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「しかし、小舘。お前の演技はなかなかのものだったな。危うく本当にお前が悪魔だと信じるところだったぞ」


「いやぁ、久々に本気で役者してみましたけど、思った以上に入ってきましたねぇ。もう一度、役者人生を目指してみようかな」


「この計画はお前が考えたのか?」


「いいえ、確かこの企画は羽生の案だったよな」


「いや、俺は野津さんから聞きましたよ。岩波課長をねぎらいたいからと」


「あら、私は勝田さんから」


「ぼ、僕は森島さんから聞きました」


「おやおや、私は小舘さんから聞いたのですがね。ほら、あれじゃないですか。この前、私と小舘さんと野津さんで飲みに行ったことがあったでしょ。あそこで課長の誕生日会をやるような、やらないような話をしませんでしたっけ?」


「そうですか? するみたいな話はしましたけど、サプライズにするとまでは決めてなかったと思います」


「まあまあ、細かいことは気にしなくていい。私を思ってやってくれたんだろう。誰が提案したとか、そんな野暮なことを聞いた私が馬鹿だったよ」


「課長〜」


 一同は声を揃えて上司の名前を呼んだ。元組織犯罪対策課の勝田に至っては敬礼をしている始末である。そんないつも通りの捜査一課に戻ったN県警の四階廊下は和やかな雰囲気に包まれた。建設当時の面影などどこにも残っていない薄汚れた白い廊下で七人の男女はお互いの健闘を称え合った。



 ん? 七人?



 岩波はあれ、と思った。自分と一緒にテープを聞いていたのは六人、そしていま美千代が加わって、この廊下にいるのは全部で八人になるはずじゃないか?


 しかし、見回して数えてみても七人しかいない。自分、美千代、小舘、森島、羽生、勝田、野津……


「おい、坂本はどこ行った?」


 捜査一課の若手のリーダー的存在で、後輩の面倒見のいい坂本雅樹がいないことに岩波は気づいた。どこに行ったんだ? 用事で先に帰ってしまったのか? そう周囲に尋ねるが、誰もうんともすんとも答えない。困惑していると、小舘が恐る恐る口を開いた。


「課長、サカモトって誰ですか?」


「えっ?」


 廊下はしんと静まりかえった。まるで「かの時計」を使って時間が一分前に遡ったみたいに、あたりは緊張感に包まれた。


「い、いや知らないはずないだろう。N県警の若手のホープとして期待されていた坂本雅樹だよ」


「い、いえ、捜査一課にそんな奴はいませんよ、課長」


 二児の父、森島が戸惑った表情で訂正を入れた。岩波は慌ててあたりを見回した。誰も彼も坂本という名前に心当たりはないようだ。


「野津くん、君なら分かるんじゃないか? 停電が起きたとき、坂本と一緒に様子を見に行くと言って部屋から出て行っただろう」


「いいえ。私は一人で様子を見に行きましたよ」


「そうですよ。俺も見ましたから間違いありません。サカモトなんてやつは今回の企画に参加してませんし、もともと捜査一課にサカモトなんて苗字の人はいません」


 小舘の訂正に他の者も頷く。停電時に捜査一課から出てきたのは野津一人だけだったと他の人も証言していた。


 しかし、しかし私は確かに知っているのだ。サカモト雅樹という人物を。彼はN県警の若手のホープで、後輩の面倒見がよく、将来の幹部候補に上がっていた男だ。出身は……、そう出身は……、違う違う、出身は知らない、出身高校だ。彼の出身高校はかなり有名なところなんだ。そう、野球じゃなくて、国体じゃなくて、合唱コンクールでもなくて、なくて、なくて、なくて……。


 思えばサカモトに関する知識が全く出てこない。部下の情報は事細かに知っている岩波にそんなことはあってはならないはずなのに彼に関する情報が一切出てこない。


 いや、


 そもそもサカモトなんて苗字の知り合いがいただろうか?


 あれ?


 サカモトって誰だっけ?







 地方都市の夜風を浴びながら、街頭の影にひっそりと建てられた歩道橋の上をかつてサカモトと名乗った男は歩んでいた。右手には岩波という還暦の男が落としていった「怒り」の果実。それを彼は、背を伸ばしてかぶりつくと、果汁を垂らすことなく食べ切った。美味、実に美味な「怒り」であった。誰かを憎み、呪う「怒り」ほど極上の果実はないが、相手を思い、正すために発する「怒り」もまた潤沢な味わいを有している。


 これら二つの優劣を批評するほど無駄なことはない。言うなれば脂の乗ったステーキと噛み応えのあるステーキ、どちらが素晴らしいかなど個人の好色に左右されよう。それと同じ、些末なことである。


 歩道橋を降り裏道に入る。人通りのない往来。そこに一人の初老の男が立っていた。野球帽を目深にかぶり、チェック柄の上着と履き慣らしたジーパンを身につけている。


「やあ、兄ちゃん。仕事は楽しいか?」


 かつてサカモトだった男に気づいた老人はそう言いながら笑みを浮かべて彼に近づいた。突っ込んだ彼のポケットからは銀色のチェーンが垣間見える。そう、懐中時計につけるような金属のチェーンだ。


「そういうあんたこそ、『仕事』は楽しいか?」


 男の言葉に老人の笑みは消えた。まるで企みが見破られたことに憤るように男のことをじっと見つめる。目は確認できないが、見られているという意識があった。


 しかし、ややあって老人は再び笑みを浮かべる。


「ああ、あんたか。元気そうで何よりだ」


 そして瞬きの間に老人は消えた。どうせ「本物」を使って逃げたのだろう。相も変わらず逃げ足の素早いやつだな、と男は微笑を浮かべた。大通りの方からは走行音に混じってパトカーのサイレンが聞こえる。


 もしかしたら自分のことを探しているのかもしれない。いや、それはないな、と男はかぶりを振った。あんな頭の中がお花畑の連中に私の正体を掴まれてたまるものか。


 男は微笑を浮かべたまま夜の闇に消えていった。

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