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 足取りが重い。ここまで一歩前進するのに苦労したのはいつ以来だろう。親しかった高校の同級生が殺人を犯した時か、交通事故にあった時か、どっちにしろ自らの死に向かって歩くときほど人間の歩みは鈍重なものだろう。東京裁判で死刑判決が言い渡され、十三階段を上った東條英機らもこんな気持ちだったのだろうか。


 人の皮を被った化け物、なんの躊躇いもなく自分の名を残すために多くの人を殺した小舘晴久=サタンは岩波のことを先導すると、ゆっくりと捜査一課の扉を開けた。まるで地獄の門を開けるかのように。


 いや、彼は地獄の番人なのだから「ように」ではなく「開ける」のだ。本来なら捜査一課の部屋を出るとN県警の廊下が広がっている。薄汚くて、建設当初の近未来感ある真っ白な面影はもはやどこにも見えない廊下。だが、今回その先に待つのは地獄。一体、どんな景色なのだろう……。



!」



 その掛け声と同時に複数のクラッカーが割れ、いくつものリボンが還暦の男の顔にかかった。急に眩しい光が視界を覆ってよく見えない。しかし掛け声と気配から察するに複数の人間がいるようだ。


 明るさにようやく慣れたところで岩波が目を開けてみると、そこには部屋を出て行った部下たちの姿があった。みんな満面の笑みで、どこかほくそ笑んでさえいる。


「こ、これは一体……」


 岩波はいまだ状況を理解できないまま言葉を発した。すると部下の影から一人の女性が出てきた。岩波と同じ還暦で、若い時と比べ随分シワもシミも増えた女性が手に花束を抱えて立っていたのだ。


「美千代……」


 岩波が三十年連れ添った細君はいつものように優しい、彼がどんなに落ち込んでいても見ればすぐに立ち直れたあの笑みを浮かべて言った。


「あなた、六十の誕生日、そして勤続四十年、おめでとうございます」


 ああ、そうか。岩波はここで思い出した。今日は自分の誕生日だったのだ。朝、家を出るときに何か大事な予定があった気がするのだが、まさか自分の誕生日だったとは……。すっかり忘れていた。ここ最近、仕事を詰め込みすぎたせいかもしれない。


「ほら、あなた。部下の皆さんに、あなたを驚かせるためにここまで凝ったことをしてくださったのだから、何か言ってあげて」


 彼女のその言葉で岩波はようやくことの全てを理解した。ああ、なるほど。そういうことか。これは現実なのだな。笑顔で見つめるこの視線も、隣にいる長年連れ添った妻も、明るい蛍光灯で照らされた廊下も全てサタンによるものではなく、現実なのだな。


 分かった、分かった。命が助かったのだ、実に喜ばしいことだ。普段はオカルト物など一切信じない私がここまでのめり込んでしまうとは手の込んだ仕掛けをしたものだ。


 それもこれも、自分が部下から愛されている証拠なのだろう。喜ばしいことではないか。愛された部下が私の愛する妻と協力して一大サプライズ誕生会を計画してくれたわけだ。うん、うん。よく、よーく分かった。


 だが、まずは確認しなければならないことがあるな。


 岩波はそう思って襟を正すと、後ろでニヤニヤしている鑑識の小舘に向かって鋭く言った。


「小舘巡査!」

「はい!」突然、階級付きで呼ばれた小舘は驚いて背を伸ばした。


「お前が見つけたというあのテープは本当に現場で見つけたものなのか?」


「いいえ。自分で作ったものです。いやぁ、大変でしたよぉ。被害者と同じ職業をしている知り合いのエキストラ六人集めて怖い噺をさせたんですから。しかも、信憑性を持たせるために宮坂陽子の話は本物にさせましたし、何回かエキストラの人たちが間違って自分の名前を言っちゃって、撮り直すハメになりましたよぉ。我ながら久々に映画人の本気というものを出してしまいました」


「そうかそうか、お前は大学で映画サークルに所属していたもんな。これを作るとしたらお前のような役が適切というわけだ」


 岩波は笑顔で何度か頷くと、首を下から上げる瞬間に目つきをガラッと変えてキッとした目つきで言い放った。


!」


 突然の怒号に部下たちは背筋をぴっと伸ばして廊下の壁に整列した。何が起きたのかと妻の美千代だけがオロオロ廊下の中央に取り残された。


「美千代、君も彼らと一緒に並ぶんだ」


 犯人に向ける敵意と同じ目を向けられた妻は表情を一変させ、そそくさと野津涼子の隣に並んだ。


「いいか、今から私は君たちに平手打ちをする。本来なら殴ってやりたいところだか、やりすぎだと批判を受けても嫌だから平手打ちにする。黙って受け取れ!」


 そう言って岩波は一人ずつビンタをかまして行った。パワハラだモラハラだが叫ばれている昨今で彼は長らく平手打ちなんてことをしてこなかった。おかげで薄くなった手の平の皮はすぐに痛くなった。だが、それでも岩波は部下を本気で叩き続けた。


 そんな捜査一課長も愛する妻だけは手を上げることはできなかった。心の中で幾度となく苦心した末、美千代の頬に軽く手を当てるだけで終わらせた。平手打ちの連続で火照った掌が彼女の冷たい頬で冷やされ、逆に妻は温められ、お互い愛を深め合ったような気がした。


 いや、いかんいかん。岩波はかぶりを振ると、ビンタを喰らった部下の前に起立した。


「いいか、警察官は市民の悲しみに寄り添わなければならない。ましてや、我ら捜査一課は志半ばでこの世を去った被害者の無念を晴らすために血骨を灰にしてでも犯人を検挙しなければならない。それを、君たちは私物化し、揶揄の道具とし、弄んだ。これは警察官としては信じられない行動であり、本来であれば懲戒処分相当である」


 いつになく厳格な面持ちで警察学校の教官が使いそうな言葉遣いで岩波は部下と妻を叱責した。たとえ自分を驚かせ楽しませようという目的であっても、自分たちが取り扱った殺人事件を題材にしてはいけない。目的は素晴らしくても手段を間違えれば結果はわびしいものになる。新規性を求める彼らには、それを教えなければならない。


「だが……」


 そこまで言って彼は言葉を切った。これまで個人単位で誕生日を祝われることはあっても、サプライズで祝われたことはなかった。小学校の頃から集団とは少し離れた位置に身を置き、短大を卒業して入った警察でも自分の身を粉にして働き続けてきた。結婚してからも、子供ができて独り立ちしてからも、ただひたすら被害者の思いを繋げるためだけにこの警察官人生を捧げてきた。


 そんな彼だからこそ、愛する部下からこうして盛大に祝われたことにこの上ない感慨があった。


「だが、私をここまで思い、計画し、妻まで巻き込んで実行に移した諸君らの行動力は素晴らしく、素直に言って嬉しい。こんなに盛大にお祝いされたことがなかったから、いまどういう顔をすればいいか分からないでいる」


 額に涙が一筋通った。


「よって、今回のことは上司である私からの厳重注意に止めておく。次から計画するときには捜査一課の一員らしく、被害者に敬意を表したドッキリをするように。以上!」


 まるで、追い込まれた小隊の最後みたいだった。「諸君らの任はただいまを持って解かれた。あとは各々、生き延びることだけを考えろ」と上官から言われた兵士のように、目に涙を浮かべ、えずいていた。


「かちょ〜う」


 とうとう元組対の勝田が感極まって岩波に抱きついた。目からは大粒の涙をボロボロと流し、一週間洗っていない岩波のスーツを濡らした。他の部下たちも手で涙を拭いながら課長の元へ集まった。

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