六の噺「宮坂陽子——旅人たち」

1

 捜査資料:宮坂陽子(女) 四十八歳 主婦・パート 死因:薬物服用による中毒死


 私には主人との間に晴久、という一人息子がいます。どこにでもいる根は明るい十四歳の男の子です。彼は周囲の人間関係は極めて良好なのですが、どうも昔から勉強嫌いで、算数なんて足し算、引き算だけ覚えれば生きていける。分からないことはグーグルで調べればいい、などと小学生の頃から現在の教育に対して一端に文句を言う子でした。おそらく主人が反体制派の人間なのでその遺伝子が受け継がれたと思うのですが‥…。


 そんな彼の態度は中学に入ってからも変わらないどころか、ますます酷くなって……。友人と授業中に抜け出したり、テストを白紙で提出したり、と問題を起こしていました。その度に私は学校に頭を下げに行ったものです。


 やがて、息子が先輩の不良グループとつるんでいる、という噂も入るようになりました。急いで事実を確認すると、晴久は「そんなのあんたらには関係ないだろ」と言って暴れ出し、手が付けられない状態になります。私も主人もどうしたものか、と頭を悩ませていた時でした。


 ある日を境に息子が帰らなくなったのです。息子は時には反抗的な態度を取ることがありますが、それでも根は親思いのいい子で、夜十時には必ず帰ってきていました。ですが、その日は十時を過ぎても、〇時を過ぎても帰ってきません。そして一日、二日と帰らない日が続きました。私は主人に言いました。何か事件・事故に巻き込まれたかも知れないと。すると主人は、


「どこかで上手くやってるだろう。変に連れ戻してまた問題を起こされても困るからな」


 と、全然取り合ってくれません。所詮、主人にとって息子や私なんかは道具のようなもので、また補充できると考えているのでしょう。翌日、私は主人に何も言わずに捜索願を出しました。もちろん主人はそれを知っていましたが、彼が何か言うことはありませんでした。むしろ、何も言わないことに私は彼と気持ちのすれ違いを感じ、夫婦の距離はだんだん離れて行きました。


 そして晴久が見つからないまま半年が過ぎました。主人が何の連絡もない彼へ全く興味を持たないことに私は愛想を尽かして出ていくことにしたのです。親や周囲の援助もあって都内のマンションに住むことになり、仕事探ししながら息子の行方を探す日々を過ごしていました。


 そんなある時、パートの面接が終わって家に戻ると誰かがいる気配がするのです。玄関に誰かの履物はありませんでしたが、部屋の先から普段なら感じることのない空気の流れを感じました。いわゆる人の気配というのでしょうか。泥棒が私の部屋に忍び込んでいるかもしれない。


 私は寒気を感じ、ブルっと体を震わせました。よくサスペンスなんかだと夫が勝手に上がっているなんてことが多いですが、主人は私にそこまで関心を抱いていませんから違うでしょう。弁護士との離婚協議にも素直に応じていました。


 もしかしたら気のせいかもしれない。私は一抹の不安を覚えながらも、手近にあった傘を持って奥に進んで行きました。ですが一歩、また一歩と前に踏み出すたびに、ある考えが私を支配するようになったのです。


 晴久が戻ってきたのではないだろうか。


 どうやってか分からないけど、彼が私の居処を突き止めて戻ってきたのではなかろうか。そんな雲を掴むような思考が私の中で大勢を占め始めていました。


 いま思えば、その時の私はかなり疲れていたんだと思います。正直、パートの面接と息子の捜索状況の確認を繰り返す毎日。本当は心のどこかで彼は死んでしまったと思っているのかもしれません。だからこそ、いま部屋の奥にいる気配に私は根拠のない一縷の希望を託していたのでした。


 けど……、けど、そんなことって本当にあるんですよね。「願えば叶う」、「引き寄せの法則」なんてのがありますが、まさにそれら非科学的な言葉や法則が体現した瞬間でした。


 リビングの扉を開けると、そこにはボロボロの軍服に身を包んだ晴久がいたのです。軍服マニアではないので、どこのものかは分かりません。ですが、自衛隊のものではないなということはわかりました。迷彩の柄がカーキ一色とシンプルなので、中東やどこかの国の軍服だろうと思いました。その服が持ってきたのでしょうか、部屋の中には土埃や鉄の匂いで満ち溢れていました。


 晴久自身にも変化がありました。背は十センチ近く伸びていて、顔つきから成人しているように見えました。体つきも逞しくなって、拳はゴツゴツと角張っていました。


 なぜ、半年という期間で彼がここまで変わってしまったのか私には分かりませんでした。少なくとも、どんな訓練を積もうとも半年でここまで変化することはありません。筋肉ならまだしも、背に関しては本人の意思とは関係なく伸びますから。


 私はそういった困惑と、息子が帰ってきたことによる歓喜、そして彼の手に血がついた包丁が握られていることに心苦しさを覚えながら固まっていました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る