第五章

第五章

ある日、アリスは午前中にわかいお母さんの相談に乗る仕事をして、その帰りに、ぱくちゃんのラーメン店である、いしゅめいるラーメンに立ち寄った。ぱくちゃんに案内されて座席に座ると、隣の席に、小久保さんがいて、黄色いさぬきうどんのようなラーメンを食べていた。

「あら、小久保さん。こんなところで食事なんて珍しいですね。一体どうしたんですか?」

と、アリスが言うと、

「いえいえ、時々こちらには来させてもらっています。ラーメンと言っても、意外に食べ応えがありますからね。ここは。」

と、小久保さんは答えた。

「そうなんですか。弁護士の先生が、ラーメンを食べるというというか、なんか意外ね。」

アリスがそういうと、ぱくちゃんが、オーダーが決まったら言ってねと言って、彼女に水と箸を渡した。アリスが、チャーシュー麺を注文すると、ぱくちゃんは、、はいわかりましたと言って、厨房に戻っていった。

「ねえ小久保さん。今日は誰かのことみてるの?」

アリスがまた聞くと、

「まあ、そういうことでしょうかね。」

と、苦々しそうに小久保さんは言った。ちょうどこの時、店に置かれていたテレビが、それまで放送していた子供むけのアニメ番組を終了し、お昼のニュースを放送するようになった。

「今日は、お昼のニュースです。まず初めに、先日起きた、乳児殺害事件の続報です。今月四日、静岡県富士市で、生まれて数か月の乳児が殺害された事件で、逮捕された母親、久保山知世被告が、重度の育児ノイローゼ状態であった事が、関係者への取材で分かりました。この事件は、久保山知世が、有名な女優だったことから、虚偽の報道も一部で見られますが、当局では、そのようなことは一切しておりません。」

アナウンサーが、疲れた顔でそんな事を言っているのが聞こえてきた。

「やれやれ、マスコミっていうのは、早すぎるものですね。さっき取材に来たと思ったら、もう報道しているんだから。」

と、小久保さんがラーメンを食べながら、そんな事を言いだした。

「え?小久保さんが、この事件の関係者なんですか?」

アリスが、急いでそう聞くと、

「ええ。彼女、久保山知世の弁護を引き受けております。彼女のご両親の依頼でお願いされて、引き受けることにしました。なんでも、被害者家族にもなり、加害者家族にもなり、非常に複雑な気持ちだというのですが、確かにそうなってしまいますよね。娘に孫を殺されたんですからね。」

小久保さんはそう答えた。

「なんだかかわいそうというか、ひどすぎる事件ね。」

アリスは、大きなため息をついた。

「それに、あたしは詳しく知らないけど、久保山知世と言えば、映画に何本も出ている、絶世の美女と言われている人よね。そんな人が、子供を殺すなんて。」

「そうですね。其れは言えてます。」

小久保さんも言った。久保山知世という人は、映画のパンフレットなどで、顔を見たことが在る。理想的な美しさと言われた人だ。

「そうかあ。そんな美女も、子育てということはできなかったんだね。顔さえよければなんでもありだっていうひといるけど、けっしてそういうことはないよね。むしろ逆に、そういう立派な人過ぎて、逆に普通に生きることは、難しいのかなあ。」

と、ぱくちゃんは、アリスにチャーシュー麺を渡しながら、そういった。

「そうかもしれないですね。まあ、彼女の話を聞きに何回か、彼女と会いましたが、ほんとに、自分の事ばっかりで、息子さんの事は何も話してくれないんです。そんなんですもの、弁護する人間も、つらいものがありますよ。まったくね。」

小久保さんもぱくちゃんに相槌を打つように言った。

「小久保さん伝票ね。へたくそな字で申し訳ない。やっとひらがなをどうにかして書けるようになった。あーあ、まったく、日本語ってのは、表記するのが難しいな。」

ぱくちゃんは、小久保さんに一枚の紙きれを渡した。アリスが見てみると、へたくそな字で、やさいらあめん、980円と書いてあった。

「偉いじゃないぱくちゃん。一生懸命字を書く練習してるんだ。こないだは、まるでミミズが踊っているような文字だったけど今日はちゃんと読めるわよ。」

アリスは、先輩格としてそうぱくちゃんをほめると、小久保さんが、

「そうなんですねえ。一生懸命練習したのをほめる人がいてくれたら、事件は起こらなかったかもしれないなと、彼女は言っていました。せめて誰かが自分の事をほめてくれたらって。まあそれが起きるのは、ずっと後になるのが子育てなんですけど。」

と、しんみりといった。

「まあ確かに、日本では、なかなかほめるということは苦手なようね。」

アリスはため息をついて、ラーメンを口にした。

「あたしたちの国だったら、よくサークルとか作って、若いお母さんたちで互いにほめあうこともやってたんだけどなあ。でも、一寸興味深いわ。日本人のお母さんは、みんな子育てが苦痛でしょうがないっていうから。あたしの国では絶対起こらないことよ、そんなことは。」

「僕もよくわからないんだよ。道具だって簡単に手に入る国家で、なんで簡単に子供が殺せちゃうんだろうって。」

ぱくちゃんはアリスのテーブルに伝票を置いて、ため息をついた。

「じゃあ、お二人とも、裁判を傍聴してみますか?そういう海外の方から見たら、この事件はまた変わってみえるかもしれません。」

と小久保さんがいきなりそういうことを言いだした。弁護士という立場から、そういうことが言えるんだろうなと思うが、ぱくちゃんもアリスもびっくりした。

「そうだねえ。悪いけど、小久保さんそれは遠慮しておくよ。店を閉めて裁判を見にいくというのは、出来ないからね。」

ぱくちゃんは、ちょっといやそうに言った。

「そうですか。分かりました。確かに、お店をやっている以上は、お客さんがいますものね。アリスさんはどうですか。傍聴券を買っておきましょうか。」

小久保さんがそういうとアリスは、

「そうね。見てみたいわ。その、なんと何とかっていう女性がしたことは、あたしたちみたいな金持ちの国家でないところから来た人間にとってみたら、絶対あり得ない事だもの。」

と答えた。

「分かりました。じゃあ、一枚買っておきます。それでは、よろしくお願いしますよ。」

「はい。」

小久保さんに言われて、アリスはしっかり頷いた。

その数日後。彼女は、静岡地方裁判所に車を走らせる。小久保さんに郵送してもらった傍聴券をもって、法廷に入らせてもらうことにした。裁判では、傍聴する人ばかりではなく、抽選で選ばれた、裁判員と言われる人もいる。傍聴席では、彼女の親族と思われる老夫婦と、警察関係者、報道関係者がたくさんいた。アリスも人のたくさんいる傍聴席に座った。でも、一般の人は、ほとんどいなかった。あれだけ有名な女優が起こした事件だから、一般の人が見に来てもおかしくないだろうなとアリスは思っていたが、そういうひとは、まったくいないのが不思議だった。

「それでは、開廷します。」

と、法服に身を包んだ裁判官がそう宣言したため、裁判が開始された。被告人と言われている、絶世の美女と言われた、久保山知世が、刑務官のようなひとに伴われて被告席に着いたが、アリスの目から見ると、ただの女性のような人にしか見えなかったのである。

「まず初めに、検察官、起訴状を朗読してください。」

中年男の検察官と言われた人が、持っていた起訴状を読み上げた。それによると、事件の概要は、被告人久保山知世は、仕事に出かけようとした矢先、赤ちゃんであった継夫君がいきなり泣き出し、幾らあやしても泣きやまないのに立腹し、彼を床へ落として殺害したというものであった。絶対、そんなことは普通に育てられた人であれば、やってはいけないことであることは、よくわかった。裁判官が、久保山知世に、この事実を認めるかということを聞くと、久保山知世ははい、認めますと小さな声絵で言った。小久保さんに、裁判官が同じ質問をすると、小久保さんも同意見だといった。これで、久保山知世が何をしでかしたのかは、決定的になった。

続いて、被告人である、久保山知世に検察官と弁護士が交互に質問を始めた。検察官に、なぜ継夫君を床へ落としたのかと質問されると、

「はい。あの時は、しょうがなかったんです。継夫があまりにも、うるさく泣き叫んで、私も仕事へ

行かなくちゃならなかったものですから。それはもう仕方ありません。」

と、彼女は答えるのだった。

「仕方ないですか。そのような事を言って、継夫君は、ものでもなければ、動物でもない、人間であるということは、考えませんでしたか?」

検察官がそう聞くと、

「ええ。まったく考えていませんでした。」

と、彼女は答えるのである

「そうですか。では、継夫君の存在を、あなたはどのように見ていたんでしょうか?」

検察官がまた聞くと、

「ええ。ただ、私が生んだ子供です。其れだけの事です。」

と、ぶっきらぼうに彼女は言った。アリスも、これには一寸腹が立った。子供は確かに母親が生んだのは間違いないのだが、それだけの事ですという言い方は、まずいなと思う。子供だって、意思がちゃんとあるんだし、それは、忘れてはいけないことであった。

検察官が呼んだ証人は彼女の高級マンションの大家だった。検察官に、

「お尋ねいたしますが、彼女、久保山知世さんの部屋から時々子供の泣き声が聞こえてくると、近所の人から、苦情が多数寄せられていたそうですね。」

と聞かれると、大家さんははいと答えた。

「はい。確かにそうでした。小さな赤ちゃんの泣き声が聞こえてきて、困ってしまいますとよく言われました。」

「久保山さんには、その苦情を、直接言ったりしましたか?」

と、小久保さんが聞くと、

「ええ。何度も言いました。でもまるっきり反省はしていないようで、そういわれた当日から、子供さんの泣き声がしていました。」

大家さんはしっかり答えた。

「それに、子供の泣き声が続くようであれば、退居してくれと訴えたこともあります。それでも、久保山さんは、聞き入れませんでした。言えば、どこにも行くところが無いとの一点張り。一体彼女はどのような精神構造をしているのか、よくわかりませんな。」

「証人は、聞かれた事だけ、述べてください。」

裁判長がそういうと、大家さんは、ああ、すみませんと言って、証人席を退席した。裁判はそれ以降も続いた。彼女が犯人だと確信した刑事や、彼女が所属している芸能プロダクションの代表などが証人になって、彼女は女優としてはたいそう立派であるが、育児ということはできなかったということを、次々に語った。

アリスが、この被告人は、親や親せきに、愛情をもって接してもらったことはなかったのだろうかと考えながら、何気なく近くの席にめをやると、泣いている老婦人と、それを慰めている老人がみえた。これはきっと、彼女、久保山知世の家族だとアリスは直感的に思った。

「それでは、第一回公判を終了させていただきます。」

と裁判官がそういうと、裁判員たちも、立ち上がって、退席していった。彼ら、彼女たちは、この事件をどう思っているんだろうか。アリスはそれも気になった。報道関係者たちは、小久保さんや検察官の後を追いかけて、取材に行ってしまったので、アリスと、老夫婦だけが残った。

「あの、失礼ですけど、お二人は、久保山知世さんの。」

と、アリスが聞くと、

「ええ。そうです。」

とだけ、老人が答えた。ということはやっぱりアリスの勘は当たっていたのだろう。夫婦は、間違いなく、久保山知世さんのご両親だ。

「この度は、娘が、世間様に申し訳ないことを起しまして。」

と、父親がそういうことを言った。

「申しわけないというか、かわいそうなことをしたんだと思います。」

アリスは、父親のセリフを訂正した。

「はい。其れにしても、私たちは、どこで何を間違えたのでしょうか。私たちは、娘に、孫を殺害させるような、子育てはしてきた覚えはありません。」

と、母親が、涙をこぼしてハンカチで顔を拭いた。

「そう思われるんでしょうね。」

とアリスはそっという。

「あたしの国では、子供が犯罪をしても、自分の責任だとは言いませんでした。そういうところは、日本の方って、すごいなと思います。」

「でも、間違いなく、あの子を、ああしてしまったのは私たちです。私たちは育て方があの子に合わず、結果としてダメにしてしまったと思います。あの子は確かに、女優としては、すごかったと思うんですけど、人間として育てることはできなかったんですね。」

父親は、アリスの言葉にそう答えたのであった。

「そうですか。普段あたしは、テレビというものをあまり見ないものですから、久保山知世さんの事はあまり知らなかったんですけど。そんなに知名度があったんですね。」

アリスが言うと、

「ええ。ベストセラー小説が映画化されることになって、あの子はオーディションに応募したところ、合格したんです。其れで、あの子は、映画に主演するようになって、そのまま女優としていろんな番組に出演したんですが。」

と、父親が言った。

「でも、あたしたちは、いま思えば止めるべきでした。あの子が女優として成功したことで、少々浮かれすぎてしまったのかもしれない。」

母親もそういうことを言うのであった。

「あの子が映画に主演したことで、あたしたちも、豊かな生活になりました。其れできっと、大事なことを教えられなかったんだと思います。」

「彼女は、幼いころ、どんな子供だったんですか?」

アリスは、思わず聞いてみた。

「ええ、親の口から言うのも難ですが、あの子は何も言いませんでした。本当に心配なことも何もしませんでした。学校の成績だって、良いというわけではありませんが、点数は其れなりにとれていました。其れなのになんで、こうなってしまったのか。私もよくわかりません。」

父親は、わけのわからないという感じで言った。

「よくわからないって、それが一番困る事ではないですか。多少わがままを言って困らせる子供のほうが、ちゃんとした人間になれるんですよ。それは私が保証します。そうやって、他人を困らせる子供のほうが、絶対に幸せになれます。なぜなら、困らせることが許される環境だからです。ちょっと失礼しますけど、彼女、久保山知世さんが、家族を困らせたことはなかったんですか?これまでに一度も?」

アリスが一寸おかしいなと思ってそういうと、

「ええ何もしませんでした。ただ黙って、ほかの人についていくような子でした。あの子は、そういう子でしたから、私たちも何も言いませんでした。」

母親は、その通りだというように答える。

「なんでそんなこと言うんですか。彼女があなた方を困らせて、手を煩わせることは一度もなかったなんて、そんなこと、許されることじゃありませんよ。じゃあ、聞きますけど、あなた方は、知世さんに、わがままを言わせてやるような環境をつくってやれなかったんでしょうか?」

アリスは、全くこの人たちは何を考えているんだろうという顔で、思わず口に出してしまった。

「ええ。妻も虚弱で寝込んでばかりいましたし、私は仕事が忙しくて、娘の事はほとんどかまいませんでした。」

「日本人はすぐそういう言い訳を使いますね。仕事が忙しかった?何を言っているんですか?亭主元気で留守がいいなんて言う言葉も死語ですよ。仕事をしていればいいなんて言う時代は、とうの昔に終わっているんです。」

アリスが外国人らしく、そう批判すると、

「そうなんですが、私は、非正規雇用しか働くことができなかったので、あの子を育てる費用をつくることで精一杯でしたし、それに、正社員として働いて、幸せな家庭を持っている兄夫婦が許せなかったんです。」

と、父親は言った。まったく、日本人というのはなんでこう比べる事が好きなんだろうとアリスは思う。そんなに、親族とか、兄弟とかと比べないで、自分たちの幸せというものを見せてやることこそ必要だと思うのに、そういうことは絶対逃してしまう。お兄さんと比べている暇が在ったら、自分はこのくらい幸せなんだと伝えてやることが大事なのに。

「ちなみに、お兄さんはどんな生活をしているんですか。」

アリスは、半ば呆れて、ため息をついた。

「ええ。普通に夫婦で生活しています。子供はできなかったみたいですけど、金銭的には不自由していないし、健康にも恵まれているし、私たちから見たら、本当に許されない敵だと思っています。」

と、泣き泣き言う父親に、何だ、お兄さんだって完璧な幸せではなかったのではないかと、アリスは思った。其れよりも、うちはうちの幸せがある、だって子供ができたんだから、と言ってやるべきではないかと思うのだが。

「そうだったんですか。何も子供さんに言わせずに、ほかのだれかと比べようとしたのが間違いだったんですね。そんなわけですもの。知世さんが事件を起こしても仕方ありません。そういう家庭だったということです。其れは仕方ありません。」

アリスは、何だかあきれた顔をして、二人を見てしまった。他人からしてみれば、答えは簡単なことであるのに、当事者においては、ものすごく大きな悩みになってしまうというのは、非常によくある話なのだ。それは、他人が口にしてくれて、初めてわかるということでもある。こういうことは、欧米であれば、平気で口にしてしまうこともあると思う。でもアリスは、日本ではそういうことは言ってはいけないことになっているのを思い出した。素直になることも日本人は苦手であり、指摘した人を

、陥れようとか、そういうことをしてしまう事もあるのも知っていた。なので、泣いている母親と、それを慰めている父親を前に、もっと彼女、久保山知世に自己主張させてあげるべきだったのよ。なんていうことは言わないで置いた。

「あの、そろそろ、掃除に取り掛かりますので。出ていたけないでしょうか。」

と、掃除のおばさんが三人に声をかけた。

「それでは私、もう行くわ。」

アリスは、椅子から立ち上がり、傍聴席を出ていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る