第18話 母の、手紙。
その日の夕方。
父もいた。仕事で疲れているのか、表情は重たかった。
さく姉とすみ姉はかしこまった様子でテーブルについていた。私は母の部屋から見つけた手紙をテーブルの上に置いた。
「お母さんの部屋で見つけた」
私の報告にさく姉が解説を入れた。
「お母さんの本、虫干ししようと思ったの」
父が頷く。
「ありがとうな」
「これ、『みんなへ』って書いてある」
まだ、開けてない。私は封筒を手に取る。
「私が、読み上げていいかな」
「そうだね」すみ姉。「私らは、何回か手紙もらったことあるけど、あんたは初めてだもんね」
「お母さん、いつの間にそんなの書いていたんだろう」さく姉。「お箸も持ち上げることができないくらい体調悪かったのに」
「字が震えている」父だった。「無理して書いたんだろう」
父が悔やむようにテーブルを見つめた。その表情をどうにかしたくて、私は手紙を手に取った。
「開けるね」
封筒は糊付けされていなかった。開く。中から、五枚の手紙が出てきた。
一枚目。そこにはこう書かれていた。読み上げる。
「まず、みんなへ」
父もさく姉もすみ姉も、黙って私の声を聞く。
まず、みんなへ。
手紙を書きました。字が汚かったらごめんなさい。でも一生懸命、書いています。本当は、みんなの誕生日に手紙を書きたかったけど、体調的にそれが叶わないので、この何年かの分をまとめて、ここに書きます。一人に一枚、宛てています。
この手紙は、隠します。だからこれを読んでいるということは、あなたたちは私の部屋の整理をしている頃でしょう。もしかしたら、その頃には私はもう、いないかもしれない。残された時間が少ないことくらい、私には分かります。
この一枚はみんなに宛てます。大好きです。愛しています。だからどうか、自分を大切にしてください。私の愛する、家族なんですから。
一枚目はそこで終わった。二枚目に、行く。
「さくらへ」
そう、読み始める。
さくらへ。
あなたは、とても器用な子です。気配りもできます。きっと、私よりお母さんに向いています。いつか私にもしものことがあったら……なんて話は、よくないですね。でも、家族のみんなをお願いね。あなたの愛情で、家族を包んであげてください。いつも家事をしてくれてありがとう。
あなたの作るご飯は、私もびっくりするくらい美味しいです。そういえば、あなたにお味噌汁の作り方を教えてあげましたね。あなたの覚えが早くて、私はとても驚いたのを覚えています。
初めての料理はオムレツだったかな。上手くできたよね。お父さんに食べさせて、びっくりさせましたね。確かあなたが九歳の時。小学生で一人前に料理ができる女の子なんてそうそういません。いつか、あなたに素敵な男の人が現れたら、その料理を振舞ってあげてください。きっと、イチコロです。男の人は胃袋を掴まれるとどうにもできなくなる生き物です。これは、母からのアドバイス。
三枚目。
「すみれへ」
すみれへ。
あなたは、とても賢い子です。幼稚園の頃だったかな。他の子が一時間もかかるパズルを、五分で解きましたね。お母さんは感心しました。天才なんじゃないかと思った。普通、そういう才能に恵まれた子供というのは、何かしらの問題を抱えていることがありますが、あなたは幼稚園でもすぐ友達を作って、豊かに過ごしていましたね。
小学校に入ると、あなたは賢さに磨きをかけました。テストや課題はいつも成績優秀でしたね。学校の成績だけじゃなく、人としても優れていました。あなたがお父さん相手に立派な交渉を……確か、シルバニアファミリーを買ってほしいという話だったと思うけど……やっているのを見て、これは只者ではないと思いました。
あなたは、チェスも強かったですね。最初の頃はお母さんに敵わなかったけど、すぐにお母さんを抜かしました。今はあなたに勝てません。あなたは、俯瞰的に物事を見ることができます。きっと、たくましく生きていけます。いつまでも元気でいてください。
四枚目。
「これは、私へ」
そう断ってから、話を始めた。
まず、謝らせてください。
ごめんなさい。私はあなたに十分な愛情を注ぐことができないかもしれない。私はあなたを産むのにはちょっと体力が足りませんでした。あなたを産むのに命を失いそうになった。さくらやすみれの時も命を賭けましたが、あなたの時は勝負に負けそうだった。ごめんなさい。母の責任です。
でも、これだけは言わせてください。
あなたが生まれた時、私はとても嬉しかった。あなたに会うことができて本当によかった。とても長い時間のお産の後、あなたが大きな声で泣いた時、私は、ああ、いい子が生まれたな、と思いました。
この手紙を書いている時、あなたは碌にしゃべることができませんでした。多分、三歳にして幼児退行が起こっていたんだと思います。それも全て、母の責任です。体調のせいで、あなたを十分に愛してあげることができなかったから。ごめんなさいね。せめて、ここでだけは伝えさせてください。母はあなたのことを、とても愛しています。
あなたはもしかしたら、捻くれて育ってしまうかもしれません。私の愛情不足が原因で。それを思うと私は悲しくて涙が出ます。ごめんなさい。ごめんなさい。
でも、これだけは言わせてください。
私はあなたのことが、大好きです。
……泣きそうだった。母の声はぼんやりとしか思い出せない。母がどんな調子でこの文章を読んでくれるのか、私には想像することしかできない。『きつねのおきゃくさま』の声を無理やりあてることしかできない。けど、私は母を感じていた。母が傍にいてくれる気がした。
「先生へ」
最後の一枚。先生って……私は父を見た。
先生へ。
ごめんなさいね。もしかしたら子供たちの前で初めて「先生」と呼ぶことになるかもしれません。でも、私にとって先生はいつまでも先生です。それは、恋人になった時も、夫になってくれた時も、娘たちの父になってくれた時も同じです。
先生は私を、私のことを魂ごと、愛してくれました。すごく嬉しかった。先生は、私が病床に伏せっている時もいつも枕元にやってきて色々な話をしてくれました。保護者として、さくらやすみれが困っていたら手を貸してくれました。家事も仕事もやってくれました。私の看護まで。本当に、感謝しています。
先生。……どうしよう。娘たちの前では「お父さん」だし、夫婦二人の時は「先生」だから、初めてだけど「あなた」って呼んじゃおうかな。あなたは、私のことをとても大切にしてくれました。とても大事に扱ってくれました。心から愛してくれました。それだけで、私は幸せです。何よりも幸せなのです。
あなたは男性として、一人の女性を幸せにしました。それは揺るぎのない事実です。だから胸を張ってください。自信を持ってください。もしかしたら、あなたは責任感の強い男性ですので、私のことや、娘たちのことについて、過剰に重荷を背負ってしまうことがあるかもしれない。私はそれが心配です。本来なら私とあなたで半分こにすべき問題を、あなた一人に背負わせる。それが、とても、心配です。
でも、どうか、お願いですから、幸せになってください。
あなたに出会った頃から、私はあなたの、先生の幸せを願ってやみませんでした。愛するあなたの毎日が少しでも明るくなりますよう。この手紙を書いている時も、ずっと、あなたを思っています。
大好き。愛してる。
父が俯いていた。目から涙がこぼれている。私は父が泣くところを、初めて見た。テーブルに隠れて見えないが、多分拳を握っている。肩が小さく震えている。ぎゅっと口を結んでいる。どこから漏れているのだろう。嗚咽が聞こえた。さく姉がそっと父の肩に手を置いた。すみ姉が心配そうな目を父に送る。
「すまん……すまん……」
父が謝る。私は口を開く。
「謝らないでよ」
さく姉が続く。「そうだよ。お父さん」
「お父さんはいつも立派にやってくれてたよ」すみ姉も続く。
「俺がもっとしっかりしていれば、お母さんは死ななかった」
そう告げる。
姉妹でそれを、否定する。
「そんなことない」
「お父さんのせいで死んだんじゃない」
「一人で背負い込まないでよ」
気づけばさく姉もすみ姉も、泣いていた。私もだ。涙がこぼれる。全員で鼻をぐすぐす言わせていた。手紙に涙がこぼれないよう、そっとテーブルの中央に置いた。父がその手紙に目をやる。
「無理するなと言ったのに……」
「きっとどうしても伝えたかったんだよ」すみ姉。
「お母さん、お父さんのこと大好きだったから」さく姉。
「すっごく、大事だったんだと思う」私。「この手紙、大事にしよう」
「ああ……ああ……」
私の父、名木橋明は、多分私たちの目の前で、初めて泣いた。
土曜日の夕方。夕日がリビングに差し込んでいた。
いつの間に入ってきていたのだろう。ジェームズが「ねう」と鳴いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます