彬光の家族
飯田太朗
第1話 母は、死んだ。
私には、母がいない。
死んだのだ。私が三歳の時に。
死んだ時、母は四〇歳だった。母は私を三七の時に産んだ。多分、高齢出産。でも初産ではなかった。私は上に姉が二人いる。さくらと、すみれ。それぞれさく姉、すみ姉。そう呼んでいる。
さく姉は母が二五の時に生まれた。すみ姉は二九歳。私とさく姉は一二歳離れている。すみ姉とは八歳差。歳が離れているから、私はずいぶんとかわいがられて育った……はずだった。
「ごめんね。お母さん、しんどくて」
母はしょっちゅう私に謝っていた……気がする。何せ三歳の時の記憶しかない。顔も朧気。何となくは覚えてる。遺影の写真で毎日見ているから、忘れはしないけど、写真だから動かせない。私は母の笑顔も、怒った顔も、悲しい顔も、全然思い出せない。
物心ついた時から家のことは全部さく姉がやっていた。当時中学生くらい。さく姉はいつもお母さんを心配していた……そうだ。これも記憶がない。次女のすみ姉が家事をするさく姉に代わって母の面倒を見ていたらしい。決まった時間に薬を飲ませたり、お風呂で体を拭ってあげたり。
私は当時「あー」としゃべれる程度の知能しかなかったから、毎日母を見て「あー」と言っていたらしい。さく姉が言うには、私は三歳にして幼児退行をしていたらしく、ほとんど赤ちゃんみたいなものだったらしい。
何もできない私の世話も次女すみ姉の仕事だった。長女さく姉が炊事洗濯掃除をやっつけ、すみ姉が母と私の管理。父は何をしていたかと言うと……これもよく知らない。いつも母の枕元に座って何事か話していたような記憶はある。家事や母の世話も……やっていた記憶はある。さく姉やすみ姉だけじゃできないことも多くて、そんな時はすぐさま父が駆けつけていた。
私の中の父のイメージは本を読んでいるイメージだ。いつも黙って、静かに。普通、お父さんと言うとリビングで新聞を広げているとか、ゴルフや釣りに夢中とか、そういうイメージだろうけど、私の父は毎日勉強しているイメージ。
夕暮れ。私は学校から帰る。部活はやってない。面倒くさいから。気合とか根性とか正直気持ち悪いと思ってる。だから運動部は駄目。吹奏楽部は半分運動部。だから駄目。文芸部とか新聞部とかいわゆる文化部はオタクの集まり。だから駄目。かと言って帰宅部なのかと言うと、私は帰宅拒否症。だから駄目。帰宅部とも言えないと思う。
毎日、学校やその近くで時間を潰して帰る。空いた教室とか、使われていない部室とか、カラオケとか、コンビニとか、公園とか。
「よお」
大介。金岡大介。私の彼氏。彼氏っていうか、よく分かんない。多分二人でカラオケに行ったり公園に行ったりするのはデートなんだと思う。「好きです」なんて言われたことないけど。彼は私の一つ上の先輩で「敬語とかダリぃから」と私に敬語を使わせない。
頭はよくていつも学年一桁……らしい。家もお金持ち。将来医者になる……ことが決まっている……らしい。ついでにイケメン、らしい。男子にときめいたことがないのでよく分からない。この先輩はいつも塾に行く時やその帰り道に私に声をかけてくる。
場所は大抵、藤沢の小田急線改札。私がよく出没する場所だからだ。先輩は駅から少し離れた駿台に通っている。塾でも成績はよくて人気者らしくて、たまにだけど女の子が先輩を見てきゃーきゃー言ってる。
「遊んでこうぜ」
「いいよ」
夕方……というか、ほとんど夜……の公園。薄暗い。ベンチ。二人並んでファミチキを食べる。ちょっと話す。学校のこととか。
「お前は俺の女だ」
時々大介は私にそう言う。意味は分からないが、肩を組んだり手を繋いだりする。そのことに特に抵抗はない……多分。ハッキリ言って、私の中の男子のイメージは小学生で止まっている。一言でまとめると馬鹿。どいつもこいつも馬鹿ばっか。
だから先の大介の発言も、手を繋いできたり肩を組んだりしてくることも、そんな馬鹿の内だと思っている。大体、私は誰のものでもないし。私は私だし。
けど、その「私」が何なのか、と訊かれたら、私は真っ直ぐには答えられなかった。たまにそのことについて考える。でも考えるとちょっと憂鬱になるから、途中でやめる。
「帰るね」
会話の途中。ほとんどぶった切るようにしてそう告げる。大介は笑う。
「今度チューしようぜ」
「しねえよ」
私は帰る。暗い道。街灯がアスファルトを照らしている。マンホール。踏む。ローファーの底がかつんと音を立てる。入学した時は、まだ靴底が柔らかかった気がするが、もうすり減って駄目だ。今度さく姉に買ってもらお……すみ姉でもいいや……。
「ただいま」
一応そう言う。さく姉が言えと言ったから。さく姉なんて、最近は研究が忙しくてほとんど家にいないくせに、私に「ただいま」を強要する。
すみ姉も仕事が忙しい。すみ姉は雑誌の編集者。最近昇進したらしく仕事が忙しい。よって帰宅は遅い。私が帰る時間にいることは少ない。
しかし、リビングに明かりはついていた。私はため息をつく。あいつがいる。あいつが……いる。
スクールバッグを廊下に放る。ドサッ。音がする。私がいることをアピールするためだ。早くそこを退け。そう宣告するためだ。
ぎい。リビングの扉が開く。あいつが出てきた……あいつが、出てきた。
「帰ったのか」
あいつがつぶやく。私はうんざりして鼻から息を漏らす。
「ただいまは、言ったから」
「そうか」あいつの声は抑揚がない。感情が一切読み取れない。私はそんなところが嫌いだ。嫌い……大っ嫌い。
「夕飯は餃子だ」あいつは続ける。「食うか」
「いらない」
餃子なんて嫌いだ。臭いにんにくが使われているから。大体、ファミチキ食ってきたし。
「どこへ行く」
あいつの言葉を無視して、私は足音荒く階段を上る。
「部屋」短くそう告げる。
「手を洗え」
あいつも短く告げてくる。
そういうとこ、似てるよね。
すみ姉の声が蘇る。ふざけんな。すみ姉殺す。お腹の中でそう毒づく。
あいつが繰り返す。
「手を、洗え」
「あー、もう」
私は階段を下りる。
「うっせえな」
「何だと」
あいつは私の目を覗き込んでくる。強い目。深い目力。咄嗟に反応する。
「近づくなっ」
ほぼ、怒鳴る。
「やめろよ、気持ち悪いな」
あいつは黙る。その目が、その顔が、たまらなく私を、刺激する。
「あんたなんか大っ嫌いっ」
吐き捨ててから洗面所に向かう。視界の端にあいつが見えた。私の目に映ったあいつは……少し、悲しそうにしていた。
私が怒鳴りつけたあいつ……私の父、名木橋明は、呆然としていた。白髪頭。黒い髪を見つけるのが大変なくらい真っ白なので、銀髪と言ってもいいかもしれない。堀が深くて目がキリッとしてるから、外国人みたいに見えなくない。けどジジイだ。今年還暦。つまり六〇歳。母と父は六歳差だったらしい。だから……母は生きていれば五四歳。まぁ、そんなことはどうでもいい。
私はあいつが嫌いだった。あいつの人の心を見透かすような目が、ハッキリとした強い目力が嫌いだった。人に命じるような物言いも嫌いだった。常に命令形でしゃべる。私にも。
手を洗った私はドスドスと階段を上る。あいつは再び告げる。
「夕飯は」
「いらねーつったろ」
二階の暗闇の中に私は踏み込んでいく。私の父、名木橋明。私はあいつが、大っ嫌い。
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