第8話 セルシーヴのエゼル

「陛下の行方はいまだにわかっていません」

 サラン候の言葉にリュシオンは苛ついた様子を隠しもしなかった。

「何故だ?」

「わたしも、クラン・クレイターヴを迂回して、こちらへ戻ってきました。もちろん斥候は放ってきましたが、情報がないのです。まったくね」

 サラン候の話では、クレイターヴ城は無血開城したとのことだった。クレイターヴ王ジョルジュも愚かではない。民を巻き込むことはしなかった。降伏ということでなく、手勢を連れて落ち延びたというのである。

「落ち延びる先としては、やはりこのサラン候領を目指すのでは?」

 アンリが素朴な疑問を口にした。

「それは敵も考えることでしょう。街道には厳重な警戒網が引かれているはず」

「だが、捕まれば、捕まったなりの動きがあるはずだ」

「ええ、陛下の首級を上げれば大声で呼ばわるでしょう。クレイターヴ王は死んだ、おまえたちはもう終わりだとね」

「では、まだどこかに潜伏しておられると?」

「さあて? あのお方の考えることは私にはわかりません」

 サラン候はいくらか呆れたような口調で、自分の君主のことを言った。兄からは、あまりクレイターヴ王の話を聞いたことがなかったアンリは、リュシオンに視線で問いかけた。

「まあ、突拍子もないことをいろいろと考える方だからな、兄上は」


「さて、リュシィ、あなたの考えを聞かせてもらいましょうか」

「考え?」

「あなたはどうしたいのですか? クラン・クレイターヴを取り戻したいと思っていますか?」

「当たり前だ!」

 リュシオンが怒りも露わに机を叩いた。

「ローザニアの奴らに自由にさせてたまるか! クラン・クレイターヴは俺たちの都だぞ!」

「たった十年前からですがね。ローザニアの皇女はそうは思っていないでしょう。クレイターヴもローザニアの一領とずっと言い張っているのですから」

「父上がクレイターヴを独立させた」

「皇女は自分のものを取り返したいだけですよ」

「おまえはどっちの味方なんだ!?」

 リュシオンはサラン候の胸倉をつかみ、声を荒げた。

「もちろん、あなたの味方です、リュシオン・ド・クレイターヴ」

 サラン候はリュシオンの手を穏やかな所作で振り払うと言葉をつづけた。

「あなたの父上は、腐りきったローザニア宮廷の豚どもに見切りをつけて、本当の騎士の国を実現した。それは素晴らしいことだと思っています。だからこそ、わたしもサラン候としてクレイターヴに賛同したのです。一方、今のローザニアは、ロゼ・ヒルデガルドの手で豚どもを屠り去って、善政を敷いています。今のローザニアであれば恭順するという手もあるのではないですか」

「恭順? 馬鹿馬鹿しい」

「すでにクレイターヴ城は敵の手の内です。これを奪還するのは困難を極める。兵の犠牲は相当なものになるでしょう。ローザニアが善政を敷くのであれば、民にとってはクレイターヴが治めてもローザニアが治めても変わりはないと言えませんか」

「そうでしょうか」

 アンリが流れるように続くサラン候の言葉に水を差した。

「皇女は聡明な方と聞いています。ローザニアの面子のためだけにこれほど大掛かりな侵攻をしかけてくるとは思えません」

「では、何か別の理由があると?」

「おそらく、財政が逼迫しているのではないでしょうか。クラン・クレイターヴは新たな商業の中心となりつつあります。この税収が目当てなのでは」

「目のつけどころは悪くない。セルシーヴの血というのは侮れませんね」

「クレイターヴが治めてもローザニアが治めても変わりはないと言われましたが、それは違います。ローザニアから見れば、クレイターヴなど地方の一領に過ぎません。サラン候領はともかく、元のクレイターヴ領はローザニア皇帝の直轄地とされることでしょう。そうなれば金の乳を出す牝牛のようなものです。搾り取れるだけ絞り取りにかかるのは目にみえています。」

 ここまで一気に言い切ったアンリは、軽く息を整えて後をつづけた。

「そして、一番の懸念点は皇女ロゼ・ヒルデガルドです。彼女は弟が即位するまでの間の摂政に過ぎません。自ら皇位に就くことは考えていないと聞いています。確かに今現在、皇女は善政を敷いています。しかし、皇太子が即位した後、彼が善政を敷くという保証はどこにありますか。あの腑抜けた皇帝と同じにならないと誰も言えはしないでしょう。そうなった頃には民は重税にあえぎ、もう一度あの独立戦争を繰り返すなどという余力は残っていないでしょう」

「アンリ…」

 たった十四でセルシーヴ候を継いだアンリが、倍以上歳の離れたサラン候を前に堂々と自分の考えを説いている。

 そのことにリュシオンは驚きを隠せなかった。

 アンリの頬は少し上気し赤味がさし、その琥珀色の瞳にはセルシーヴのアンリだけが持つ矜持の色が宿っていた。

「確かに」

 アンリの説にサラン候は短くそう答えた。

「さて、アンリ卿のご高説はここまでにして、あなたの意見をききましょうか、リュシィ」

「なんのためにここまで来たと思っている」

「そう言うと思っていましたよ」

「なら、訊くな!」

「あなたには、いろいろな道があると知っていてもらいたくてね。クレイターヴがどうなるか、あなたがそれを選ぶという意味を知ったうえで、戦うのなら良いのです」

「クレイターヴの行く末を決めるのは兄上だ」

「いま、この時点に限って言えば違います。クレイターヴの行く末の鍵を握っているのは間違いなくあなたですよ。リュシィ」

 サラン候の言葉は真実だ。いまここでリュシオンがクラン・クレイターヴ奪回の兵を挙げるかどうか、そして戦いを勝利に導けるかどうかでクレイターヴの行く末が決まる。

 落ち延びたというジョルジュ王の命運もすべてリュシオンが握っているといっていいのだ。

「違うな、それはおまえだ、サレイ。お前がサランの兵を出さないと言えばそれで終わる。おまえがサラン候領ともどもローザニア帝国に恭順すると言えばどうなる」

「わたしの忠誠心を疑うのですか」

「おまえに忠誠心があったとは初耳だな」

「ありますよ。わたしほど忠誠心に厚い人間はいませんよ。その忠誠心がクレイターヴに向いていないだけです」

「どっちに向いているんだ?」

「自分自身に」

「さぞ、方向音痴な忠誠心だろうよ。で、どうするつもりだ?」

 リュシオンの青い目が鋭い光を伴って、サラン候をにらみつけていた。

 サラン候は、元々クレイターヴ候と同格の騎士候としてローザニア皇帝に仕えていた身だ。クレイターヴ独立戦争にあたり、クレイターヴの同盟者として名乗りをあげ、その盟主の座をクレイターヴ候に譲ったものの、その力はいまだ同格と言って良い。クレイターヴが商業で栄えているのに対して、このサランは穀倉地帯で、豊富な穀物の輸出することで古くから栄えている。

 サレイ・ド・サランも騎士候のひとりであると同時に、一国の王と名乗りを挙げても不思議ではない人物なのだ。

「サラン候は挙兵されますよ」

 アンリは、率直に言った。

「理由は、リュシオン卿がここに来た。それだけで十分のはずです」

 その答えを聞いて、サラン候はくすっと笑みをもらした。暗褐色の髪が一筋顔にかかった。

「どこまで見通しているものやら。だから、『アンリ』は苦手なのです」

「兄のことですか?」

「あなたの兄上も、あなたも」

 サラン候は立ち上がると、地図を取り上げ、リュシオンの前に広げた。そしてその地図の上に、兵に見立てた駒を並べ始めた。

「出兵するのか?」

「アンリ卿の言われた通りです。この三日のうちにあなたがここへ現れたら挙兵するつもりでした。現れなかったら、このサランは騎士候領としての自治を条件にローザニアに恭順するつもりでしたよ」

「何だと」

「本当は、もうひとつ条件があったんですがね。ここにセルシーヴ候を伴ってくること。これは予想が外れてしまいましたが」

「アンリは…」

「新しいアンリ卿がここにいるのですから、言わなくてもわかります。しかし、これはかなりの計算外です。苦しい戦いになるでしょうね。これまでの戦いでも参謀としてのアンリの力は頼りにしていましたから」

「わたしでは兄の代わりになりませんか」

「なりません」

 サラン候の言葉は鋭い刃のようにその場の空気を切り裂いた。

「あなたの兄君は、独立戦争からこの十年の乱戦を生き抜き、クレイターヴを勝利に導いてきた軍師です。今、クレイターヴが必要なのは、あなたではなく、あなたの兄上だったのですよ」

 はっきりと真実を告げられたアンリは、握りこぶしに力を込め、何も言い返せずにいた。

「ここまでリュシィを送ってくれたことには感謝しましょう。けれどあなたはここまでです。セルシーヴへお帰りなさい」

 愚図った子供をなだめるような言葉遣いに、思わず声をあげようとしたときだった。

「それは、無理だな。こいつは俺の盟約者になった」

 リュシオンがそう宣言したのである。

「ここにいる、アンリ・ド・セルシーヴは、リュシオン・ド・クレイターヴの盟約者だ。よって、クラン・クレイターヴ奪還の戦いにも参戦する。そうだな、アンリ」

 アンリは言葉に詰まった。まだリュシオンとは盟約関係にはないはずだ。しかしここで返事をしないと、サラン候の言葉通り、セルシーヴへ戻るしか選択肢がなくなる。

「はい、わたしは盟約者であるリュシオン卿とともに参ります」

 その返事をしたとき、自分の隣にいたリュシオンの姿がわずかに滲んだように見えた。


「アンリ…」

 自分の名を呼んでいるは、自分自身だった。その声は落ち着いた大人の女性のものだった。なぜか喜びと深い哀しみの両方を澄んだ泉のようにたたえた声だった。

「エゼル」

 自分のことをそう呼んだのは、リュシオンだった。いや、リュシオンのように見えるがリュシオンではない。この時代に生きた男なのだろう。

「アンリ、わたしのすべてを受け入れて、盟約者となりますか?」

「セルシーヴのエゼル、おまえがそう望むのなら、俺はすべてを受け入れよう」

 エゼルと呼ばれた自分が取り出したのは銀緑色の鍵だった。エゼルの中にいるアンリにはそれが何なのか感覚でわかった。

 セルシーヴの静寂の塔の鍵だ。それは象徴的なものに思えた。

「緑の剣もて、世界を治めし、遠き我がセルシーヴの祖の魂よ。その叡智と光と盟約の鍵を」

 エゼルがアンリにその鍵を手渡すと、それはアンリの掌に溶け込むように姿を消した。

「セルシーヴとしてのおまえを支えられるなら、俺はおまえのそばにいよう」

「あなたの息子として生まれてくるアンリは、わたしの記憶をすべて受け継ぐことになります。それはたやすいことではありません」

 エゼルの瞳から一筋涙がこぼれた。透き通った水晶のような涙だった。

「俺は盟約者としてその務めを果たす。おまえがその記憶をつなぐことができるよう、何があってもおまえを護りとおそう」

 その言葉を聞いたエゼルの心の中から声のない悲鳴があがるのが聞こえた。彼女は自分を護ってほしいわけではなかった。それよりも自分の盟約者となるこの若者を自分が護りたかった。

 それなのに、セルシーヴの記憶を護るために、自分を護るために彼は命を懸けてしまうだろう。その未来を知って尚、彼に盟約を求める自分が恨めしい。

 それでも、セルシーヴとしての自分の命の火は消えかけている。今、たとえ人の身となろうとも、次代に引き継がなくては。

「これから、幾千のアンリにこの記憶と苦しみを継がせてしまうのですね」

 人の身に精霊の持つ大地の記憶は重すぎる。ましてや、これから記憶を継いで積み重ねられるアンリたちの記憶も伴うのだ。それはひとりの人が背負うものとしては重すぎる。

 おそらく、アンリたちはこの記憶の重さに苦しめられ、永く命の火を保つことはできない。

 そう思ったとき、アンリが今宿っているエゼルの体が人ではないことに気が付いた。

 セルシーヴ。それは大地と森そのものを表す古い言葉だった。エゼルはこのセルシーヴの大地で、森で、風であった。すべての記憶を宿すもの。かつて世界を造り、世界を治めていた始祖の魂を継ぐもの。

 その記憶を人の身に移そうとしていた。

 エゼルとアンリの息子として生を受けるであろうアンリに。

 初代のアンリこそが、セルシーヴの盟約者だったのだ。

 

「リュシィ、まったく。確信犯ですね、あなたは」

 サラン候の呆れかえった声で、アンリはこちらの世界へ引き戻された。

 心はまだエゼルの深い想いが杭のように残っており、リュシオンの姿を見ると喉の奥が詰まるように感じられた。

 でも、彼はリュシオンで、エゼルの同盟者であったアンリではない。

 そう頭の中で繰り返すように唱えた。

「何とでも言え、ここまできて、こいつをセルシーヴへなんか帰せるか。それにこいつはきっと役に立つ」

「『アンリ』と同じように?」

「『アンリ』と同じようにだ」

「わかって言っているんでしょうね?」

 サラン候は試すようにリュシオンに尋ねた。

「わかって言っている。それでもこいつを連れていく」

 リュシオンの決意は固かった。


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