第16話 熱意と、準備。

「拓也このまま持って帰りたい」


 藤沢本町。

 拓也と私は帰宅ルートが違った。私は小田原方面。拓也は藤沢からJR。


「……ごめん。今の私、重たかった」

 拓也の袖を握ったまま項垂れる。すると拓也がそっと私の頭を撫でてくれた。

「嬉しいよ。いつか、いつかさ」

 一緒に暮らそう。そう言ってくれた。私は頷く。

「うん」

「二人で朝ごはん食べよう」

「うん」

「二人でコーヒーブレイクしよう」

「うん」

「二人で同じベッドで寝よう」

「……うん」

 それはちょっと、恥ずかしかった。でも、拓也となら、いい。


「じゃあね」

 別れる。つらい。まるで片腕を持っていかれるかのよう。でも、仕方ない。


〈今日は好きって言ってくれてありがとう〉


 電車の中。拓也に連絡を取る。彼はすぐに返してくれた。


〈僕の気持ちを受け止めてくれてありがとう〉

 それからすぐに、追撃が来る。

〈大好きだよ〉


 電車の中で悶える。多分私は、怪しい乗客だ。でもいい。だってこんなに、幸せなのだから。


 家に着くと元気よく「ただいま」と言った。さく姉がリビングのドアから顔を覗かせる。

「あら、おかえり」

 どうしたの。そう訊かれる。


「何だか嬉しそう」

「いいことあったの」私は浮き浮きとさく姉に告げる。「幸せなの」

「それはよかった」

 さく姉がにっこり笑う。

「今晩は、ミートローフだよ」

「あれ」私は首を傾げる。「この間もさく姉作ってなかったっけ」


「お父さん、仕事が忙しいんだって」

 そうか。今日はお父さんの日か。

 と、以前のことを思い出して切なくなる。


「夕飯は餃子だ。食うか」

 いらない。あの時私は父をそう拒絶した。何であんなこと言ったのだろう。後悔する。


「もう少しでできるから、手を洗って着替えて、下に降りておいで」

 さく姉が優しく促してくれる。私は素直に頷く。

「うん」


「本当に幸せなことがあったのねぇ」

 さく姉は頬に手を当てる。

「あんたがこんなに素直に反応したことなんてなかったよ」

「えー、そんなことないよ」

 まずい。このままだと気づかれる。そう思った私は階段を上った。

「すぐ行くね」そんなことを言い残す。


 手を洗って部屋着に着替えると、真っ直ぐに下に降りた。まず目に入ったのは、すみ姉。テーブルに着いて私のことを見つめてくる。


「元気そうじゃん」

 意外そうにつぶやく。

「うん。元気」

 私は明るく答える。


「よかった」すみ姉。「心配して、仕事早く引き上げてきた」

「え」私は驚く。「ごめん。迷惑かけた」

「全然迷惑じゃないよ」まただ。すみ姉の唐突な直球攻撃。「ま、元気ならいいこった」


「はーい。できましたよー」

 さく姉がお皿を運んでくる。ミートローフ。オレガノのいい香りが広がる。


「さく姉、すみ姉」

 食事中。私は二人に訊ねる。

「今度学校で発表会があるの。コツ、教えて」


「コツって何」すみ姉がつまらなそうにつぶやく。「別にあんた、人前で話すの初めてって訳でもないでしょうに」

「成功させたいの」私は真っ直ぐすみ姉を見つめる。「上手くやりたい。意見聞かせて」

「発表の内容によるんじゃないかなぁ」さく姉。「状況、教えてくれる」


 私はさく姉とすみ姉に今度の課題について話した。本を二冊から五冊読む。それについて発表する。まずさく姉が反応した。


「そんな課題、あったねぇ」

「うそ。さく姉の頃からあったの」

「私もそんなんやったわ」すみ姉。

「私、確か尾崎紅葉の『金色夜叉』について発表したのかなぁ」さく姉。

「さく姉は趣味が渋すぎるんだよ」すみ姉。

「すみ姉は何について発表したの」

「確か行動経済学の『予想通りに不合理』と行動心理学の本を一冊ずつ読んで発表した気がする」

 すみ姉も十分渋いじゃん。そんなことを思う。


「あんたは何か読んだの。もうすぐなんでしょ、発表」

「うん」私は頷く。「お母さんの部屋にあった、『想い出大事箱』ってやつ」

「ああ」反応したのはさく姉だった。さすが国文学者。「高木彬光ね」

「誰それ」すみ姉。

「日本三大名探偵の内の一人を生み出した推理作家だよ」さく姉。

「高木彬光と、その家族についての考察を発表しようと思ってる」

 私がそう告げると、すみ姉がちらりと視線を上に投げた。


「じゃあ、家族心理学だな」

「家族心理学」何それ、と言うとすみ姉が説明してくれた。

「家族関係にフォーカスした心理学だよ。子供の成長と巣立ちとか、夫婦関係とか、核家族問題とか」


「家に本あるの」私が訊くと、すみ姉が答えた。

「私の部屋にある。『夏目漱石から読み解く家族心理学読論』ってやつだけど」

「読んでいい」するとすみ姉が笑った。

「二〇〇〇円」

「金とるのかよ」

「冗談だって」

 すみ姉はミートローフを頬張る。


「さっき言ってた、発表のコツだけど」さく姉が思い出したように口を開いた。

「熱意が大事だと思う。『これが好きなんです。こんなに詳しいんです。皆さん聞いてください』っていう」


「熱意」

 情熱、という言葉を思い出した。情熱。拓也が持っていたものだ。拓也が私にぶつけてきたもの。頬が熱くなるのを感じた。

「何照れてんの」すみ姉。

「照れてねーし」

「顔赤いけど」

「あ、赤くねーし」


「さては」さく姉。「彼氏と何かあったな」

 あ、そっか。私は一人、納得する。さく姉とすみ姉に話した時の「彼氏」は大介だ。この誤解は、解いておこう。


「あのね、この前話した『彼氏』は彼氏じゃなかった」

 意味が分からん、という風にすみ姉が首を傾げる。

「あいつ、無理やり私を襲おうとした。肩とか手とか触られた。胸とか脚とか見られた。『お前は俺の女だ』なんて意味の分からないことを言われた。そもそも、あいつに『好き』って言われたことなかった」


「それは彼氏とは言えないねぇ」さく姉。

「好きでもないのに触らせてたの。あんたそれ、都合のいい女だよ」すみ姉。


「でも今日……っていうかこの間、ある男子に『好きだ』って言われた」

 さく姉が目を輝かせる。

「どんな人」

「オタク」即答。

「一芸に秀でるタイプね」何故かすみ姉がフォローを入れる。


「最初は、そんなに好きでもなかったけど、『大切にする』『幸せにする』『愛してる』って言われてる内に、気持ちが傾いた」

 ひゅー。さく姉。「高校生が、『愛してる』」

「それ返報性の法則ってやつじゃん」すみ姉。「好きって言われたら好きになっちゃうやつ」


「でも、彼、真っ直ぐに私に『好き』って言ってくれたの」

「うんうん。それ、大事だよね」さく姉。

「あんたのこと大事にする奴ならいい奴さ、きっと」すみ姉。


「手、繋いだ。一緒にご飯食べた」

「いいなぁ」さく姉。「高校生はそういう些細なことも幸せに感じるよね」

「あんまり簡単にことを進めない方がいいと私は思うけどな」すみ姉。「男子はすぐ、調子に乗るよ」

「彼は慎重なの」私。「本当に、私のことを大事にしてくれる」


 うふふ。さく姉もすみ姉も笑う。

「青春しろ。女子高生」すみ姉。

「今度紹介してね」さく姉。

「うん」私はミートローフを食べ終わる。さく姉とすみ姉はとっくに食べ終わっていた。


「私、お皿洗う」

「あらあら」さく姉が頬に手を当てて笑った。「急に張り切っちゃって」

「さく姉、すみ姉、今までごめん」謝った。二人とも首を傾げる。

「心配かけた。迷惑かけた。悪口言った。喧嘩した」

「全部、貸にしといてやる」すみ姉。「いつか返せ」

「いいのよ。お姉ちゃんなんだから」さく姉。「いつでも甘えなさいね」

「ありがとう」


 私はお皿を洗った。丁寧に、磨く。それからお父さんの分のミートローフをお皿に盛ると、ラップをかけた。「食べてね」そんなメモを残す。


 部屋に戻った私は、まずジェームズのご飯をお皿に乗せて床に置いた。元気そうだな。ジェームズはお皿に顔を突っ込まず、びっくりしたように私の方を見上げてきた。


「心配かけてごめんね」ジェームズにも謝る。「私、元気になったから」


 そりゃよかった。ジェームズはつい、とお皿に顔を突っ込む。私はその様子を見ながら、机の前に座る。


 よし。


『想い出大事箱』を開いた。ポストイットを貼りながら読む。文字がするすると頭の中に入ってきた。時々、あいつのことを考える。


 拓也。あいつも今、準備しているのかな。


 遠くにいる彼を思う。あいつも私のこと、考えてくれているといいな。

 

 ジェームズが、ねう、と鳴いた。

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