その罪を許す者は ★おすすめ
区隅 憲(クズミケン)
その罪を許す者は
そこは暗闇の牢獄であった。昼も夜もわからない。男はただじっと身をかがめて凍てつく寒さに耐えていた。わずかに開く格子窓からそっと雪が男に降り掛かってくる。男は終身の刑を受けていた。
足音が男の耳に入ってくる。食事を運ぶ看守の足音だ。看守はひどく無口であった。男に語りかけることもなく、ただ残飯を牢獄の床下の穴から差し入れる。食するまでそれが何か男にはわからない。ただ今日はひどく不味かった。一口でそれを食べ終えると、男は乱暴に食器を床に音を立てて置く。それが看守にとっての片付けの合図だった。看守は牢獄の穴に腕を入れる。男はその腕を取った。
「おい」
男は看守に怒声を秘めた呼びかけをする。その手には力が込み上がってくる。看守の腕には男の五指が食い込まれる。看守の手は凍結したように動きを止める。血流が止まっているかのような冷ややかな感触が伝わってきた。男はそのまま言葉を続けた。
「お前は何故、俺がここにいるのか知っているのか?」
凍りついた狭い牢獄に男の静やかな声が反響する。男の
「俺は人を殺した。それも小さな小さな娘をだ。その娘を冬の川に放り投げてやったんだ」
男はまた力を込めた。看守の血流を止めるほどに力を込めた。けれども看守はピクリとも動かない。締め付けられた腕を解こうともしなかった。暗闇の中、看守の腕には焼印のように青い五指の痣が広がっていく。男は残虐な笑みを浮かべながら話を続けた。
「その娘はな、俺の実の娘だったんだ。村で飢饉が起こってな。村の連中も女房も死んじまったんだ。それで残ったのは俺と娘だけだった。けど食い物なんてねえから結局二人ともお陀仏になると思ったんだよ。だから娘を殺したんだ。そしたらよぉ、役人の奴らが今更食料持って駆けつけてきやがったんだ。結局事情を話したら俺は牢屋にぶち込まれちまったってわけだよ」
男はへっへっへと下卑た笑いを浮かべる。その声には温かさなどまるでない。上辺だけの薄氷のような感情だけがあった。男は相変わらず看取の腕を握り締め続けている。それはこの場から逃さないようにという男の浅はかな思慮からだった。男は乾いた声で話し続ける。
「俺はよぉ、長いことここにいるんだ。ずっとずっと冬の冷たさが身に染み続けているんだ。悪夢を見るんだよ、俺は。ずっとずっと殺した娘から『お父さん、どうして。お父さん、何で』って責められ続ける夢を見るんだ。俺はよぉ、あの日からずっとずっと罪人のままなんだ。だから俺はずっとずっとここにいなくちゃならないんだ」
男は繰り言のように悔恨を述べる。それはまるで虚ろな屍が喋っているようだった。男の手は冬の冷気で
「それでお前は、何が言いたいんだ?」
看守が低く静やかな声で男に尋ねた。看守の腕は腫れ上がり、青と赤の痣が入り混じっていた。それは男には見えない。けれどその腕からはひどく熱を帯びた体温が感じられていた。男はそっと頭を上げ、扉越しの看守に問いかける。
「お前は罪を犯したことがあるか?」
「私は罪を犯したことなどない」
「ならお前は殺したいほど憎んでいる相手はいるか?」
「いない。私はただの牢番だ」
二つの声が乾いた空気に交差した。看守は腕を掴まれたまま男の五指がわずかに緩むのを感じた。けれど看守はその腕を引き込めることもしなかった。男の指先には脈動する腕の熱が仄かに伝わり続けていた。
「なら、俺の娘は俺を憎んでいると思うか?」
その問いに、刹那吹雪の音が止む。男の手は震えていた。看守の腕を握る手は弱々しいものとなった。男は涙を流す。あっけないほどに薄氷の上の表情が砕かれた。
「わからん。私はお前の問いに答えることができない」
看守は冷たく男の問いを突き放す。けれど男にはもはや言葉を止めることができなかった。流水のように男から言葉が溢れ出す。男はいつの間にか今度は看守の手を握っていた。
「俺は、どうしようもない父親だった。いつもいつも家族に貧しい思いをさせて、満足に飯を食べさせてやることなんてできなかった。俺は、ずっと悔やんでいる。娘をこの手で殺したことを、悔やんでいる。本当はそんなことをしたくなかった。けど、だんだん娘の顔がやせ衰えていくのを見るのが耐えられなかった。俺は、どうしようもないバカだった。本当は、娘と一緒に居たかった」
男は告解を続けていた。看守の手を握る掌が強く震えていた。男の指には汗が滲み血流が走り出す。男の甲には温かな涙が伝っていた。
「俺は、本当は守りたかった。女房も、娘も。ずっとずっと守ってやりたかった。ずっと平穏に暮らしたかった。けど、俺にはそんな力だなんて全然なくて、いつもいつも苦労ばっかりかけて。家族とずっと一緒に居たかった。俺には、家族しかいなかった」
なのに、なのに・・・・・・
男の声はかすれ、嗚咽となって消えていく。懺悔しきれない言葉の念の数々が雪の中へと消えていく。男の肌は涙で濡れていた。それは男の身躯に久方ぶりの体温を宿し始める。
「俺は、もし俺が、あの日娘を殺した日に戻れるなら、絶対に娘を離したりなんかしない! 俺は、俺は、ずっと娘と一緒にいた! 貧しくてもずっと娘と暮らしていた! 俺は娘に謝りたい。娘を手放してしまったことを謝りたい! 俺はもう一度娘に会いたい!」
吹雪の轟音をかき消す程に男は声を剥き出しにして泣いた。それは男の後悔であり、願いだった。二度と取り戻せはしないと、男が無間に繰り返した切望と諦めであった。男は看守の手を強く握る。その男の掌はただひたすらに熱く、けれど寂れた感覚を与えるものであった。
「けど、そんな俺のことを娘が許すはずがない! 俺は娘を愛しているのに、自分の無力さのせいで捨ててしまった。俺は、やり直したい! けど、娘がそんなことを認めるはずがない! 俺は永遠に罪人だ! 娘から永遠に憎まれなければならない罪人だ! 俺は、俺の罪は、永遠に許されることなんてないんだッ!」
「お前は今でも娘を愛しているのか?」
男の絶叫に、突然看守が静止するように問いかけた。それはまるで水面に落ちるひとしずくのように男に響いた。男はハッとなって涙を止める。男は見えない視界のまま顔を上げ、扉の向こうにいるはずの看守に目を向けた。
「私はな、拾い子なんだ。それも奴隷として拾われた。毎日働かされ、鞭で打たれ、ロクな食事も取らされなかった。毎日機械のように働かされ、誰からもゴミを見るような目で見られ、誰からも人として扱われなかった。私はな、ずっと孤独だったんだ。親の顔も知らないし、家族がいたかもわからない。けどな、私はずっとそうした存在に憧れていたんだ」
看守は男の手を握り返す、それは仄かに柔らかく繊細さを合わせ持っていた。小さな小さな手、それは幼き子供を連想させた。男はついぞそんな感覚を覚えていたことなど気づいてすらいなかった。
「私はな、捨てられた身だから、きっと捨てた人間から愛されてなどいないと考えて生きてきたんだ。だからな、私はずっと憧れるだけで、それを求めたりはしなかったんだ。けどな、ずっとずっとその憧れが頭の中から離れずにいるんだ。生きてきた中で、一瞬でも忘れることができなかった。私はな、知らないはずなのに、それがどれだけかけがえのないものか知っている気がするんだ」
男の手はわなわなと震えだす。それは雪の寒さのためではなかった。男は予感をしていた。それは自らが閉ざし、許されざる感情として秘めたものだった。男は跡切れ跡切れに荒く白い息を吐く。男は自らの感情を抑え込もうとしていた。
けれど
「お前は・・・・・・どこで拾われたんだ?」
男はその言葉を抑えることができなかった。それがどれだけ罪人たる己に不相応なものか男には十分に自覚されていた。けれど男の心臓の脈動はどんどんと速くなっていく。期待と不安の鼓動音が止まらなかった。
もしも、もしもそうであるならば・・・・・・
男は祈るようにその予感を繰り返していた。
「私はーー」
ーー冬の川で拾われたんだーー
刹那、男の目には涙が溢れ出す。顔を思わず握っている手に埋めたくなる。けれど男はその衝動をこらえていた。
男は罪人であった。自らを戒めなければならない咎人であった。こんな行為が許されるはずもない。男の手は震えながらためらっていた。握り返された手をそれ以上強く握り返すことができなかった。けれど男の手を握る柔らかな手は、いつの間にか男の手を優しくさすっていた。
「私はな、私を捨てた人物のことを憎んだこともあった。どうして私のことを捨ててしまったんだろうと。夜になると何度も疑問に思ったりもした。けどな、それ以上に私はその人に会いたかった。もし私を愛してくれていたのなら、もう一度私を愛して欲しい。いつもそう、願っていたんだ」
その声は柔らかく暖かだった。男を閉ざす牢獄に陽光が差し込むように温度が宿る。男の目からは涙が止まらなかった。ボタボタとその温かな雫が雪に落ちて溶かし出す。男は震えながら、ためらいながら、男の手をさするその小さな手に自らの手を重ねる。
ーーもしも、もしも、この罪が許されるなら、
この手に触れることが許されるならーー
男は重ねた手でその柔らかな手を撫でた。小さな手ははたと動きを止め、その愛撫を受け止める。忘れ去られていた慈しみの感触。そして取り戻したかった懐かしい感触。かさついた手は何度も何度も繊細な皮膚の上を往復していた。
やがてフッと小さな手は引っ込められる。男は驚き、心臓が締め付けられたような感覚になる。再び悔恨の念がよぎる。けれど次の瞬間カチャリ、という音が鳴った。次いでギイイと引きずるような音がする。そして牢には光が差し込まれた。
その光の向こうにはーー
成長した娘が、涙を流して微笑んでいた。
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