ポチ

阿部 梅吉

ポチ

 自分の名前が嫌いだ。

 自分の名前は、「ポチ」がいい。

 金さんが半年前くらいにつけてくれて、それから姉ちゃんも僕のこと、そう呼ぶようになった。

 金さんは頭が良い。何しろ姉ちゃんの「かれし」だから。

 姉ちゃんは、好きだ。姉ちゃんは綺麗で、高校生で、そこらへんのどんな女よりきれい。モデルにでも女優にでもなれる。大抵の男は姉ちゃんのことを見て振り返る。先生だってそうだ。中学を卒業したとき、姉ちゃんは副担任のおとこ、名前は忘れた、と春休みにどっか行ってた。家の前であいつの車から出てくるのを見たから間違いない。

 でも高校に入ったら姉ちゃんは金さんに会って、あっさりほかの男との付き合いをやめた。

 金さんは頭が良くて、姉ちゃんと「とりこみ」しているとき以外は本を読んだり、何か難しいことを書いたりしている。ここらへんでは有名な進学校に通っていて、僕も二次関数と英語を習ったことがあるけど、よくわからなかった。僕はその間、息も聞こえてきそうなほど近くにある金さんの顔をじっと見ていた。金さんの顔は不思議な顔で、けっこう「いけめん」な部類だと思うけど、なんとなくつかみどころがない。何考えているのかわからない。姉ちゃんも金さんのこの顔が好きなのかなと思う。

 金さんは金さんで、姉ちゃんと付き合う前にはいろんな女の人と「とりこみ」していた。なんで知っているかというと、僕の方が姉ちゃんより金さんとの付き合いが長いから。

 姉ちゃんと金さんが「とりこみ」するようになっても、初め金さんはほかの女とも「とりこみ」していた。でもほどなくして、金さんは姉ちゃんとしか「とりこみ」しなくなった。

 僕は、金さんと秘密を共有している。



 何回目かの「とりこみ」かは忘れたが、僕の家で金さんと姉ちゃんが「とりこみ」することがあった。姉ちゃんは僕から見てもめちゃくちゃくちゃきれいな体と顔をしている。白くて、透き通っていて、目がまん丸で、宝石みたいだ。腕も折れそうに細くて、足は鹿みたいにどこか行ってしまいそうで、髪は少し薄い。僕と大違いだ。僕は肌が黒くて、髪だって縮れている。

 姉ちゃんはいつも――僕が「ポチ」と呼ばれる前の話だけど――「あんたはかわいい」と言ってくれた。姉ちゃんには悪いけど、その言葉を信じたことは一度も、ただの一度も無かった。

 だって、みんな姉ちゃんしか見ていなかった。みんながみんな、思わずため息をついて、視線を嫌が王にも縛られるほどに人を惹きつける姉ちゃんを見て、フランス人形が息しているような姉ちゃんを見て、そのあとに僕を見て、みんな同じような反応をした。

みんな姉ちゃんと僕を、二度見比べる。

「ほんとうにこいつはあの子と血が通っているのか」、と。

時には、「この子とは親が違うんですの?」とはっきり言われたこともある。要するに僕と姉ちゃんはなんも似ていないのだ。

 僕の真っ黒の目と髪と肌と、ぐるぐるになって櫛さえ通らない髪の毛と、ガリガリの手足を見るたびに、僕は髪をむしり、腕を傷つけた。

 誰も僕の容姿について何も言わなかった。言うだけの価値が無いのだ。あるいは、本当のことを言うのはとてもじゃないけれど言えない、本音は自分の胸にしまっておこう、とでもいうように、いつも僕には悲しそうな顔を向ける。

 姉ちゃんを見てうっとりして、心奪われたその瞳は、時に容赦なく僕に冷たく降りかかる。


  僕を可愛いと言ったのは、生涯で姉ちゃんだけだ。これは紛れもない事実である。

 女にも男にも(当たり前だが)、まして先生でさえ、僕のことを可愛いと言ってくれる人間なんてだれ一人いなかった。

 姉ちゃんだけは、僕を可愛いと言った。ばかみたいな考えだ。実際ばかなのかもしれない。

おそらく姉ちゃんは僕を買いかぶっている。兄弟だから可愛いと思えているだけで、僕が姉ちゃんと血がつながっていなかったら、きっと可愛いなんて言われなかったんだ。きっと。

 姉ちゃんは「もうもく」なんだと思う。

 いつも大嫌いなシャンプーとドライヤーの後で、きしきしの僕の髪を触りながら、「Hは(これは僕の本名だ)本当に可愛い」と言った。

 厄介なのは、それを姉ちゃんが心の底から言っていることだった。

 姉ちゃんは何も悪くない。だが、僕には姉ちゃんの言葉が響いたことなど一度もない。割れたグラスに水を注ぐのと同じくらい、意味のない言葉だった。意味が無いだけならまだよかった。それはただ通り過ぎるだけでなく、僕の腹の奥深くに、何かしらずしんとくるような、シールか何かがくっついてまったく剥がれなくなってしまったかのように、僕に「何か」を重く、しかし確実に植え付けた。

 要するに僕が誰よりも醜いってこと・・・・・・。 



 姉ちゃんは中学時代、もう本当にモテにモテた。同じクラスの男の半分は姉ちゃんに恋してたんじゃないかと思う。

 他校にも姉ちゃんの噂は知れ渡っていて、帰り道に連絡先を書いたメモを渡されたりしていた(大抵家に帰ると真っ先に処分していた)。あらゆる男が――時には「男以外」が――姉ちゃんを目で追い、時には触った。

 その方法は僕が知っているだけでもいろいろあった。



 金さんと姉ちゃんが初めて「とりこみ」したときも、姉ちゃんは金さんのことを何一つ知らないまま事を終えた。なんでそんなことがわかるかというと、僕はその一部始終を見ていたからだ。


 雨が降るか降らないかのどんよりとした曇り空の日、いつものたまり場で(金さんの金持ちの子分みたいなやつが持っているアパートの一室だ)、姉ちゃんは三人くらいの男に脱がされていた。初めは姉ちゃんだとわからなかった。たまり場にはいっつも女がいて、大抵金さん狙いの女なんだけど、そのいつもの顔ぶれかな、と思っていた。いつもより女の声がしないし、一人に三人がかりになっているのも珍しいなとは思ったけど、さほど気にしていなかった。視界からはつるりとした白い綺麗な膝だけが見えていた。

 時折、荒く息を吐く音がした。彼らは乱暴にはでず、丁寧に姉ちゃんの服を脱がせていた。しかしどちらにせよ、姉ちゃんの逃げ場はなかった。喧嘩の強い男三人が相手なのだから。

 姉ちゃんはおとなしかったのだろう、一つ一つゆっくりボタンを外された。服に破れは無かった。ブレザーとリボン、それにワイシャツがソファの後ろから落ちて、床に転がった。それまでは女の顔なんて気にしていなかった。それが姉ちゃんだと気づいたのは、金さんが部屋に来てからだった。

 金さんが部屋に入ってきた途端、男たちは金さんに一斉に挨拶した。いつもの五月蠅い声で。そこで男たちは姉ちゃんの鞄やら所持品やらについて説明した。そこで僕は初めて、むこうの部屋にいるのが姉ちゃんだと気づいたのだ。

「生徒手帳を見たので、間違いないです」と男は言った。

「大丈夫。間違いないよ」と金さんは言った。

 その後金さんは手で男たちに「出て行け」と合図した。僕はまだ金さんと姉ちゃんを見ていた。

 二人のいる部屋には、奥にちょっとしたスペースがあった。なんのスペースかはわからない。旅館とかでよくあるやつだ。窓があって、椅子一つ入る分の狭さしかない、ちょっとしたスペース。とにかく僕はそこで宿題を、学校から出た二次関数のプリントをやっていた。案の定さっぱりわからないわけだが、やらないわけにはいかない。本当のことを言うとそんなことにはさっぱり興味もなかった。二次関数よりも遙かに大事なことが今まさに行われようとしていたわけだが、ただ、これをしないと、このプリントを見ないと、僕はなんか……バラバラになってしまいそうだった。

 実際にバラバラになったのだろう。交点も、式も、図形も、何もわからなかった。以前金さんが式と式を合わせる、とかなんとか言っていた気がするけれど、まったくわからなかった。プリントを見るふりをして、僕は部屋を覗いた。幸い金さんには気づかれていないみたいだった。

 姉ちゃんの顔は見えなかった。でも確かに制服が一致している。さっき男が言った名前も一致している。間違いなくここにいるのは姉ちゃんだ。でもそれでも、顔を見るまで、僕は姉ちゃんだと「言えない」。

 僕は姉ちゃんの顔が見たかった。あの綺麗な姉ちゃんのことだ、金さんと「とりこみ」してどれだけ美しく啼くのか、それとも醜くなるのか僕にはわからなかった。ただ見ることだけはやめられなかった。



 声は、しなかった。

 布のこすれる音だけが響いた。息さえも聞こえない。静寂が訪れる。数学のプリントが風に揺られて音を立てそうになったが、必死で抑える。

 次第にぴちぴちゃと舌が肌を伝う音が聞こえてきた。かすかに女の高い声も。でもそれは本当に小さかったから、僕の幻聴だったのかもしれない。


 それは1分くらい続いた。

 実際はもっと短かったかもしれない。

 すべての息を、殺していた。

 ここは宇宙で、重力が無くて、今僕は息をすると死んでしまう。そう自分に言い聞かせた。

 微かに、金さんが息を吐く音が聞こえた。

 姉ちゃんが金さんの背中に強く指を押していた。抱きしめるというよりも、強く何かにすがるように、金さんの背中に何か跡をつけるように、強く、強く押していた。全ての細い指が意志を持って金さんの学ランにしわを作っていた。

 悲しいことに、金さんの学ランの布は厚かった。背中にはおそらく跡が残らないだろう。姉ちゃんの指は全て必死に耐えて、何かを伝えていたが、翌日には、いや、数時間後には何にも爪痕を残さない。

 下に視線をずらすと、金さんの腰にも、震えた姉ちゃんの足が絡みついてた。遠目からでもわかるほどに震えている。

僕は意味も分からず震えた。

 喜怒哀楽のどれでもない、まったくどれにもあてはまらない、初めての感情だ。どうすればいいのかはわからない。金さんなら、この感情の言葉を教えてくれるだろう。でもその金さんに聞くことすら出来ない。

 ずっと見ていたい。

 それなのに、見ていたくない。目を逸らしたい。でも、永遠に閉じ込められたい。得体の知れない感情が足の先を這い、腹まで伝ってくる。自分の中に別の生き物が住んでいるみたいに。

 姉さんの太ももは動いていた。僕はそれを見て、おかしな話だが、心底泣きたくなった。

 姉さんの太ももはきれいだった。誰よりもきれいだった。僕みたいにいつできたかわからない痣なんてないし、白いし、細いのに、太ももだけにはちょっと肉があって、きっと触ったらすべすべで、僕なんかと大違いで……

 本当にどんな人間よりきれいで、価値のある太ももで。





 震える姉ちゃんの足を見て思い出したのは、昔、僕が池で溺れたときの記憶だった。



 僕と姉ちゃんはとある公園にいた。池があって、その中には大きな岩がいくつもあった。岩をひとつひとつ歩いて行けば、その池を渡りきることが出来た。僕は姉ちゃんと手を繋いで池の上の岩を歩いた。

 ゆっくり一歩一歩、足を進める。姉ちゃんはその日、膝上のジーンズを履いていた。後ろから姉ちゃんの太ももと膝裏が見えた。上にはパーカーとTシャツを着ていた。

 姉ちゃんの手は温かかった。七年前、当時十歳の頃から、姉ちゃんの美しさは完成されていた。指は長く、爪は丸く細長く、肌は白く、毛の一つも見当たらない。さらさらして、でも暖かくて、ずっと握られていたかった。三つ下の僕でさえ、惚れ惚れするほどの美しさだった。

 池の向こう側では、お母さんのお姉さん、淳子おばちゃんが僕らを呼んでいた。当時僕らは淳子おばちゃんの世話になっていた。今でも時折、淳子おばちゃんは僕たちにお金をくれる。

 僕が勢いよく一歩を踏み出そうとしたとき、視界は突如ブラックアウトした。

 さっきまで見ていた淳子おばちゃんと姉ちゃんの背中は突如消えた。あるのは、ただの灰色の世界。

寒い。全身が寒さで覆われ、重くなる。どんどんどんどん重くなる。腕を動かす。動かなくなる。


 「歩智(ふさと)」


と上から声がした。女神のように暖かい声。 

 気がつくと、僕は車の中にいて、姉ちゃんのパーカーにくるまって寝ていた。

 淳子おばちゃんがひたすら謝りながら、僕を質問攻めにした。僕はただ寒く、とてもじゃないけれど質問には答えられなかった。ただとてつもなく寒かった。あのまま閉じ込められてしまったらよかったのにな、と思った。そうすれば寒くなかったかもしれない。

「起きた」と姉ちゃんが大きく息を吐いて言った。姉ちゃんは僕の左手を握っていた。

「寒い?」と姉ちゃんが聞いた。

「うん」と僕は言った。

姉ちゃんが自分のパーカーで、僕の腕の水を拭った。パーカーは染みてどろどろになっていた。

「帰ったらお風呂に入ろう」と姉ちゃんが言った。淳子おばちゃんはずっと僕に謝っていた。


歩智……。


まるで初めて元素記号のような、無機質で不思議な気分だ。自分の名前を聞いてもいつもしっくりこない。きたことがない。

 

 僕はポチだ。

 あの人がつけてくれた名前。

 あの、誰よりも頭が良くて魅力的で、姉ちゃんとお似合いの人がつけた名前。


 歩って「ポ」とも読めるかな。

 お前は犬っぽいからポチだな。

 こっちこい、骨あげるよ。


 いらないよ、って言い返すのが心地良い。

 屈託なく笑うその人の、貴重な笑顔……





 池に落ちたあと、僕は結局姉ちゃんに言われるがままに一緒に風呂に入った。

 泡だらけにしたお風呂の中で、僕はずっと姉ちゃんを見ていた。女の僕から見ても、姉ちゃんの裸を見ると多少なりともドキドキする。姉ちゃんは僕の体を「あわあわ」にして洗った。僕は自分でできると言ったが聞かなかった。

 あがった後、淳子おばちゃんと一緒に三人でアイスを食べながら髪を乾かした。長くてちぢれた、僕の真っ黒の髪を。

 姉ちゃんの髪はさらさらで、肩につくか、つかないか。本当に姉ちゃんはどこをとっても綺麗なんだ。神様がとってもとっても頑張って作ったんだ。それくらい姉ちゃんは綺麗なんだ。

 でもこの世界で唯一、お母さんだけは姉ちゃんのことを「きたない」って言う。なんでかはわからない。

 僕はお母さんの言うことも信じてない。だってそれ以外の世界中の人間は、みんな姉ちゃんのことを見ている。


 お母さんは僕のことだってブスって言う。まあそれに対して特に反論はない。

「歩智(ふさと)の髪、かわいい」

姉ちゃんは僕の髪を梳かしながら言った。梳かしている間、毎回櫛に髪が絡まってしまう。抜け毛だらけの櫛を手に、もう片方の手で僕の髪を撫で、誰にも頼んだわけでもないのに真っ黒になった僕の肌を、ガリガリで浮き出た僕の鎖骨を姉ちゃんが撫でて、

「かわいいけど、もうちょっと太らないとね」と言った。ドライヤーは面倒だからもういいと言ったが、姉ちゃんは聞いてくれなかった。僕は髪を乾かすのにすごい時間がかかる。でも、お母さんは髪を切ってくれない。


「姉ちゃんの髪も乾かす」僕はドライヤーを奪おうとしたが、だめだった。

「まだ終わってない」

「やだ」

 僕は姉ちゃんから無理やりドライヤーを奪った。僕は姉ちゃんの背後に回ろうとした。そのとき小さく、

「あつ、」と声がした。

 見ると、姉ちゃんの耳が真っ赤になっていた。ドライヤーを近くであてすぎて、火傷したのだ。僕のせいで。

 僕はよくわからなくなってドライヤーを切った。

 床に置いて、そのまま横たわらせた。音のしないドライヤーは、なんだか死んだように見えた。なんだかひどく泣きたかった。






 金さんに奥に入られた姉ちゃんは、次第に声を出し始めた。

「あぁ、、、」

高い、我慢できないような叫び。聞こえたくなくても、聞きたくても、勝手に聞こえてくる。

「あぁん、ぁ……」小さい声が反響する。ああ、ああと頭の中で、響く。

 僕は少し前に乗り出す。まだ姉ちゃんの顔は見えない。

 きっとこいつは姉ちゃんじゃない。なんてことはない。もうわかっている・・・・・・。わかりきっているのだ……。

 ソファの上で金さんに組み敷かれている姉ちゃんは、重力の影響を存分に受けていた。ソファに体を預け、足以外を沈み込ませ、僕からは見えないようにしている。

 もう少しつま先を立てれば、見えるかもしれない。

 少しだけ背を伸ばす。

 金さんが激しく体を揺らす。古いソファは危なっかしげに揺れていた。ぎ、ぎ、とそれは音を立てた。

 もう少し。もう少し。僕は足を伸ばす。

 「ん、ん・・・」

 姉ちゃんは涙声になって、鼻をすする。ひく、ひく、とリズミカルに音を立てる。金さんは何も変わらない。ただ体を揺らし、目の前の女をじっと見据えている。

 姉ちゃんの体は揺れ、足が震える。なんとか臍まで見える。膝のあたりに白い下着が脱ぎかかっていた。白くて、青いレースがついている下着。

「あの、やめ・・・お願い・・・おね・・・がい・・・」

 消え入るような声が聞こえた。高い声だ。でも、知らない人の声だ。僕の知らない女の声だ。

 その叫びに答えはなかった。金さんはただ体を揺らし続けた。

「やめ・・・、もう・・・」

 静かに、そうすることが何よりも正しいことのように、金さんはソファの下に落ちている女のブラウスを拾った。まだ繋がったまま・・・・・・。

 瞬間、僕と目がばちりと合った。

 ライオンのようなその目が僕を捕えていた。金さんは僕を見ている。まっすぐ。僕だけを見ている。僕を、この僕という一点を。ずっと僕をまともに見てくれなかった、あの金さんが。

 体が硬直した。汗さえも流れが止まる。そのまま時間が止まったようだった。

 1秒が1分くらいに感じられた。逸らしてはいけない――。 僕の本能が、全細胞がそう伝えていた。

 しかし金さんは僕を見るなり、ふ、と笑い、素早く人差し指を立てて口に持って行った。それはほんの僅か、手にしたコップの水が床に落ちるまでと同じくらいのほんの僅かな時間だったが、僕はそのジェスチャーの意味を理解した。同時に、何も動けなくなった。

 その指で金さんはブラウスを棒状にし、女の目を覆った。

 「やめて、おね・・・が、い、」

 金さんは自分の唇で女の唇を塞いだ。



 そのまま姉ちゃんはぐったりしていた。全てが終わった後、姉ちゃんの意識があったかどうかはわからない。何しろあれから目隠しされたまま終わってしまったのだから。

 まだ僕には、姉ちゃんの顔を見ていないという「言い訳」があった。まだ僕の中では、目の前の女が姉ちゃんではないとも言い切れた。

 ただ、そんなはずはないともわかりきっていた。

 彼女は――僕の知らない女は腰と太ももを微妙に震わせ、足を開き、唾液まみれになった体を惜しげも無く世界に見せびらかせていた。彼女に意識はないのだ。何も見えていないのだ。微かな歯形と内出血の跡を残したまま、その体は重力に全面的に降伏して落ちていた。


 彼女は落ちていた。自分ではない何者かに押されて。

 体一つすっぽり入る程度の小さなソファだけが彼女を沈ませ、包み込んでいた。それが唯一の彼女ができる、世界への抵抗だった。

 終わった後、しばらく金さんは彼女の反応を見ていた。臍をとんとんとつつき、頬を叩いた。時間を置き、反応がないことがわかると、ゆっくりと自分の物を抜いた。そのまま自分の服を着込んで、彼女にも丁寧に服を着させた。

 白く、青いレースのついたパンツと、おそろいのブラジャー。姉ちゃんはいつもブラとパンツを合わせて使う。そうじゃないと絶対に着ないのだ。

 金さんは溜息をつき、彼女にブラウスを着せると、そのままボタンをつけずに放置した。と思うと鞄から何か本を取り出し、それを熟読し始めた。遠目からだが、その本には『この人を見よ』と書いてあった。

 僕は正直に言って混乱した。ついさっき姉ちゃんの中に出した人が、今は真剣に何か難しい本を読んでいる。その温度差に、世界の多様性に僕は混乱していた。

 でも、真剣に本を読んでいる金さんを、まるでそれが世界使命であり、誰もが行う正しいことであるかのように熱心に読んでいる金さんを前にしたら、世界とはそういうものなのかもしれない、と思い始めた。考えてみれば全ての子を持つ親は生殖活動をしているわけで(これは金さんに習ったことだ)、その人たちだって、日々本を読んだり、真面目に会社勤めをしているわけで、考えてみれば何ら不思議なことではない。


 そのまま何も訪れない、ただの空白が五分ほど経過した。実際はもっと短かった、或いは長かったのかもしれない。とにかく、人生で一番奇妙な静寂を僕はやりすごした。

 金さんは溜息をつき、もう一度姉ちゃんの頬を叩いて、反応がないことを見ると、僕の方を振り返って、一直線に向かってきた。いきなりのことだったから僕はなんの身構えも出来なかった。そもそもこの人にとって身構えなんかしても意味の無いことなのだが・・・・・・。

「後は頼む」

 それだけを短く言って、金さんは部屋を出て行った。来たときと全くおんなじ格好で。

 姉ちゃんはただだらんとソファに横たわっていた。



 僕は寝ている姉ちゃんの顔を見ずにブラウスのボタンを全部取り付け、姉ちゃんの鞄を漁ってその中の携帯の音量を最大にしてから部屋から出た。

 そのままアパートを後にし、帰り道の途中で姉ちゃんに電話をかけた。すぐには出なかった。

 このまま繋がらなかったらいいのに。僕は思う。今かけているのが全く知らない女で、その女はどこにでもいるただの普通の女で、妹などいない一人っ子で、池に溺れたことがあればいいのに。



 このままその女は落ちてしまえばいいのに。



 十コール目でコール音は途切れ、何秒かの空白の後、


「はい・・・」


と力の抜けた姉ちゃんの声が聞こえた。


「姉ちゃん、今日は何時に帰ってくる?」

 僕はいつも通りの声を出した。

「そうねえ・・・。いま、そういえば、何時だろう・・・」

 いつもより気怠いような姉ちゃんの声を聞いて、変な話だが、また泣きそうになった。













 

 

 


 


 


 


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