第三章
第三章
その日も、穏やかに晴れて、のんびりとした日だった。冬というのはたしかに寒いのであるが、ン兄も大きな災害のない季節という意味では、一番いい季節なのかもしれない。そういうわけであるから、いろんな騒動が起こるものでもあるのだが。今日も何か騒動が起こって、毎日は過ぎていくのであった。
その日、蘭とアリスは、総合病院で診察を受けていた。正確には蘭が診察を受けていて、アリスはその手伝い人という感じだった。蘭が診察を受けている間、彼女は待合室で読書をしていたのであった。
「いやあ、遅くなってごめんね。ただ指を切っただけなのに、総合病院で診察なんて、大げさなんていうかもしれないけどさ。わざわざ、一緒に来てもらっちゃって。」
と、蘭が、そんなことを言いながら、診察室から出てくると、
「ああ、いいのよ。だって、下手をしたら、指が化膿するかもしれないでしょ。其れじゃあ困るじゃない。其れだったら、ちゃんと病院で見てもらった方がいいわ。だからあたしのことは気にしなくて結構よ。」
と、アリスは明るい笑顔で蘭を迎えた。
「どうもすまんねえ。待ち時間ばっかりで、診察は、五分もかからないで、包帯だけしておしまいか。」
「まあ、しょうがないじゃないの。病院なんてそんなものよ。其れでしょうがないと思ってよ。あたしからしてみれば、どんな人でも区別をしないで診察してくれる、日本の病院はすごいと思うわ。」
アリスは、蘭に思わず本音をポロリと漏らした。
「まあ確かに、そうかもしれないよね。お前の国では、民族が違うからと言って、態度を変えることは、よくあったと思う。其れに比べれば、日本の病院は確かにいいかもしれない。でも、二時間も待たされるのは、困ったものだよ。」
そういって蘭は、アリスの隣に車いすを動かした。
「二時間待ちというか、二時間で病院で見てもらえるのはすごいわよ。アルバニアでは、無医村なんてざらにあるんですからね。」
アリスが、はあとため息をついてそういうことを言うと、
「伊能さん。お会計お待たせいたしました。」
と、受付事務員が蘭のところにやってきた。
「はあ、あれだけまたせて、会計ではこんなに早いんですか。」
と蘭が言うと、
「ええ。病院の取り組みとして、なるべく早く待たせないで、お帰り頂けるように、事務員の人数を増やしたりして、工夫しているんです。」
と、事務員は、一寸自慢気に言った。
「そうなのか。診察前には、二時間も待たせたのに?」
蘭が思わず言うと、
「ええ。其れは仕方ないことじゃありませんか。事務員はいるけれど、医者は増やすのが容易じゃありませんから。それは仕方ないんです。」
と、事務員は答えた。蘭が、診察料を払うと、事務員は、少々お待ちくださいね、今お釣りを持ってきます、と言って、蘭たちのそばを離れた。
「まあ確かに医者と事務員は違うよな。最近は、医療事務の資格を取るのがブームというかそういう感じになってて、医療事務として働く奴らが多いと聞くが、肝心の医者を増やして行かなくちゃ、っ病院の効率は、上がらないよ。」
と蘭は、やれやれという顔をしていった。
「まあ、いいじゃないの。私の国みたいにさ、病院に行くのに、一週間以上かかるなんてことは、日本では絶対ないでしょうから。」
アリスがそういうと、二人の前を、看護師が急いで走っていくのがみえた。
「あら、急患でもあったのかしら?」
とアリスが言うと、
「奥さん!忘れもの!奥さん!」
と看護師は入り口にいた女性を追いかけて声をかけたようであったが、女性は無視して出て行ってしまった。
「あらあ、こまったわねえ。これないと、あの子、大泣きするんだよ。全くあの奥さんも、そそっかしいのも度が過ぎるわ。何でこんなに忘れ物が多いのかしら。」
「忘れ物って何を忘れたんですか?」
アリスが、急いで看護師に聞くと、
「これですよ、まあ予備があるかもしれないけど、赤ちゃんにとっては貴重な食料になるんじゃありません?それなのになんでこんな大事なものを忘れちゃうんですかね。」
と、看護師は哺乳瓶を出して見せた。確かに、彼女の言う通りだ。赤ちゃんにとっては、大事なものである。
「あの、赤い帽子の女性ですね。彼女は車で見えるんですか?」
「いいえ、バスかタクシーでいつも帰られますよ。バスが直ぐあればそれに乗って行きますが、バスが一時間に一本しか来ないので、タクシーで帰られることも多いです。」
看護師がそう説明すると、
「確かにそうですね。でも、バスが一時間に一本しかないということは、もしかしたら、バス乗り場で待っているかもしれないわ。赤い帽子をかぶっている女性なら、私、よく覚えています。まだいるかもしれないから、私が見てきますよ。居なかったら、又手立てを考えればいいし。」
と、アリスはそういって、看護師から哺乳瓶を受け取って、病院から出ていった。全く、こういうところが、世話好きというか、外国人らしいところだなと蘭は思った。日本人であれば、他人に簡単に手を出すことはしないはずだ。
アリスは、急いでバス乗り場に行った。確かに、バスは一時間に一本しかないということは、確かである。もうすぐバスが来るらしく、何人かの患者かその家族がバス停でバズを待っていた。アリスは、その中に、赤い帽子をかぶった女性を探すと、彼女はすぐに見つかった。
「あの、すみません。赤ちゃんのお母さんですよね。」
と、彼女が尋ねると、確かにその人は、赤い帽子をかぶっていて、抱っこ紐で赤ちゃんを抱いていた。
「何か?」
と女性が言うと、
「あの、赤ちゃんの、大事なものを、お忘れじゃありませんか。今は眠っているけれど、そのうち目が覚めたら、直ぐに欲しがるんじゃありませんか?」
アリスはそういって、彼女に哺乳瓶を渡した。
「あ、ああ、ありがとうございます。」
と、彼女は、申し訳なさそうな顔をして、それを受け取った。
「よかったわね。そのまま忘れていたら、大泣きされて大変だったところよ。」
アリスはそういうのであるが、彼女の変に余所余所しい態度が気になった。母親であれば、もう少し、赤ちゃんに対して気づかいをするというか、もっと、大げさに喜ぶということをすると思うのであるが、そういうところがまったくない。
「どうしたのよ。その顔。もっと喜んでもいいじゃないでしょうか?」
とアリスが言うが、女性はなんだか変な顔をしているのだ。赤ちゃんに、ミルクというのは必需品というか、文字通り食べ物と一緒なのであるから、本当に大事なものであるはずなのに、なんでこんなに、余所余所しいんだろう。
「何かわけがあるんですか。」
と、アリスは、そう聞いてしまった。外国人らしく、思ったことはすぐに口に出す。其れが、彼女には何も恥ずかしいことではない。
「そういうことは、直ぐに人に相談した方が良いわ。あなた、何か悩んでいるんでしょう。育児の事というか、赤ちゃんの事で。そうでしょう?」
「ええ、、、。」
と、彼女は、小さな声で言った。
「この後、時間ある?赤ちゃんの事なら、私も手伝うから。ちょっと、カフェでも寄って、お話ししていきませんか?」
アリスは彼女に優しく言った。
「ああ、あたしは何も怪しいものではありません。ただの、助産師です。授乳や育児についての相談にも乗っています。名前は伊能アリスです。ね、行きましょう。」
彼女は、周りにいるほかのお客さんを見渡した。ほかのお客さんと言っても、年寄りばかりだが、彼らはその通りにした方が良いという顔をしている。お年寄りにとって、育児の事で疲れてしまうということはありえない話だということだろう。こうなったら、もうアリスに従うしかないと思ったのか、彼女は、ええ、そうするわとだけ言って、バスを待つ行列を離れた。
「おい、何をやっているんだ。いつまでも来ないから、心配になって来たよ。会計ならもう終わったし、包帯を取り換えるために、来週の今日に診察の予約をとったよ。」
と、蘭が車いすを動かして、二人の前に現れた。彼女はいったいどういうことだという顔をしている。蘭とアリスは、ちょっとこっちへ着て下さいと言って、彼女を病院の正面玄関へ連れて行った。
「ねえ蘭。彼女と話をしたいから、一寸、この病院の近くにあるカフェテラスに行ってもいいかしら。何だか彼女、わけがあるみたいなのよ。そりゃあそうよね。赤ちゃんにとって大事なものを忘れていくなんて、基本的にあり得ない話よね。」
アリスはできる限り明るく言った。
「あの、もしかして、私を警察に渡そうとか、そういう事をするつもりですか?」
と女性はちょっと怖がった顔をして、そういうことをいった。
「そんなことはありません。あたしたちは、簡単に警察にどうのなんてそんな軽薄なことはしませんよ。だってこの蘭は、警察のお世話になりそうな人をたくさん相手にしている、刺青師ですからねえ。何か悩んで、困っている人は大勢いるってことは、あたしたちは知っているから、間違っても、上から目線とか、直ぐに警察がどうのとか、そんなことはしないわ。」
と、アリスは、にこやかに言って、
「車に乗りましょ。」
とだけ言って、急いで車を取りに駐車場へ走っていってしまった。
「気にしないでください。元々世話好きな性格なので。ただ、あなたがつらそうなので、それを何とかしてやりたいと思うだけの事ですよ。」
蘭は彼女にそういったが、彼女の腕の中ですやすや眠っている赤ちゃんのほうが気になるのだった。赤ちゃんと言えば、うるさく泣き叫んで、近所迷惑になることも当たり前だ。でも、それなのに、赤ちゃんは何も泣かない。
「あなた、名前はなんていうんですか。僕は、伊能蘭と言いますが。」
と、蘭が言うと、
「ええ、倉田都です。」
と彼女は答えた。
「で、この赤ちゃんは?」
「ええ、一人息子の倉田郁夫です。まだ、一歳にもなっていませんので、みぎも左もわからないという子供ですが。」
と、都さんは答えた。
「そうですか。それでは、まだお母さん一年生ということですね。それでは初めての育児で、大変でしょうね。其れなら、哺乳瓶を忘れても仕方ないか。」
と蘭がそういうと、都さんは、一寸ありがたそうな顔をした。
「そういうこと言ってくれて、ありがたいとでも思っているんですか。いえ、僕は責めているわけではありませんよ。ただ、そういう気持ちになってもしょうがないということですよね。ただ、ちゃんとした言い回しができないだけで、本当は、お母さん一年生で、ものすごい大変だろうなということがわかりますからね。」
と、蘭は、にこやかに笑ってそういった。こういう時に、もう少し、柔らかい言葉を言うことができたら、都さんも安心してくれるのだろうなと思うのだが。
「車持ってきたわ。すぐに乗って頂戴。」
とアリスが、ワゴン車を運転して二人の前に現れた。蘭は都さんに、助手席に乗ってくれといった。彼女が郁夫君を抱っこしたままその通りにすると、蘭はアリスに手伝ってもらって、後部座席に乗り込んだ。アリスは運転席に乗って、じゃあ行くわねと、車を走らせて、病院を出ていった。
カフェは、病院のすぐ近くにあった。別にわざわざ車を使わなくても、行けるくらいの距離であり、患者が診察が終わって、休むことを狙って作られていることは、よくわかっている。そういうわけでカフェというだけではなく、軽食も食べられるようになっている。アリスはそこの駐車場に車をとめて、蘭を手早く下ろし、彼女にも車を降りてもらうように言った。都さんがそうすると、蘭たちは、カフェの中に入った。カフェはいつでも人が居た。病院の診察が終わって、お茶を飲もうという人は、必ずいるらしい。ウエイトレスに連れられて、一番奥の席に案内された。
「其れで、どうして赤ちゃんにとって一番大事なものをわざとわすれていったのよ。」
アリスは、にこやかな顔をしてそういうことを聞いた。
「わざとというか、本当に、もうどうしようもなくなっちゃって。」
「どうしようもないって、どういうことですか?」
と蘭が聞くと、
「まあ確かにそういう事もあるかもしれないわ。理由なんて口ではいえないほど、追い詰められることは女性であればあるはずよ。ほかのお母さんからもきいたことが在る。」
とアリスがそれをわかるような顔で言った。
「まず初めに、あなたの家族はいらっしゃるの?お父さんにあたる方とか、あるいはその方のご家族とか。同居していらっしゃるの?」
「そうですね。本当にごく平凡な一家ですよ。主人と郁夫と、三人暮らし。後は、おじいちゃんとおばあちゃんと呼んでいる、私の両親が、近くに住んでいるくらいです。」
と、都さんは答える。
「そうなんですか。ご両親は何をしていらっしゃるんですか?」
アリスが聞くと、
「ええ、会社を経営しています。会社と言っても、従業員5人の製紙会社ですけど。ただ、男の跡取りができなかったから、今の主人が来てくれたんです。」
「ということはつまり、あなたのご主人は、入り婿というわけですか。」
と蘭は言った。
「ええ、そういう風に結婚の形が違うからでしょうか。私が大変だと言っても、ほかの友人は聞いてくれないことが多いんです。実の親がすぐそばにいるからいいじゃないかって言われるだけで。私が、こんなに悩んでいるのを、誰も分かってくれないんです。」
「そうですか。確かに、今は、みんな同じように、生活しているでしょうからね。其れより一寸違うというのは、確かに生活しにくいと思います。其れよりもですね。僕が気になるのは、その、息子さんである、郁夫君の事なんですよ。なんで彼は、いま泣かないんでしょうか。今泣かなかったら、いつなくのというくらい、彼はおとなしすぎます。赤ちゃんというのは、ギャーギャー泣き叫んで当たり前なんです。そっちの方が、僕は心配何ですよ。」
「そうですね。其れもよく言われるんですが、でも、それまで、余裕が無くて。郁夫の事までというより、ほかの事で、手が目いっぱいで。」
と、彼女は答えた。
「ご主人は、育児に協力的な人じゃないんですか?もっと、あなたの事を気にかけてくれる人だったらいいのに。あなたひとりに育児を押し付けているんだったら、もっと協力してって、あなたが怒ってもいいと思うけど。」
と、アリスは彼女に言うと、
「いえ、彼を責めるのは、絶対に止めてください。それは、私の責任ですから。それは、私がしなければならないことですから!」
と、都さんはそういうことを言うのであった。
「なんで、そんなこというの?ご主人に、協力してと主張する権利は、どの女性でもあるわよ。」
とアリスが言うと、
「そうなんですけど。私の責任なんです。私が、あの人を傷つけてしまいました。だから、もう私が、ひとりでなんでもしなくちゃならないんです。」
と、彼女は言った。何だか重大なことをしたのかなと思うのであるが、蘭は、それ以上聞くことはしなかった。何か彼女は、トラブルがあって、夫を何か傷つけてしまったのかもしれない。
「そうかもしれないけど、あなたが、先ほどのようなことをしてしまうということは、あなたも相当追い詰められているはずよ。そのことで、郁夫君は泣かないのかもしれないわ。泣かないから、手がかからないとか、助かるとか、そういうことは大間違いなのよ。其れは思春期に、重大なトラブルになる可能性だってあるの。其れを改善するには、ご主人にも協力してもらうことが不可欠なんじゃないかしら。」
アリスは、外国人らしく、はっきりといった。
「日本では、なんでも細かいことを隠してしまって、いい顔をしているように見せてしまうけれど、そういうところが、私はいけないと思うのよ。問題が在ったら、問題点はちゃんと解決しておかないと、いけないと思うわ。だから、ご主人に協力してもらうように言いなさい。それは、あなたにとっても大事なことなのよ。」
「そうなんですけど。私が、主人に、二度と取り返しがつかないことをしてしまったんですから。」
と、都さんは、涙をこぼして泣き出した。
「私のせいなんです。私が、両親と離れたいって言って、家を買おうなんて言うから、主人は一生懸命働きすぎて、其れで怪我をして、、、。」
「それはいつの話かしら?」
とアリスが聞くと、
「ええ。ちょうど、この子ができたばかりのころです。だから私が、主人を不幸にしてしまったんです。私の両親は、目や耳が損傷したわけではないので、そのまま跡取りにするって言ってましたが、私が、独立したいなんて、そんなこと言わなかったら、主人はそんな体にはなりませんでした。だから私が、責任をとって。」
と、都さんは涙をこぼしていった。蘭もアリスも、なんだかいけないことを聞いちゃったなという顔をしたが、直ぐに蘭は顔を変えて、
「いえ、不自由になったと言っても、別のやり方で幸せがつかめるはずです。其れは、今はわからないかもしれないけど、いずれ分かるはずですよ。」
と、彼女を励ました。
「そうよ。それに、誰のせいでなくても、不幸になっちゃうことは、生きていれば多かれ少なかれ経験することだわ。」
と、アリスは彼女の肩をたたいた。
「でも私、主人にあんなひどいことしたから。」
と、まだ涙をこぼす彼女に、
「いえいえ、ご主人は、不自由な体になって、かえって幸せだと思うことだってあるはずです。だから、あまりご自身を責めないでください。あなたが幸せであれば、周りのご家族も、幸せになることができるはずです。」
と、蘭は、にこやかに笑ってそういうことを言った。
「それでは私はどうしたらいいのでしょうか。あたしは、ずっと、責任を感じて生きていかなければならないのでしょうか。」
と彼女、都さんがそう聞くと、
「ええ、とにかくですね、喜怒哀楽をしっかり表現できるようになってください。其れができることが、一番の幸せですよ。」
と、蘭は言った。
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