莉奈の想い――新歓大会以前 前編

 あの時、私は逃げ出したいと思っていた。

 

 栗原君は例えるなら、獲物を狩るという行為そのものに喜びを感じている獣だ。私が打ち返せないと分かっていて、それでいてとても楽しそうに私目掛けて強烈なショットを打ってくる。

 サイコパスってこういう人のことを言うんだ、って思い知らされた。


 すごく怖かった。

 

 すごく痛かった。

 

 泣き出したいくらい辛かった。


 でも、出来なかった。だって、悠斗先輩が応援してくれてたから。

 

 勝てなくてもいい。1点だけでいいから栗原君から点を取って、悠斗先輩に褒めてもらいたい。

 

 どれだけ痛い目に遭うとしても、最後に悠斗先輩に頭を撫でて褒めてもらえるなら頑張れる。そう考えてしまうくらい私は悠斗先輩のことが好きになっていた。


***


 入学式の日、式の後に様々な資料が配布され、その中に大学公認サークル一覧という冊子があった。

 

 家に帰ってからその冊子を開くと、最初にテニスサークルが目に入った。


 大学に入ったらこれまでやったことのないスポーツをやってみたい。

 そう考えていて、そしてテニスはやったことがなかった。だから私はテニスサークルに入ることにした。


 そんなすぐにテニスサークルに入ると決める必要はなかった。でも、テニスには興味があったし、他のスポーツにしてもテニスと同じでやったことがないか、中学高校の体育で少しやったことがあるくらいで、どれも一からやることになるから大差ない。なら興味のあるテニスでいいや、って思ってそう決めたのだ。


 サークルに入って初めてテニスコートに行った時、先輩たちは楽しそうにテニスをやっていた。それを見て、早く先輩たちみたいに楽しくラリーが出来るようになりたい、って思った。

 

 この日は私の他に4人、サークルに入った1年生がいて、私を含めて3人がテニス未経験者で、私たちに付いて色々説明してくれた女の先輩が早速テニスの基礎を教えてくれることになった。

 

 先輩からラケットを借りて、初めてテニスのラケットを持ってみたけど、思ったより軽かった。


「テニスのラケットって案外軽いんですね」


 これまでずっとバレエをやってきて、腕の筋肉を鍛えてはいたけど、それは腕をしなやかに動かせるようにするための筋肉で、重いものを持てるようにするための筋肉じゃなかった。だからもしラケットが重くてまともに振れなかったらどうしようと私は心配していたのだ。


「ものにもよるけど、基本的には軽いよ~。ラケットが重かったらすぐに腕が疲れてラリーを続けられなくなっちゃうからね」

「私あんまり力強くないから、重くて振れなかったらどうしようって不安だったんです」

「あはは、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。あ、でも強いショットを打ち返す時にはちょっと力がないときついかな。まぁ競技としてじゃなくてサークルで友達と楽しんでやるくらいだったら、そうそうそんなショット来ないから安心して」


 一度打ってみたら? と言われてボールを渡されたから、試しに打ってみると、そんなに力を入れなくても反対側のコートまでボールは飛んでいった。


 良かった。これなら私でもテニス出来そう!


 まだラリーをした訳でもなければ、ろくにボールを打ってもいないのに、私はすっかりテニスに夢中になっていた。

 この日はラケットの持ち方や構え方を教わったところで活動終了時刻を迎えた。


 



 次の日も講義の後にテニスコートに行って、昨日もいた1年生の女の子2人と一緒に空いていた先輩にお願いして教えてもらえることになった。

 まずは昨日教わったことを復習し、続いて他の2人と代わる代わる先輩に球出ししてもらって実際にボールを打ってみた。


 最初はみんな空振りばっかで、やばーい、とか言って笑い合っていたけど、徐々に慣れてきて面にボールが当たるようになって、最後にはボールを反対側のコートに打ち返せるようになっていた。


 私はいつまで経っても空振りばかりで、たまにボールを捉えることができた時も、明後日の方向に飛んでいくのみだった。


 他の子はテニス以外のラケットスポーツは多少やったことがあるって言ってたけど、私は全くないから仕方ない。そう自分に言い聞かせて逸る気持ちを落ち着かせた。


 でも、一向に良くなる気配は訪れなかった。


 毎回行く度に教えてくれる先輩が変わって、教え方も変わったけど、ほとんど効果がなかった。マイラケットを買ってからは家の中で素振りをするようにして、フォームはより綺麗になったけど、ボールを打てるようにはならなかった。

 

 全く上手くならない私を尻目に他の1年生はどんどん上手くなっていく。


 私を指導してくれた先輩たちはみんな困ったような表情をして、次第に私を指導することを頼まれて嫌がる人も出るようになった。


 最初は楽しく感じてたテニスが段々楽しくなくなってきて、むしろ辛くなってきた。


 もうこのサークルやめようかな。

 そう考え始めた矢先にあの人が現れた。


「初めまして。俺は浅田悠斗っていうんだけど、君は?」


 悠斗先輩は優しそうな笑みを浮かべて自己紹介をしてくれた。なんとなくこの人は丁寧に教えてくれそうだな、と思った。


 けれど、悠斗先輩もこれまでの先輩たちと同じように初めて私のプレーを見た時は苦笑して、私へのアドバイスに困っていた。


 あぁ、この人にも見捨てられるのかな……。

 そう思って私は落胆した。


 でも、悠斗先輩は私を見捨てたりしなかった。

 

 龍平先輩が撮った動画を細かいところまでしっかりと見て、そこから分かったことをその動画を見せながら身振りも使って丁寧に説明してくれた。

 

 それまでにも優しく丁寧に教えてくれる先輩は何人もいた。だけど悠斗先輩はその中のどの先輩よりも丁寧に、親身になって教えてくれた。


 私が来ている時はほぼ毎回私の指導に来てくれて、自分の練習をしている時も私を気にかけてくれた。LINEで動画を送ったらアドバイスをくれた。

 そして何よりも、なかなかプレーが良くならなくても諦めずに私を信じて応援、指導し続けてくれて、少しでも良くなったら褒めてくれた。


 それがすごい嬉しくて、それに応えたくて私はより一層頑張った。

 気づけば練習を頑張る目的が、早くラリーが出来るようになりたいからじゃなくて悠斗先輩に褒められたいからに変わっていた。


 



 新歓大会に出ると決めてからの約1週間は、空いた時間のほぼすべてをテニスの練習に費やした。その結果、ついに先輩に出してもらったボールは打てるようになった。


「やったー‼」

 

 私はつい大きな声ではしゃいでしまった。

 前日までは成功率が50%くらいで、この日は新歓大会前最後の練習日だったから、なんとか間に合ってほっとしたのと、上手くできるようになったところを最初に悠斗先輩に見てもらえたことが嬉しかった。


 悠斗先輩はとびきり柔らかい笑顔で「よく頑張ったね。おめでとう」と言って私の頭を撫でてくれた。

 

 まさか頭をポンポンされるとは思ってもいなかったから驚いたけど、ものすごく幸せな気分になった。

 そして、私の心の中に芽生えた、いや、とっくに芽生えていたある気持ちに気づいてしまった。


 私は悠斗先輩のこの笑顔が好き。私を優しく見守って、褒めてくれた悠斗先輩が好きなんだ。


 そしたら顔が熱くなってきて、悠斗先輩にその顔を見られたくなくて私は喉が渇いたと噓をついてその場から逃げた。

 

 どうしよう。これから悠斗先輩に会う度に毎回こんな感じで顔が熱くなっちゃうのかな? 悠斗先輩に今までみたいに接すること出来るかな?

 

 誰かを好きになるなんて初めてでどうしたらいいか分からなかった。

 でも、この時一つ決めたことがあった。

 

 新歓大会で1回でも多く勝って、悠斗先輩に恩返しをしよう。


 それでたくさん褒めてもらえたら嬉しいな。そのためにも早く練習に戻ろう。

 そう思って私は先輩たちのところへ戻った。

 戻った時、顔から熱は引いていたけど、胸の高鳴りは止まりそうになかった。





 






 


 


 

 


 


 


 


 

  


 

 


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