騎士の誓いを、花に添えて
朱鷺
01.マスカレイドの赤い瞳
かつて、花の楽園と称された、北の果てに、ある島があった。
島を目指していくものならば、だれもたどり着けない。まるで、魔法でもかけられているかのように。
観光マニアの間では、幻の花島と呼ばれていた。
セシル=カーマイン。
初代騎士団長でありながら、世界を救った英雄と囁かれたのち、堕ちた英雄となった、アリアの父だった。アリアは幼い頃から英雄だった父親のようになりたいと思っていた。
セシルが世界を救った後も、アリアは、離れて暮らすセシルのことをずっと思っていた。会えない寂しさから、泣きながら過ごした夜も少なくなかった。
しかし、堕ちた英雄と囁かれているうちに、アリアはわからなくなった。
何が悪で、何が、善なのかを。
マスカレイド地方はポン大陸の北に位置している、葡萄酒が名産品の小さな村がてんてんとある地域を指す。その中でも特に山岳地帯に近い村には、年に2回、豊作を祝う祭りがあった。
豊作にちなんで、力自慢大会が開かれる。腕に覚えのある奴なら誰でも自由に参加でき、優勝賞品は米俵一年分。
米俵一年分もあれば、家計が助かる、という理由から、大家族の大黒柱が出場することも少なくはない。
ジョニ=バーオンも、その中の一人だった、のだが。
彼は控えテントの隅っこにうずくまっていた。腹が痛いわけでも、人見知りなわけでもない。ただ、非常に気が弱く、酒の一杯でも飲んでいないものなら、彼は蟻より小心者だった。
巨躯の持ち主でありながら、非常に気の弱い、大家族の大黒柱であった。今回の出場も、酔っ払った勢いで言い切ってしまったものの、弁明のひとつもできないまま、あれよあれよと事が進んでしまったのだった。
「大の大男が、こーんな隅っこで丸くなってても、それなりの貫禄はあるもんだなぁ」
「マーレン。き、きみも、で、出るの……?」
ジョニの巨躯に比べると小人並みの身長の男がふらふらと歩いてきた。
マーレン。この村で知らないものはいない、女運のない男だった。
「おうとも! 俺、この試合で優勝して、彼女に告白するんだ〜」
マーレンの恋愛価値観は一言で言うと、変だ。
目に入った女性全てに声をかけては、薔薇やその時持っていた花を一輪ずつ手渡し、
「あなたのような美しい女性は見た事がない。俺、いや、僕と結婚してください、今すぐ!」
の、決まり文句のあとには左頬にビンタ。
おおよそ村中の「女」には声を掛けている。マーレンの執着心はそれはもう強いので、2回、3回と告白をされると、相手も呆れて首を縦に振らざるを得ない。何故なら、踏んでも蹴っても諦めないからである。そして先日、ようやく結婚の承諾寸前にありついたのだった。
執着心の強い、もとい強すぎる告白を断らなかったのはニーシャという娘で、村一番の美人であることから、街の方からも言い寄ってくるものは少なくない。
「米俵持って?」
「そ! ニーシャ、俺と結婚してくれ! あ、いや、俺のお嫁さんになってください! んん〜〜、いまいちピンこねぇなぁ」
何かいい案ある? とマーレンは甲羅の中に顔を引っ込めている亀のような仕草をしているジョニに声をかけた。
「うん〜〜、僕からは何も言うことはないよ」
「それにしてもおっかしいよなぁ、なんでお前みたいな気弱な奴に大家族ができて俺みたいなイケメンは孤独なんだ? なんつってな! すぐに俺も幸せ掴んでやるぜ!」
「おおー、がんばってー」
ジョニ、もはや棒読みである。
と、その時、どっと歓声が上がった。マーレンたちは何が起こったのかとぞろぞろと外に出た。
フィールドの真ん中で仁王立ちしていたのは、見たこともない女の姿だった。
マーレンは一目で心を奪われた。
「いい……」
「え? ちょ、ちょっとマーレン!? どこ行くの、まだ出番じゃ」
マーレンは完全に我を失っていた。まるで魅了でもされたかのように、真っ直ぐに、女の方を見つめていた。ジョニはこれはまずいと思ったのか、マーレンの肩を掴んで引き戻そうとしたが、マーレンは素早く身を屈め、制止に入る人々を次々に躱していった。
「マ、マーレン……」
ジョニは呆然と、友人の背中を見つめていた。
「おいおっさん」
「マーレン、なんだ、まだ出番じゃないだろ」
「順番入れ替えだ。この女は俺に任せてくれ」
「はあ? 連勝選手だぞ、お前なんか敵いっこない!」
マーレンは審判の制止も聞かず、柵をくぐり抜け、試合フィールドに入った。
「おや、次はあんたがあたしの相手をしてくれるのかい?」
マーレンはふらふらと女の近くまで近づいた。
(こいつ、あたしの覇気にも怖気づかないのか……!?)
「お嬢さん……」
会場がしんと静まり返った。観客、審判、選手たち、その場に居合わせた誰もが息を呑んだ。
マーレンは腰布に隠しておいた手品用の薔薇を一本、手のひらで咲かせてみせた。
「………………………………は???????」
長い沈黙を破ったのは、女だった。
張り詰めていた空気が、風船を割った時のように一瞬で笑いに変わった。
「マーレンお前懲りねえな!」
「村中の女に告白してまだ懲りねぇの!?」
「今日はニーシャに米俵送るんだろー!」
など、野次馬の声が飛ぶ。
しかし恋をしてしまったマーレンには、そんなものは届かなかった。
マーレンはその場に跪いてこう言った。
「俺と結婚……いや、あなたのような方はこれまで見た事がない。村の娘たちにもふっくらとした良さがありましたが、あなたには到底及びません。戦場に咲く、一輪の薔薇。そう、これは、あなたなのです。どうか、僕とーー」
野次馬の罵声を浴びながらも、淡々と愛の言葉を吐き続ける。
「僕と、一緒のお墓に入りませんか? あなたが嫌でも、僕は入りたいです。ああ、あなたと一緒なら、僕はどこへだって……ぐぶぉうっ」
不愉快度指数限界値を突破。
女は口上が終わるまで待てなかった。否、薔薇を出された時点で、背筋に悪寒が走り、全身に鳥肌が立ち、怒りがついに限界値を突破したのが現在。
女が繰り出した拳が綺麗にマーレンの鳩尾に入り、マーレンは場外、観客席まで吹き飛ばされた。
「……………………ふうっ」
マーレンを渾身の一撃で吹き飛ばし、いい汗をかいた、と言わんばかりの清々しいまでの笑顔を浮かべている。
観客席に突っ込んだマーレンは、ジョニに抱き起こされていた。さながら、姫を迎えにきた王子様のようだった。
ジョニの腕の中で目を覚まし、なおも女に勝負もとい結婚の申し込みをし続けているマーレンが哀れになってきたジョニはやめるようにと声をかけるが、マーレンはジョニの制止も一切聞かず、闘牛のように息巻いて女に向かっていっては投げられ、向かっていっては投げられていた。
それも36回を越えた頃……。
「あんた、いい加減しつこいのよ。何か用?」
「ああ、やっと声を出してくれたね。僕は君の、その小鳥のような声が聞きたかったんだ」
「うわ、無理、これもうムリ……誰でもいいから変わってよ……あ! そこのでかいの!」
「ええっ、ぼ、ぼくぅ……?」
ジョニは場外で岩に擬態していた……つもりだった……が、すぐにバレた。
ジョニは抜き足差し足忍び足で女に近づいていった。
「そうあんた! 早く来て! そしてこいつをなんとかして!」
「あのぉ、僕から一言、いい、かな……?」
「なに」
「あのぉ……マーレン、あなたに一目惚れしちゃったみたいだから、そのぉ……えぇっとぉ……」
「はあ? 一目惚れ? 冗っっ談じゃない! 踏んでも蹴ってもびくともしないのなんなの!」
「はは、はあ……だからそのぉ、イエスかノーかはっきりしたほうがいいと思うよ。僕からは以上です! それじゃ……」
ジョニは抜き足差し足忍び足で、テントがあった方へいそいそと逃げていった。
(イエスかノーかはっきりしろ? そんなのノーに決まってるじゃない! いやよ、こんな男と添い遂げるなんて! それに、あたしにはまだやるべき事が残ってるんだから!)
「やあ、ハニー。返答は決まった、かな……?」
(なんなのこいつ。投げても投げても起き上がってくるなんて……! 気持ち悪い! ムリ! むりむりむりむりむりむりむりむり!!)
アイシーンは深く深く息を吐いて、大きく息を吸った。
「あたしの名前はアイシーン。お嬢さんでも小鳥でもハニーでもない。投げても投げても懲りない、いえ屈しないあんたのその根性、恐れ入ったわ。でも、あたし、あんたみたいな男がだいっきらいなの」
だいっきらいなの、だいっきらいなの、だいっきらいなの……その部分がマーレンの体じゅうにこだまする。
マーレンはその場に膝をついた。
会場全体がざわつく。
マーレンはその時初めて、敗北を味わったような気がした。今までこんなにはっきりと拒絶してくれる女がかつていただろうか。誰も彼もが、ビンタで返答していた。正直、マーレンはその意味が分かっていなかったのだった。今初めて、はっきりと言われた時の、不思議な感覚が身体中を駆け巡っていく。
ああ……なんなのだ、なんなのだ、この不思議な感覚は。
ああ……気持ちいい……。
「しょ、勝者、アイシーン=レヴィアル!」
アイシーンとマーレン交互に見てから、審判が、ピッとまっすぐ手を挙げた。
アイシーンは勝ち誇った笑みを浮かべてマーレンを見下ろした。
「さ、他にはいないの、挑戦者は! こうなったら残っている奴ら全員相手してやるわ」
アイシーンは指をパキポキ鳴らし、周りを見回した。しかし誰も手を挙げなかった。
「こ、これは不戦勝ということで……」
「それでいいなら。さ、優勝したわよ、優勝賞品を」
「はいっ、こ、米俵一年分……持ってけドロボー!!」
「はい。たしかに。でも、これは出場選手全員に配ってやって。それじゃあね」
と、アイシーンは受け取った優勝賞品を審判に渡した。審判も、観客たち、出場選手たちもみんなきょとんとしている。
「ほ、本当にいいのか?」
「ええ。目的は達成したから。あ、それから」
アイシーンは未だ地面に膝をついたまま呆然としているマーレン声をかけた。
「あんた、名前は?」
「……マーレン=G=マキシマム、だ。お嬢さん」
「そ。ここまであたしを不愉快にさせた男はあんたが初めてよ、名前くらい覚えておいてあげる。それからあたし、お嬢さんじゃないから」
「いいや、俺にとってはお嬢さんでありハニーであり、人生最大の過ちだっっ」
「……………………」
(はああああああああああああ!?!?!?!?
まだ懲りてなかったのこの男!!!!!!!!)
アイシーンの額にとうとう血管が浮き上がった。
マーレンは立ち上がり、襟元をただした。
「俺は、俺は諦めちゃいねえ。絶対、俺と一緒の墓にはいってもら……」
「いい加減にしろおおおこのナンパ野郎おおおおおおおおおおおおおおお」
アイシーン、今季最大の拳が男の左頬にクリティカルヒットする。マーレンの体は地面にバウンドして、飛び石のように跳ねて観客席に突っ込んだ。幸い、観客席前に設置されていたクッションによって被害は最小限に抑えられた。
アイシーン=レヴィアル、王の近衛騎士として一躍有名になった平民からの成り上がりで、この国では、右に出る者は、一人しかいない。
凄腕女騎士としては有名だが、今年アラサーになるも、浮いた話は一切なし。大の男嫌いである。なお、王都騎士団には二つ名が用意されており、彼女は別名、
般若の
「はあっ、はあっ、ったく。これでもう懲りたでしょう。さようなら」
アイシーンが会場を後にしようとしたその時、マーレンはふらつきながら立ち上がった。
(な、なんなの!? あたしの渾身の拳を受けても、まだ立ち上がるというの!?)
「……そ。根性だけは認めてあげる。マーレン」
「!?」
(お、俺の名前を、呼んでくれた……のか!? えええこれって、脈アリ!?)
振り向かずにアイシーンは言った。
「もうわかった。あんたの好きにしていいわ」
「えっ……?」
「ただし! 条件がある」
「条件……?」
会場全体が息を呑んだ。
アイシーンはひとつ息を吐いた。
「王都騎士団に入りなさい。話はそれだけ」
ポカーン。
会場全体がそんな空気になった。
なによりもポカンとしているのは、マーレン自身だった。
その直後、会場がワッと称賛の声が上がった。アイシーンは会場を後にした。
会場を出たところで、灰色のフードを目深に被った少年がひょっこり顔を出した。
「やっちゃいましたね、アラサーさん」
「アラサーじゃないし。いちいちうっさい! そういうあんただって、たいして変わらないでしょうよ」
「……それはさておき」
「置くな!」
「レベラルさん、なんであの男を騎士団に誘ったんです?」
「あたしなりのジョークよ。まともに返事してたって、あいつは食いついてくる」
「ふうん」
「そんなことよりも、あんたねえ、喧嘩売ってんの? あたしの名前はレヴィアルよ! レ・ヴィ・ア・ル! わかってて間違えてるの知ってるんだから」
「それならいちいち訂正しなくてもいいじゃないですか」
「ああ〜〜〜〜もういちいちうるさぁーい」
「いやいや、ジョークにしては、酷すぎません? だって王都騎士団は……」
あんたといると一々つかれるわ、とアイシーンは首と肩を回した。
「それよりも! あんたの方は、収穫はあったんでしょうね?」
アイシーンは手のひらを少年に向けた。
「? お手」
少年はアイシーンの手に自分の手を乗せた。
「ちっっがうわよ!! 収穫したもの、寄越しなさいよ」
「僕がとってきたものですよ、自分で渡しますよ」
「あのね、手柄を横取りするとかじゃないの、確認したいだけ……」
人混みの中に、細身の体を軍服に包み、深緑色の薄汚れた外套を着た背の高い青年が立っているのが見えた。目深に被った軍帽の鍔を持ち上げ、冷ややかで鋭い視線を2人に注いだ。
「ご苦労」
青年は口元だけ動かし、人混みに紛れた。一切声は発していない。2人は、口の形だけでわかった。読唇術。唇の動きを読んで、相手の言っていることを理解する。王都騎士団にはそういった訓練を受けている者もいる。
そのあとすぐに村の外へ出て、待ち合わせ場所向かった。
村を出てしばらく進むと街道から逸れたところに森が見えた。森の中に入ると、透明度の高い泉のそばで、先程の青年が焚き火をして待っていた。
まだ陽も高いが、森の中は日陰が多いので、少し肌寒い。
「こんなところで野宿するつもりですか、あたしは嫌ですよ」
「……」
よく見ると、青年の軍靴とズボンと外套の裾が濡れていた。何があったのか、簡単に想像できてしまい、笑えたが、それは心の中に留めておくことにした。
アイシーンは目を細め、腕を組み、焚き火のそばに立った。
「ティルマ」
『青年』が声を上げると、一瞬、ティルマの赤い目が輝かせ、一冊の本を手渡した。
『青年』はティルマの頭をフードの上から撫でた。優しく、労るような。
それはアイシーンにとって、彼からは一生得られないものだから、この一瞬だけ、ティルマが羨ましいとさえ思ってしまう。
ティルマは、目元以外を布で隠している。アイシーンですら、彼の全貌を見たことがない。
王都を出た頃は、『青年』とアイシーンの2人だけだった。しかし、途中で立ち寄った廃村で『青年』が拾ってきたのだ。
ティルマと名付けたのも『青年』で、はじめ、ティルマはアイシーンのことを怖がっていたが、一緒に旅をしているうちにティルマは言葉を喋るようになり、今こうして減らず口を叩き合える仲になった。
しかしアイシーンは未だに、ティルマのことを深くは知らない。彼女はそんな些細なことはどうでもいいと思っているので、これ以上とやかく言って拗らせるつもりも更々ない。
ティルマが渡したのは、歴代の豊穣祭力自慢大会の優勝経験者のリストだった。
『青年』は黙ってそれに目を通している。
「……」
「載っていましたか?」
「……ああ」
アイシーンの問いかけには、素っ気ない。
アイシーンは、あからさまな態度にぐっと拳を握りしめた。
「セシル=カーマイン……」
『青年』はぽつりと呟き、紙面の匂いを嗅いだ。
「アイシーン」
腹の底から響く、重低音が響いた。
アイシーンは背筋をぴんと伸ばし、敬礼をした。
「はい」
「もっと噂を集めろ。魔導眼のにおいがする」
「えっ、あ、は、はいっ」
アイシーンは、『青年』が何故魔導眼を探しているのか、全く知らなかった。理由を聞いたこともない。
ただ、ある日突然アイシーンの前に現れ、こう告げたのだ。
「魔導眼を、潰す……!」
と。
「ティルマ」
「はい」
「お前は、どう思う?」
「えっ……?」
「魔導眼について」
「えっ、いや、ぼ、僕は魔導眼なんて知らないから……わ、わかりません」
「そうか」
『青年』の鋭い視線にティルマは体を硬直させた。額に汗がじわりと滲んで、握った拳にも、汗が滲んでいる。
『青年』は立ち上がり、外套の裾が乾いたからと、火を消し、焚き火の跡も消した。
森を出ると、街道で荷車が泥濘に車輪を取られて動けずにいた。
老婆がひとり、草原の中に座り込んでいた。
それを見つけるなり『青年』は老婆に駆け寄り、話しかけ、しばらくすると戻ってきて言った。
「シャルだ」
「……シャル? 他にもいろいろ話されていませんでしたか?」
「はあ……また面倒ごとを。ティルマ、手を貸して。車輪を戻すわ」
「は、はあ……?」
アイシーンは車輪を、ティルマは幌を横から押し、街道の舗装された道に車輪を戻した。
手についた泥を近くの小川で洗いながら、アイシーンは再びため息を吐いた。
シャル、というのは、この地方の方言で、魔物退治という意味だ。古代の方言なので、今となってはこの言語を使うのは大方、エルフ族かそれ関わる魔道士かそのあたりしかいない。
「いい? ティルマ。この地方でのシャルというのは、決してシャルロッテとかシャルロットとかいう娘の愛称でも名前でもないから。このシャルというのは、古代言語の方言で魔物退治を受諾した、という意味を持つの」
「は? するとつまり」
「その言葉通りよ。一度受諾した依頼はどのような理由があっても取り消せない。そしてその魔物というのが」
小川の水は氷のように冷たかった。
アイシーンは冷えた手をハンカチで拭い、太陽が落ちかける夕暮れ空を見た。
「セシル=カーマイン」
ティルマが素っ頓狂な声を上げた。その声は広い草原に響き渡った。
「セッ、セシル=カーマインって、大英雄じゃないですか! なんでそんな人が」
「セシル=カーマインは、堕ちた英雄。……そう、あの御方は、大英雄だった」
「……え」
アイシーンはふっと目を細めた。遠くを見ているかのように、ティルマは感じた。まるで、遠い遠い、昔を思い出しているかのような。
アイシーンがまだ王都騎士団に入隊するずっと前。
ずっとむかし。ずっと前のような、でも、つい昨日のことのような。
「……セシル様はね、太陽のような方だった。誰にでも好かれて、この人がこの国を再建してくれる、誰もがそう思っていた。でもある日、セシル様は突然姿を消してしまって……その後、風の噂ばかり耳にして、あたしたちは不安な思いを抱いて日々を過ごした。セシル様が帰ってきてくれることを願っていたけれど、それは叶わなくて。セシル=カーマインは、堕ちた英雄になったと、旅の先々で聞いたわ。それを聞くたび、胸が締め付けられて……あたしたちは、彼を探している。真実を確かめるために」
「あたし、たち……?」
「さ、この話はおしまい。戻るわよ」
「アイシーン」
「なに?」
ティルマはアイシーンの話を聞いているうちに、ある不安を抱いた。
胸元のリボンをぎゅっと握りしめて、ティルマは真っ直ぐに、潤んだ瞳をアイシーンへ向けた。
「アイシーンたちは、突然、僕の前から消えたり、しないよね……?」
それを聞くなりアイシーンは一瞬キョトンとして、ティルマの肩を叩いた。
「なーに言ってんの。そんなことあるわけないでしょ」
アイシーンは白い歯を見せて笑った。そしてすぐに踵を返して、荷車の方へとむかった。その背中を、ティルマは潤んだ瞳で見つめていた。
夕暮れのオレンジ色の光が、アイシーンを包み込んでいく。
ティルマはぽつりと呟いた。
「そんなこと、あるんだよ……」
ティルマの赤い大きな瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ、丸みを帯びた頬を滑り落ちた。
騎士の誓いを、花に添えて 朱鷺 @tyukilliy-x
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