2

 動揺していたのは晴久も同じようでした。リビングに入ってきたのが私と見るや否や、


「母さん……」


 と言ったきり固まって、口を半開きにして私のことを見つめていました。そこからしばらく私たちは互いの顔を見合っていました。私は息子の顔を見ながら時々、彼の右手にある血のついたナイフに目を落としました。


 なぜ、息子がそんな物騒なものを持っているのか理解が追いつかなかったのです。もしかして人を殺めてしまったのだろうか。それとも何かの勘違い、そう例えば今まで山の中でサバイバルをしていて、動物を捌いた時についた血ではないのか。


 私としては後者の方を望みたかったのですが、それでも前者の可能性が十分に高いことを自覚していました。


 晴久も私がナイフに目を落としているのに気づいたのでしょう。慌てて、「ごめんごめん」とナイフをテーブルの上に置いて手を離しました。彼の声は低く男らしくなっており、半年前の声変わりで上手く声を出せなかった頃とは大違いでした。刃物についた血はテーブルにじわりと広がり、赤い斑点を作りました。


「どこ行ってたのよ。心配したんだからね」


 私はいま自分が疑問に思っていることを全て頭から追い出して、まずは息子の帰還を喜ぶことにしました。いま何か飲み物出すね、と手に持っていた傘を壁に立てかけてキッチンに向かいます。晴久は生返事をしながらあたりをキョロキョロと見回しました。そしてこう尋ねたのです。


「ねえ、母さん。日本は戦争を始めることになったの?」


 急な問いかけに私は「どうして?」と尋ねました。しかし、息子は「いや、別に」と言葉を濁したっきりで、それから口を開きませんでした。


 私は麦茶を彼の前に置いて、自分はテレビを付けました。私は帰ってきたらテレビをつける癖があるのですが、この日に限っては息子との間に余計な沈黙を起こさせないためにつけたような気がします。テレビではちょうど新型ウイルスのニュースをやっており、爆発的に感染者が増えていることが伝えられていました。それを見た息子はポツリと、


「そっか、確かにこれも一つの戦争の形だ」とこぼしました。


 その言葉の真意を私は聞きたかったのですが、できませんでした。もし彼の逆鱗に触れてしまい、出ていくようなこと、ましてやさっきまで持っていたナイフで襲うようなことがあれば、私は自分が生まれてきたことすら呪い始めるかもしれません。


 日が傾き始めた頃だったので、私は息子にご飯は食べるか、と尋ねました。うん、と返事が聞こえたので珍しく腕によりをかけて五品も作りました。それを彼はまるで水を得た魚みたいな勢いで食べ始め、「美味しい」とも言ってくれました。失踪する直前なんてそんなこと言わなかったため、私の目からは思わず涙がこぼれてしまいました。


 ごめんなさいね、と謝ると、


「いや、俺の方こそ迷惑かけたね」


 と、笑みを浮かべて労いの言葉をかけるものですから涙が余計に溢れてしまって、しまいには止まらなくなってしまったものです。


 ご飯を食べ終わった彼は「今日泊まってもいい?」と尋ねました。私はもちろんよ、と答えて風呂にも入るように促しました。シャワーの音が浴室から聞こえる中、私は彼の服を洗濯しようと手に取ると、軍服のポケットから不思議なものが出てきました。


 どうやらそれは懐中時計のようでした。しかし、不思議なのは時計の中には六つの針があり、文字盤も見たことない文字で埋め尽くされていました。秒針のようなものが動いているため時計であることには間違い無いのですが、では分針と時針以外の残り三つは何を表しているのでしょう? それにこの文字盤は……? 私はあまり触らない方がいいなと判断し、そっとポケットに戻しました。すると何か堅いものにあたり、どきりとしました。


 恐る恐る取り出して見ると、何とそれは拳銃だったのです。しかも実弾が装填された本物でした。一見、プラモデル見えたのですが、持ってみるとそれはずしりと私の掌を押さえつけ、加えて——本当はこんなことしてはいけないのですが——銃口を覗き込んだ時に、実弾が装填されているのが確認できました。そのまま引き金でも引けば弾が発射され、私の脳みそは脱衣所に無造作に散らばるでしょう。


 私は彼が何か良からぬことに加担していると確信しました。そして、おそらくそれを問い質そうとしたら殺される。私は急いで拳銃を軍服のポケットにしまうと、洗濯に出さずにリビングに戻りました。


 晴久はシャワーを浴びると来客用の布団で寝て、翌日には普通に起きていました。まるで、ここに引っ越した時からいるようで、私たちは今までそうしていたかのように朝ごはんを食べて私はパートの面接に向かいました。


 家を出てから思ったのですが、私が主人と離婚調停を結んでいる途中であることや、捜索願を出していること、彼のクラスの先生が産休のため新しい人が担任になったなど、この半年で起きた様々なことを伝えていませんでした。


 でも、まるで彼はそんなことを知っているかのように私に接していました。いや、もしくは興味がないのかもしれません。この半年間で見違えるくらい成長した息子は、かつての社会の枠組みや共同体に戻る気はさらさらないのかもしれません。


 そこからおよそ一週間、私は少し成長した息子と二人で過ごしました。いつも家に帰ってくると彼がいなくなっているのではと不安になりましたが、息子はまるでこれが日常であるかのように出迎えてくれました。そして、私が家にいる時は一緒にテレビを見て笑い、ご飯を食べて寝ました。本当に、一見したら仲睦まじい家族に見えたでしょう。


 主人とのことや、学校のことは夕飯の際にポツリポツリとではありますが伝えました。しかし息子の反応はいまいちで、私が話終えると眉を潜ませて


「迷惑かけてごめんね」とだけ言いました。その「迷惑」がどこまでのことを言っているのか私には分かりませんでした。少なくとも、離婚や学校などでのことはないのは確かでしょう。


 彼が滞在して一週間目の夜、晴久は晩ご飯を食べ終わると脱衣所に行きました。シャワーでも浴びるのかなと思っていたのですが、いくら待ってもシャワーの音はしません。


 ややあって彼は、最初に着ていた軍服に身を包んで私の前に現れました。あの服は彼が来た日から一度も洗っていません。ほのかに漂う土埃と鉄の臭いに私は何かよからぬことが起きようとしていると不吉な予感がしました。


「買ってくれた服は脱衣所に置いてあるから、捨てるなりなんなりしてね」


 しばらくの沈黙の後、息子の口から出た言葉はこうでした。まるで私と悠久の別れかのような言い方に私の鼓動は嫌な方向に高鳴って行きました。


 いやだ、いなくならないで! 


 私は心の中で叫びました。あなたを探すためにこの半年間、身を粉にしたのよ。警察に提出していた捜索願も今日下げてきた。明日、警察の方が見えるから、いなくなるならその後でもいいじゃない。


 いいえ、いなくならないで。私がお腹を痛めて産んだ大切な一人息子なんだからぁ。


「ごめん」


 晴久はまるで私の心の中が聞こえてでもいたかのようで、唐突にそう口にしました。その瞬間、荒波をたてていた私の心は急激に収まり、穏やかな潮騒を奏でました。


「本当は、ずっとここにいたいんだけど、多分もうすぐなんだ」


 そう言って彼はポケットからあの懐中時計を取り出して私に見せました。象形文字の文字盤の上に置かれた六つの針、それを包み込むように銀色の装飾がされていました。蓋を閉じれば今では珍しい、けど一度は見たことのある懐中時計でした。


 彼はこの懐中時計が全ての始まりだと言いました。そして、なぜ失踪してしまったのか、なぜ半年たって私の前に現れたのか、なぜここまで大人びたのか、語ってくれたのです。


 これを話すとみんな、私が息子の幻影でも見たのではないかと疑います。言葉に出していなくても分かるのです。目が、口が、態度が言わなくてもその人の本性を語ってくれますから。ですが、私が今から聞くお話は全て息子から直接聞いたもので、おそらく本当のことでしょう。


 どうか、最後までお聞きください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る