第2話 兄妹
「さあ、じゃあ行きましょう。錠をかけやすのでお先に出ておいてください」
少年に続き、店主も店の外に出ると戸に質素な板を挟む。
その時に、ちろりと横目を動かす。
「お~い、帰ったぞ~」
離れまでは本当に僅かだった。店を出て地平線が次の景色を見せる頃にはもう見えていた程だ。そしてその声に、奥から娘がトテトテと軽い足音を立てて現れた。
そして、店主の横の少年に気付き、ピタと動きを止める。
ゆっくりと店主は娘に視線を向ける。
それは、ほんの僅かな時間だが、少年は空気に不思議な重さを感じた。
やがて娘は小さく頷くと、トタトタとまた奥に戻って行った。
「随分と綺麗なお嬢さんだ」
直江の言葉に店主は苦笑いを浮かべる。
「もう、娘なんて呼ばれる歳じゃねぇんですよ。今年で十九です。産まれつき耳が聴こえねぇんで、喋る事も出来ねぇ。どこにも嫁の買い手がつかねぇんですよ」
それを聴いて直江は悲しそうに眉を落とした。
「拙者の……妹も……もうすぐ祝言だった……」
店主は少しその気が沈むのを待ち、声を掛けた。
「どうぞ狭い所で申し訳ありませんが」
居間に行くと、娘が丁度囲炉裏に鍋を繋いでいたところだ。
鍋が煮える匂いに、直江は溢れる唾液を必死に飲み込んだ。
川魚と山菜の増水が注がれると、直江は獣の様にそれを貪る。
「う……うまい、こなに温かく美味い飯は……
旅に出る前以来だ……」ガツガツと音を流しながら、突如肩が震えた。涙を堪え切れなかったのだ。
「もし」
店主が笑顔のまま粥を口に運ぶ。
「あっしらで宜しければ、話す事で楽になれそうなら幾らでもお聞きしますよ?
それに、店に来るお客さんとも話をしているから、思わぬ情報を教えれるかもしれません」
直江は口を開いたまま呆ける様にそれを聞く。
その時に、娘が彼のその椀に粥を注ぎ足した。
「……いや、折角の馳走が冷めてしまったは勿体ない」
それを聞くと店主は「では、飯の後に酒でも入れましょう」とにこやかに返すのだった。
――2年前。
山城の武家名家に、とても仲睦まじい兄妹が居た。
直江家の長男として厳格に育てられながらも正しき心を以て成長した忠右エ門。
まるで、野桜の如く少し儚げながらも美しく慈愛の心に満ちた、みう。
両親にとっても自慢の子ども達であったろう。
「みうよ。縁談が決まった。
お前は今秋より
分家ながらも戦国から名を轟かせた尼子の一因となるのだ。直江の名を汚さぬ様、しっかりとやるのだぞ」
それは春のある日、家族や奉公人の居る前で父から突然語られた。
奉公人たちは感嘆の声を挙げ、母親は涙を浮かべながら娘を抱き締めた。
「おめでとう、おみう。
美作は雪も積もると聞きます。貴女は冬場に特に体調を崩しやすいから、とにかく寒さには気を付けるのですよ。ああ……ああ、なんと素晴らしいのでしょう。あんなに小さかったみうが……もうお嫁に行くだなんて……」
その日の直江家は祝福と喜びに満ち溢れていた。
ただ、2人を除いては。
「
美作だなんて、とても遠く。皆と離れとう御座いません」
月明かりの下で、みうはシクシクと泣きながら忠右エ門に寄り添う。
「何を言うか。他藩のそれも名家に嫁ぐのだ。武家の娘として名誉な事だぞ」
忠右エ門がそう言うと、みうは鬼気迫る表情でキッと彼に向き直った。
「武家の娘である前に、1人の女です‼
みうは、みうは‼ 兄さまと離れたくありません‼ 」
その零れ落ちそうな程大きな瞳で睨みつけると、彼の胸に飛び込む。
驚きで毎日剣を振り、鍛え上げた両腕が大きく左右に広がった。
同じ風呂の湯で身を清めている筈なのに、自分では放つ事のない甘い香りが鼻孔に入り込み、その理性を刺激する。
歯を噛みしめてその細く、折れてしまいそうな妹の身体を抱き締めようとする両腕を必死で抑えると、やがてその両肩を優しく掴み己から引き剥がす。
涙で真っ赤になった大きな瞳が、何かを言いたそうにこちらを見ると口元を押さえて彼女は走り去っていった。
「……バカな。実の妹なんだぞ……」
その離れていく背中を見つめながら、忠右エ門は我が胸を必死に押さえつける。2人を見つめていた空の満月が、それを嗤っている様な気がした。
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