と大して変わらなかった。教室の虫かごは撤去されていた。“児童の悪ふざけ”によって、その短い生涯を終えたからだ。昨日のあいつの真っ赤な顔を思い出す。あいつは僕らの中でも気性の荒いほうだけど、仲間の僕らやあの秘密基地を一番大事にしている。理由もなく友達に掴みかかったりするやつじゃない。あいつがあそこまで怒っていたのは、あのカマキリを殺されたためだった。

「お前が先に壊した」という言葉にも、わずかだが心当たりがあった。彼が__殴られていた友達が、傑作のロボットを壊されていたからだ。カマキリを捕まえたとき、キャップ帽のつばが当たってへこんだ機体に文句を言っていたのを覚えている。でも、その時少し口論になって、それからカマキリを飼おうって話になって、それで円満に終わったのではなかっただろうか。

違う。終わらせたのは僕らであって、あいつ本人ではない。図工の時間に作ったロボットをあいつだけ基地へ持ってきていたのは、あいつのロボットの出来が良くて、カマキリの話になるまでずっとそれで遊んでいたからだった。その日の僕らは、あいつの作ったロボットの話で持ちきりだったのに、カマキリが現れた途端にあの仕打ちだ。ひょっとすると、ロボットを仮の虫かごにしたときも、あいつには確認をとっていなかったかもしれない。僕が気づかなかっただけであのときも、もしかしたら今までもずっと、あいつはそういう思いをしてきたのだろうか。僕が楽園のように思っていたあの場所で、窮屈な思いをしていた人間がいたのだろうか。


「すごく、嫌だったんだって。」

黙り込む僕を見て、カマキリが死んでしまったことに相当なショックを受けていると思ったのか、先生はカマキリを殺した方の友達を擁護するように付け加える。僕はただ見ていただけの喧嘩なのに、まるで僕が彼を許す必要があるかのような物言いだった。ふと、あの時のもう片方の言い分を思い返した。「こいつがさぁ!お前のさ、」__続きはわからない。ぶん殴られていたから。でも、あいつの怒った理由がカマキリの件だったとして、どうして僕に“お前の”と話し出す必要があったのか。今の先生の甲斐甲斐しい対応もそうだが、何となく違和感がある。

「大事にしてたもんね。」

先生がため息混じりにそう投げかけてきて、合点がいった。先生も、あいつも、僕があのカマキリをすごく大事にしていると思っていたんだ。休み時間になる度に、いきもの図鑑を開いて虫かごの前にいたから。でも、それは誤解だ。

「僕は、あいつらと遊ぶのが、おもしろかっただけです。」

あの場所で、みんなで捕まえたから構っていただけだ。そのためにこんな喧嘩になってしまったら元も子もない。最も、あの場にいるみんなが僕と同じように思っていたら、こんなことにはならなかったはずなのだが。

「二人もそう言ってたよ。」

先生の表情は穏やかだった。意外だった反面、僕はすごく安心した。あいつは、僕らが嫌でカマキリを殺したんじゃない。みんなと楽しく遊びたかった。それだけのことが、うまく行かなくなってしまったのだ。

あの後、一発食らわせてタコ殴りにされたあいつは、その時にかけていた眼鏡が壊れたとかで、親に弁償騒ぎをおこされているらしい。そんなことをして溜飲が下がるのは親だけで、あいつのロボットが再度日の目を見る日は遠のく一方だというのに。

そんなこんなで、保護者や先生たちの意見は「先に掴みかかり、且つ眼鏡を壊したほうが悪い」ということになっているようだ。カマキリについても、“殺した”というよりは“悪戯をした”事によって死んでしまった“可能性がある”という扱いで、それ自体は現場を見ていない僕に公平さが判断できるものではない。


「先生は、僕の……友達のために怒って、手を出したの、間違ってると思いますか?」

心のなかに渦巻く靄を吐き出すように、口から疑問が転がり出た。少しだけ後悔した。

「思わないよ。」

先生の答えは簡潔だった。「でも、暴力は良くないよね。」とか「友達のために動けるってところは、素晴らしいところだよね。」などといった、煩わしくて如何にも先生らしい付け加えは一切なく、ただ僕の方をじっと見つめて口を噤んでいた。僕はもう一度口を開いて吐き出した。

「じゃあ、あいつが、ロボットのことでああやって怒ったの、間違ってると思いますか?」

どっちの味方をするのかと試すような物言いをしてしまった僕に対して、先生は揺らぐことなく「思わないよ」と繰り返した。僕もそう思っていた。どちらのことも、間違っているだなんて思えなくて、だからこそ、どうしたらいいのかが分からなかった。どちらかが謝って、何かを直して、僕にとっては、それで終わるような話ではなかったのだ。

「先生、」

僕はまた口を開いた。どうしてかは分からなかった。

「あのカマキリ、本当は学校で捕まえたんじゃないです。」

気づくと僕は泣いていた。先生は、少し笑って「そっか」と答えた。


タイムマシンで目を覚ます。夢とも回想ともつかない記憶の旅を終えて、僕は体を起こした。10年以上が経った今も、この林にはあの日と変わらない青い風が吹いている。あれ以来、おそらく弁償騒ぎの延長で保護者の介入もあって、僕らは疎遠になってしまった。そして学年が上がればクラスが変わり、学校が別れ、大学に進学すれば地元を離れて、僕らはばらばらになっていった。それでも僕は、時折こうして一人この地を訪れる。青い風が揺らす木々の音に混じって、あの日の僕らの笑い声が聞こえてくるような気がした。




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お題:「林」「ロボット」「残念な遊び」

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