第7話 テッティ・アンリ

「小っちゃい(テッティ)アンリ…」

 懐かしい呼び名で声をかけたのはきっと兄だ。

 それなのに、体が熱くて、息苦しくて寝台から起き上がることができない。

 どうしても兄の顔が見たくて、重い瞼をゆっくりと開けた。

 まだ父が生きていて、兄が小(プティ)アンリだったころ、自分は小っちゃい(テッティ)アンリと呼ばれていた。幼子の言葉のような呼び名だったが、兄にそう呼んでもらえるのが大好きだった。

「テッティ、目が覚めた? まだ具合が悪そうだね…」


 アンリは自分がまた他のアンリの中にいるのかと思ったが、兄の顔を見て自分の幼いころの夢を見ているのだとわかった。

 夢というよりも、幼い頃の自分の中にいるのかもしれない。

 兄はやさしく額の汗を拭いてくれると、掛布から飛び出してしまった手を握ってくれた。

 この光景ははっきり覚えている。熱に浮かされておぼろげになっているところもあるけれど、きっとあの日のことだと確信できた。

 元気が取り柄のアンリは、このときまでこんなに酷い病にかかったことはなかった。風邪で熱を出しても一晩でけろりと治ったものだった。

 それがこのときだけは、五日過ぎても、十日過ぎても起き上がることもできず、食べ物を口にしても戻してしまう始末で、日に日に弱っていくのがよくわかった。

 幼いながらも、自分がどうなってしまうのか怖かったのを覚えている。

「大丈夫だよ。テッティ。ぼくもなったことがあるから、よくわかる。すごく苦しかったことも覚えているよ。でも、この静寂の塔にいて、ゆっくりと休んでいればきっと良くなるからね」

 このとき、兄は十五歳だった。明るい栗色の髪は短く整えられ、思慮深そうな新緑色の瞳はやさしく自分のことを見つめてくれている。

 この十歳違いの兄とは、生まれたときから静寂の塔でともに暮らしてきた。自分にとって兄がすべてだった。

 父はときどき自分たち二人を訪ねてきてくれたが、母がこの塔を訪れることは一度もなかった。だからアンリは自分の母のことを何一つ知らなかった。

 それでも、母の存在を恋しく思うことはなかった。どんなときでも兄と一緒にいたからだ。

 この日まで。


「テッティ、よく聞いて。母上が亡くなられたよ」

 だから、兄のこの言葉を聞いても、誰か知らない遠い人の話にしか聞こえなかった。

「セルシーヴの外では、ひどい戦が続いている。わかるかい?」

 戦という言葉の意味はわかる。よく歴史の勉強の中で出てくる言葉だ。たくさんの剣や槍で人を傷つけあって、領土をやり取りするものだ。

 言葉では理解できても、静寂の塔の中から出たことのない、五歳の子供には兄の言っていることは、理解できなかった。

「父上もローザニアとの戦いで深手を負われたそうだ。遣いが来たよ。行かなくてはいけないんだ」

「行く? どこに行くの?」

「父上のところに。アンリの名を継ぐために」

「テッティを置いて行っちゃうの?」

「もう、おまえはテッティじゃなくなるんだよ。わたしがアンリを継いだら、おまえが小(プティ)アンリと呼ばれるようになる」

「兄上がそばいてくれるなら、ずっとテッティのままでいいよ!」

 熱で頭がふらふらしたが、なんとしても兄を自分の元に留めるために必死になって言いすがった。

 具合が悪く浅い眠りを繰り返すアンリを起こしに来たのは、自分に別れを言うためだったのだ。

「ずっと離れ離れになるわけじゃない。父上のように静寂の塔にも来るよ」

「そんなの何か月に一回じゃない。ずっと一緒にいてよ!」

「セルシーヴ候としての務めがあるからね」

「じゃあ、ぼくが緒に行く」

 腕ひとつ動かすのも億劫な体を無理やり起こそうとして、眩暈をおこした。その小さな体を兄に支えられる。

「おまえは、まだ塔から出るのは無理だ。また具合が悪くなってしまうよ」

「じゃあ、どうすればいいの?」

「ここで、小(プティ)アンリとしての務めを果たすんだ」

「それって、どういうこと?」

「しっかりと学んで、体を鍛えて、次のアンリ・ド・セルシーヴとして恥ずかしくない騎士になるということさ」

 アンリの目からぽろぽろと透明な涙がこぼれた。

 どうあっても置いていかれるのだということがわかったからだ。ほんの小さな頃から兄のいうことは絶対だった。

 自分の手を握っていた兄の手を両手で握り返すと、その温もりがお互いに伝わるのがわかった。

 兄の目にも涙が浮かんでいるのがわかると、その小さな手には一層、力が入った。

「テッティ、母上を覚えている?」

 アンリは兄の言葉に顔を横に振った。その姿も声を何も思い出せない。いや、思い出せないのではなく、知らないのだ。

「母上はね。おまえのことをとても愛していたよ。今日だけは、母上のために泣いておくれ」

 そう言ってアンリのことを掛布ごと抱きしめると、兄はかすかな嗚咽をもらしていた。

「兄上は母上のことを覚えているの?」

「もちろん、おまえはこの静寂の塔で生まれた。そのとき、ぼくもこの塔にいたんだから」

「どうして、母上はぼくに会いにきてくれなかったの?」

「母上を恨んじゃいけないよ。父上がお許しにならなかったんだ。母上が静寂の塔を訪れるのを禁じてしまわれたから」

 兄は小さな溜息をつくと、話をつづけた。

「ねえ、十日前の満月の夜、どうして塔の外に出たか覚えている?」

「ううん」

 兄に聞いた話だと、静寂の塔を出たのが原因で病にかかったのだという。ただこのときは熱が高く、その前後の記憶が曖昧で、どうして塔を出ようと思ったのかわからなかった。ただ、誰かの手に引かれていたのはかすかに覚えていたけれど。

「そうか。ねえ、約束してくれるね。今度この静寂の塔を出るときは、おまえがアンリの名を継ぐときだと」

 このときは幼すぎて、それが兄との別れのときを意味するのだとはわかっていなかった。

 ただ、塔を出ただけでこんなに苦しい思いをするのなら、許しが出るまで塔の中にいようと思ったのは事実だ。

「ぼくは、アンリ・ド・セルシーヴを継ぐよ。父上に会いに行ってくる」

 そう言って、アンリの手を掛布の中に戻すと、栗色の小さな頭を軽く叩いて、寝台に背を向けた。

 扉の閉まる小さな音がすると、熱に浮かされた体は、また浅い眠りに落ちていった。

  

 矢傷を負ったアンリは、この後二日間、起き上がることができなかった。熱に何度も浮かされていろいろな夢を見たような気がするがはっきりとはしなかった。

 国境を越え、サラン候領を目前にしながらも、足手まといになっているアンリを放り出すことはなかった。

 アンリ自身は何度か自分を置いて先にサラン候領に入るようにと勧めたが、頑として承諾しなかった。

 傷口を焼いたことで、出血は止まり、化膿することもなさそうだったが、灼き爛れた痕は醜く引きつり、綺麗に治ることはなさそうだった。

 アンリ自身はそのことを気にしてはいなかったが、包帯を替えてくれるリュシオンのほうが痛々しいように目を背けがちになる。

「おまえ、俺をかばったのか?」

 リュシオンに一度そう訊かれたことがあった。

 あのときは無我夢中でとてもそれどころではなかった。ただ、矢が放たれた音がしたとき、避けようとは思わなかった。

 前にリュシオンが走っていた。自分が避ければその矢はリュシオンに当たる。そう思うと体が動かなくなった。それだけだ。

 けれど、アンリはそれをリュシオンに告げることはなかった。

「矢が飛んできたのに気付かなかっただけですよ。わたしには兄のようなことはできません」

 リュシオンは兄が自分をかばって毒矢を受けたことに苦しんでいた。自分のかわりに命を落としたと自分を責めていた。そのことをアンリは折に触れ感じていたのだ。


「サラン候領へ向かいましょう」

 アンリがそう言って身支度を整えた。まだ素肌に服が触れると痛みがあるが、いつまでも洞穴の中にいるわけにはいかなかった。

 リュシオンは、アンリ自身が出立を言い出すまで待っていた。焦る気持ちもあったろうに、アンリの回復を待ってくれたのだ。

 出立を決めると後の行動は早かった。リュシオンはいつ出立になっても良いように準備を整えて待っていたのである。

 ふたりが籠っていた岩穴は国境を越えてすぐの森の中にあった。近くに小川のせせらぎの音が聞こえる。いつも新鮮な水を汲んできてくれたことを思い出して、少し嬉しくなった。

 それにしても、こんなに隠れ家に丁度良い場所をよく見付けられたものだと思っていると、リュシオンが足元にあった小さな石を投げて寄越した。

「セルシーヴの紋章だな」

 それは白い柏葉が描かれた黒い小石だった。アンリ・セロンが残した目印だ。

「おまえが意識を失う前に言い残したんだ。あの洞穴はこの石をたどっていった先にあった」

 小石を受け取ったアンリは、慎重に元の場所に戻すと、心の中でアンリ・セロンに感謝した。彼が助けてくれなかったら、自分たちはローザニア兵に捕らえられていただろう。

 

 森を抜けると街道が見えた。サラン候領へ入ったのだ。ローザニア軍は帝都ローザブルグから最短距離でクラン・クレイターヴを攻め落としたはずだ。クレイターヴの南の端にあたるサラン候領までには侵攻していまい。二人が行先をまずサラン候領と定めた理由のひとつがそれだ。

 そしてリュシオン襲撃の後、兄であるアンリが、ノルド遠征軍の残兵のほとんどを預けたのがサラン候だった。

 独立してからのクレイターヴは、智のセルシーヴ、武のサランと二人の騎士候に支えられてきた。サラン候、サレイ・ド・サランはそのひとりである。

「武のサランと言われているが、サレイもアンリに負けず劣らず聡い男だ。クラン・クレイターヴが落ちたとわかった時点で、迂回して自領に戻ったはずだ」

「陛下を救いにクラン・クレイターヴへ戻ったとは、お考えにならないのですか?」

「おまえが言ったんだ。クラン・クレイターヴへ言っても無駄だとな。サレイも同じ結論に至っているさ」

 サラン候領に入ってからは、森の中と違って騎乗しての旅路だ。しかも追手の心配がない。騎馬も数日の休息を得ていたので、力強く走ってくれた。

 森を出た次の日の夕刻、茜色に染まるサラン城を目にすることができた。


「サレイ!」

 リュシオンはサラン候の姿を目にとめると、門から馬を走らせた。腕を組んで待っているサラン候の前までくると馬から飛び降り、勢いをつけて肩を抱いた。

「リュシィ、無事で何よりだ」

「おまえもな、サレイ」

 まるで傭兵仲間のような気安さで話をする二人の後から、アンリはゆっくりと馬を歩かせて門をくぐると、サラン候の前で馬を降りた。

「そちらは?」

 サラン候がリュシオンに話を向けた。リュシオンが紹介する前に、アンリは自分で名乗りをあげた。

「アンリ・ド・セルシーヴです。以後、お見知りおきを」

 その言葉を聞いたサラン候は、一瞬表情が固まった。自分がアンリだと名乗ったということは兄が亡くなったと告げていることと同じだからだ。

「当代のアンリ卿に会えて光栄ですよ。サレイ・ド・サランです。こちらこそお見知りおきを」

 ふたりともクレイターヴに仕える騎士候としては対等の立場だ。若輩といえども騎士候として接してくれたことが、アンリにとっては嬉しいことだった。

 武の騎士候と称されるサラン候だが、その容姿は武勇を誇る騎士のようには見えなかった。逞しい武人というよりも、怜悧な文人といった印象だ。三十も半ばだと聞いているが、とてもそのようには見えない。落ち着いた雰囲気がこの人の年齢をわからなくさせているのだろう。

 背はリュシオンと変わらないため長身と言えるが、肩や胴回りは剣を振り回すというよりは、リュートの一つでもかきならしそうに見えた。戦時ということでなめし皮のチュニックに剣を帯びているが、限りなく黒に近いくせのない褐色の髪は、ゆるく背で結ったままだった。

 南方の人間とは思えないすき通った白い肌とごく深い翠色の瞳にアンリは思わず見とれていた。

「わたしは誰かに似ていますか?」

「いえ」

 突然、思いもしなかったことを尋ねられて、アンリは狼狽した。

「先(せん)のアンリ卿に言われたことがあります。わたしには遠くセルシーヴの血が流れている。ご親族のどなたかに似ていても不思議はありません」

「そうなのですか?」

 親族といっても静寂の塔に籠って暮らしていたアンリには思い当る人間はいなかった。 

「あの、兄から聞いていたサラン候の印象とあまりに違っているので」

 クレイターヴの誇る武の将軍とずっと耳にしていたため、逞しい豪傑だと勝手に想像していたのである。

「見かけに騙されるなよ」

 サラン候が答える前にそう釘を刺したのはリュシオンだった。

「こいつは、クレイターヴ一の剣士で将軍だ」

「リュシィにはかないませんよ」

「いや、二本に一本は取られる」

「それでは、互角ということにしておきましょうか」

 リュシオンと互角とはいうが、軽口を叩いている様子からは想像もつかない。

 リュシオンは十四のときまで傭兵の祖父に鍛え上げられたと言っていた。それからも戦場を駆け巡る日々が堂々とした体躯を造りあげてきたのだろう。その剣技も荒っぽい傭兵流とはいえ一流のものだ。

「久しぶりに手合せするか?」

「そのような悠長なことを言っている場合ではなかったのでは?」

 サラン候は、いつものことのようにリュシオンを軽くあしらうと、ふたりを屋敷の中へ招き入れた。

 そのとき、リュシオンに聞かれないように、そっとアンリの耳元で囁いた。

「その程度の怪我で済んでいるうちにセルシーヴへお戻りなさい。お嬢さん」

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