第6話 アンリ・セロン
肩が燃えるように熱かった。
テルフェンからの追手は考えていたよりもずっと素早く、自分たちが国境を抜けたことに勘付いたようだった。
遠矢の名手がいたようで、闇の中でもアンリの肩を背中から射ぬいた。身軽い伝令兵に見せかけるため甲冑を着ていなかったことも災いして、左の肩の関節に矢羽が突き立っている。
しかし、痛みに気を取られているわけにはいかなかった。なんとか森の中に逃げ込むことはできたが、周りには追手の気配が色濃く感じられる。
それとは、逆に自分の意識は遠く感じられるのだった。
『ほら、また会えただろう?』
『アンリ・セロン?』
『そう』
森の中を馬に乗って走っているのは同じだが、追手の殺気の質はまったく違う。
『そりゃぼくたちを追っているのは、単なる賭場の用心棒たちだからね。正規軍に追われているきみたちとは違うよ』
『賭場?』
「なにひとりでぶつぶつ言っているんだ」
先ほど抜け道を教えてくれた若者だった。そう、本当に感謝すべきなのはこの人かもしれなかった。
「きみのせいで、こんな森の中で迷うはめになったなあってね。ぼやいてたんだ」
「あいつらが勝手に怒って、おっかけてきただけじゃないか」
「負けないことと、勝ちすぎないことが信条じゃなかったっけ? ジョゼ」
「勝ちすぎ? あれでか? たかだか金貨三十枚分くらいじゃないか」
「それ、あの店の一年のあがりくらいだよ」
「しけた賭場だったからな」
「そのしけた賭場を潰すまで勝ち続けた人は誰さ?」
「うるさい! あぁ、なんだってこんな減らず口と一緒に旅なんざしなくちゃならないんだ」
「ぼくが減らず口なのは吟遊詩人だからでしょ。そしてきみがぼくと一緒に旅をしなくちゃいけないのは、きみがぼくの奥さんだからでしょ」
『え! 奥さんなんですか? あの人?』
『そう、ジョゼフィーネ。ぼくの奥さんで、ぼくの盟約者。ついでに凄腕の博打打ち』
確かに細身の若者だとは思ったが、言葉使いや振る舞いは女には見えなかった。しかしよく見ると、確かに繊細な顔立ちをしている。
「あんな、だまし討ちみたいな真似!」
「賭けに負けたのはジョゼでしょ。負けたらぼくと結婚してやるって言ったのもジョゼでしょ。離婚したかったらぼくに勝ってよね」
『ちょっと待ってください。もしかして賭け事はあなたのほうが強いんですか?』
『まあね。ご先祖さまに相当博打に強いアンリがいたみたいで』
アンリはその言葉に気が遠くなりそうだった。アンリ・セロンの妻が博打打ちだというだけでも驚きなのに、さらに上をいく博打うちのアンリがいたというのだ。
「だから、ジョゼはぼくとは離婚できないと思うな」
「ばかやろう、いつかおまえと離婚してやる!」
「それより、今は逃げることを考えない?」
その言葉で、ジョゼフィーネは、ようやく追われていることを思い出したようだった。
『ぼくたちが、目印に柏葉を描いた石を木の根元に置いていくよ』
アンリ・セロンの手元にあるのは白い染料で五つの柏葉が描いてある小さな黒い石だった。
『ぼくは吟遊詩人でいろんな場所を旅してる。道に迷いそうになったらこの石を目印に置いているんだ。きっときみの役にたつと思うよ』
『あなたは、セルシーヴへ戻らないんですか?』
『今はね。ジョゼと旅をしてるほうが楽しいから。でも、いつか帰るよ』
『いつか?』
『だって、きみが生まれているでしょ。ぼくはきみのずっとおじいちゃんで、ジョゼはずっとおばあちゃんだよ』
「聞こえてるぞ、誰がばばあだって!」
「変なとこばっかり地獄耳なんだから」
「当たり前だ。耳が悪くて博打ができるか。賽の目が聞き分けられんだろうが」
賽の目を耳で聞き分けるのかと感心していると、アンリ・セロンが念を押すように言った。
『黒い石に白い柏葉だからね』
その声を聞き届けてから、目を覚ました。
どうやら馬に跨ったまま、一瞬気を失っていたらしい。肩の痛みはまだ火が付いたように熱い。
「おい、大丈夫か?」
リュシオンが心配してかけてくれた声も、どこか遠く感じる。
「黒い石に白い柏葉…」
かすかに口の中でそうつぶやくと、また意識が遠くなった。
うつ伏せに眠っていた首筋に冷たい滴を感じて、それで目が覚めた。
滴の冷たさに思わず身をよじると、左肩の裏側に激痛が走った。
「急には動くなよ。鏃を抜いたばかりだ」
アンリは返事をしたかったが、あまりの痛さに涙をこらえるのに必死で、声がでなかった。
ローザニア兵の遠矢に射ぬかれた傷は肩の裏側で、自分では抜くことができなかった。そのため、矢が突き立ったまま走りぬくしかなかった。矢が刺さったまま動きまわると、鏃は肉を喰(は)んで深くくいこむことになる。リュシオンはアンリから鏃を抜くために、肩の肉を切り開くしかなった。
「傷口を縫えれば良かったんだが、生憎と道具がなくてな。灼いて血を止めた。しばらくは服を着るのも辛いだろうが、辛坊してくれ」
「はい…」
なんとか、消え入りそうな声でそう答えると、喉がひりつくほど乾いているのに気が付いた。
「水を…」
「ちょっと待て」
そういうとリュシオンは姿を消した。
できるだけ傷に響かないように、体を少しだけ横に向けると、ようやく周りの様子が目に入った。
どこかの岩場の洞穴のようだった。リュシオンがおこしたのだろう、小さな焚火がちろちろと朱い炎を上げている。明りはそれだけで、寝かされた場所からは洞穴の入り口も見えなかったので、昼なのか夜なのかはわからなかった。あれからどれだけの時間がたったのかもはっきりとしなかった。
じくじと重くのしかかる傷の痛みに、またうとうとしていると、頬に革袋が押し当てられたのがわかった。傷口から熱が出ているのだろう。ひんやりとした革袋の感触が心地良かった。
「眠る前に水分を捕っておいたほうがいい」
どうやら自分のために水を汲みに行ってくれたようだった。そのリュシオンの心遣いが嬉しかった。
かけられた言葉通りに水を飲もうと身を起こすと、背にかけられていたマントが膝元にずり落ちた。傷の手当のためだろう、上半身の服は脱がされ、素肌に包帯が巻かれている。
リュシオンはアンリを見ないように背を向けて革袋を差し出した。
どうして自分から目をそらすのか不思議に思いながら、革袋を受け取ると、傷の痛みに顔をしかめながら、ゆっくりと水を口にした。
水を口にして初めて、どれだけ自分が乾いていたのかがわかった。テルフェンの宿屋を抜け出してから無我夢中で駆け通しだった。乾ききっていても不思議ではない。
「悪かったな」
リュシオンが背を向けたまま、歯切れの悪い言葉を口にした。
「何のことでしょうか?」
「傷、残っちまう」
「そんなこと気になさらないでください。それよりも、手当してくださってありがとうございました」
「女の体にそんな傷痕が残るなんて。俺のほうが嫌なんだよ」
「はい?」
アンリは思わず素っ頓狂な声で返事をしてしまった。リュシオンの言葉の意味が咄嗟に理解できなかったのだ。
女というのが誰のことを指しているのか。
リュシオンはアンリの膝元に落ちているマントを拾い上げると、傷口を気付かいながらそっとアンリをくるみ、素肌が隠れるようにした。さらに自分のマントも脱いで二重になるようにアンリの背にかけた。
「どうして黙っていた」
「何をでしょうか?」
リュシオンは少し苛ついたように、アンリに聞き返した。
「だから、女だってことだよ。どうして隠していた」
「誰が、女なんですか?」
「おまえがだ!」
とうとう爆発してしまったリュシオンを横目に、今度はアンリのほうが呆然としてしまった。
「ちょっと待て。おまえ自分が女だとわかっていないんじゃないだろうな」
アンリはリュシオンの言葉に混乱して、どう答えていいのかわからなかった。
女の人というのは、やわらかくてふんわりしているものだ。自分にはそんなところはどこにもない。
「確かにまだ胸は膨らんじゃいないがな。間違えるもんか」
リュシオンはわざとぶっきらぼうにそう言うと、アンリの頭を軽く叩いた。
「もしかして、男だと言われて育ったのか?」
「というより、男だと思っていました。わたしは小(プティ)アンリとして育ちましたから」
アンリは、混乱していてまだうまく自分の状況がつかめないまま、言葉を口にした。
「そうだな、女のアンリなんて聞いたことがないからな」
リュシオンは困ったように言葉を選びながら、話をつづけた。
「誰も何も教えてくれなかったのか? 周りの子供たちを見て、何か変だと思わなかったのか?」
「周り? いいえ、わたしは兄が亡くなるまでセルシーヴの静寂の塔で暮らしていたので。父と兄、それに世話をしてくれた老爺にしか会ったことがありません」
それは、小(プティ)アンリとして生を受けたものに科せられた宿命だった。乳離れが済むと母親から引き離され、静寂の塔から出ることはかなわない。
アンリの名を継ぐまで、もしくは別の小(プティ)アンリが生まれアンリの宿命から逃れるまで静寂の塔から出ることは許されない。
アンリもアンリの兄も、歴代のアンリの名を継いだ者たちも皆、静寂の塔で幼いときを過ごしてきた。
「誰も、何も、教えてはくれなかったということか…」
リュシオンは溜息をつくと、古い封筒を差し出した。
それは、アンリがずっと懐深くしまい込んでいた封筒だった。死の間際に兄が手渡しくれたもの。両親が自分のために記してくれたはずのもの。
生涯、封を切ることはないだろうと思っていた。
アンリはゆっくりと丁寧に封を切り、二つに畳まれた紙片を取り出した。
『わたしたちの娘、ソレイユに幸多からんことを』
ソレイユ、それは太陽という意味だった。女児につける名としては決して珍しいものではないが、響きのやわらかな良い名だった。
この太くて無骨な文字は父のものだ。どんな思いで自分にこの名を残してくれたのだろう。そして女ながらに小(プティ)アンリとして育てなくてはならないことをどう感じていたのだろう。
そして、兄が死の間際で自分に謝った理由が少しわかった気がした。女であることを知っていながら、自分に告げることなく逝かなくてはならなかった。それを詫びてくれたのだ。
アンリは呆然として、自分の名が記された紙を握りしめたまま動けなくなっていた。
これまでの自分が信じてきたものが、古ぼけてしまった紙に記された、たった一言で一変してしまったのだ。
「ソレイユ」
口に出して自分の名を言ってみる。しかしそれは少しも馴染みのない響きで、自分の名とは思えなかった。
「ソレイユ。それがおまえの名か?」
リュシオンが繰り返すように口にした。
「いいえ、わたしの名はアンリ・ド・セルシーヴです」
そう、その名のほうがずっとふさわしい。そう素直に感じられた。ソレイユはあくまでもアンリを継がなかったとき、名乗るための名だ。そして自分はアンリを継いだ。ソレイユという名は二度と使われることがないのだ。
「アンリ・ソレイユ」
リュシオンにそう呼ばれて、首を振った。自分はアンリだ。
「アンリ・ソレイユ。それでいいじゃないか。人前ではアンリと名乗ればいい。自分にだけは自分の名を許しておけ」
その言葉のひとつひとつが、自分の胸の中に染みるように流れ込んできた。いつの間にかアンリの瞳からは透明な涙が流れて止まらなくなっていた。
「アンリ・ソレイユ、か。俺も知っちまったけどな」
知ったとしてもリュシオンはそれを人前で口にするような男ではあるまい。どこからその信頼感が来るのかはわからなかったが、アンリはそのことを疑わなかった。
リュシオンはアンリの傍らに腰を下ろすと、マントにくるまれたままのアンリを抱き寄せた。まるであやすようにアンリの栗色の頭を軽く叩くと、唇を寄せてもう一度名前を呼んでくれた。
「アンリ・ソレイユ」
アンリは涙が止まらないまま、リュシオンの腕の中で眠りに落ちた。
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