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 警察からはいつも通りの生活をしていいと言われていましたが、それでも私はカーテンの隙間から覗く血走った眼が怖くて、一週間ほど萩野さんの家に居候してもらうことにしました。萩野さんは中小企業の事務員をしていて、ほぼ定時で仕事から帰って来ます。ですので、帰りが不定期な私に代わって彼女が夕食を作ってくれたのですが、研究日の時くらいはと私が御馳走することにしました。


「ありがとね、用意してくれて……」


 萩野さんは帰ってくるとシャワーを浴びる習慣があるらしく、ユニットバスからはシャワーの音が聞こえて来ます。この頃には私たちは互いが同い年であることも分かり、タメ口で話そうということになっていました。


「いいよ、いつも迷惑かけちゃってるし。今日ぐらいは私がね」


 と、私は買って来た食材の下処理をし始めました。この日作ろうと思った献立はハンバーグで、合い挽き肉とパン粉などを入れてこねると、二つの少し歪な焼き上がり前のハンバーグが出来ました。あとは焼くだけなのですが、なにぶん自分とは勝手が違うキッチンでしたので、どこにフライパンがあるか分かりません。


「はーちゃん、フライパンってどこにしまってる?」


 はーちゃんとは萩野さんの呼び方です。


「ん? コンロの下の棚にない?」


 萩野さんの声がシャワーの間を縫うように聞こえました。


 コンロの下には収納スペースがあって、私は普段そこに調味料などを入れてるのですが、彼女はフライパンなど調理器具を入れているようです。私は礼を言うと何の気無しに戸棚の扉を開けました。


 戸棚の中は真っ暗で一瞬どこに何があるのか見えませんでした。ですが、明らかに目を引いたのは白い膝小僧と、そこから先を隠すように広がった赤いワンピースでした。揃えた足はきちんと折り畳まれて、下の方を手で抱え込んでいます。そう、いわゆる体育座りをしていたと言えば想像に難くないでしょう。私はぎょっとして視線を戸棚の奥に移しました。すると、暗闇でも分かるほど……、いや暗闇だからこそ際立って、充血した瞳がじっと私のことを見つめていたのです。その瞳は静かにこう訴えかけているようでした。


『わたしから逃げようとしても無駄だよ。わたしはここにいるんだから』


 気付いたら私は悲鳴をあげていました。もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だぁ。私は目を瞑って、両耳を塞ぎながら思いました。どうして私なの? 私が何か悪いことをしたって言うの? しかし、そんな質問に当の本人が答えることなんてまずありませんでした。


「だ、大丈夫? あ……、マリちゃん?」


 私の悲鳴を聞いた萩野さんがすぐに駆けつけてくれました。体を洗っていたところだったらしく、首元にはシャボンがついていたのを覚えています。


「あ、あの子が、棚の、中にぃ」私は体を震わせながら戸棚の中を指差しました。


「えっ、誰もいないけど……」


 萩野さんの言葉に私はハッとして顔を上げました。目の前の戸棚に少女はおらず、フライパンや鍋などの調理器具が整頓されています。もし、あの中に彼女が入ろうとしてもフライパンなどが邪魔で入ることはできないはず。では私が見たあの少女はいったい……。


「マリちゃん、最近疲れているんじゃない? ほら、あんなこともあったわけだしさ。平生を装っても精神はかなり傷んでいるんだよ」


 彼女はそう言って私のことを慰めてくれました。そうかもしれません。よくよく考えてみれば、私の周辺で起こった一連の出来事はどこぞの誰か分からないストーカーによるもので、決して幽霊ではないのです。萩野さんの家に上がり込んで戸棚の中に潜むなんて芸当、できるわけありません。私は何とかして自分を律すると、ハンバーグを作り切りました。どうもどこかで塩加減を間違えたらしく、デミグラスソースはかなり不味かった気がします。


 そこから一ヶ月ほど萩野さんの家に寝泊まりしました。時々、洗濯物をしたり必要なものをとりに自分の部屋に戻ることはありましたが、その間にも特に変わったことは起きませんでした。赤いワンピースを着た少女の姿も、不可解な落書きも見ることはなくなりました。ですが、それでも時々、尾けられている感覚はありました。そんな時は小走りで雑踏の中に紛れ込んでやり過ごしたのです。


 そして、流石に萩野さんの部屋に居続けるのは申し訳ないと思って、いよいよ元の自分の部屋で寝ることにしました。


「何かあったら、すぐに呼んでね」


 萩野さんは最後にそう言ってくれて私のことを送り出してくれました。部屋に入ると少し暗い感じもしたのですが、それでもかつての自分の住まいということもあり、懐かしい心持ちがしました。私は早速リビングの写真を撮ってSNSにアップしました。


 実は、話の都合上削ってしまったのですが、私はこの一連の出来事をツイッターにアップしていたんです。初めて投稿したのは赤いワンピースを着た少女が私の後をついてきている、という内容でした。これが意外と心霊マニアの間ではウケが良かったらしく、それからは何かあるごとにツイートするようにしていました。本当は写真でも撮りたかったのですが、どれも気が動転していてできません。だから、今度こそはとリビングの写真を撮ってツイッターにアップしました。


 そして夕食、お風呂に入り、就寝しました。就寝する直前まで萩野さんと通話をしました。隣の部屋に行けばいいのに、何ででしょうね。なぜか電話越しのほうが落ち着く気がしたのです。そして実際に私の心は安寧で満たされていました。眠る直前も、そして寝ている間も特に異変は認められませんでした。


 翌朝、何の異変もなく起きた私は朝食のトーストをかじりながらツイッターを開きました。すると、たくさんの通知が来ていたのです。その数は一万近かったと思います。私は急いで通知の内容を確かめてみると、どうやら昨夜あげたリビングの写真に多くの人がいいねやリツイートをしているようでした。しかもコメントには妙な書き込みもありました。


「なんか、人影っぽいものが見えるんだけど、それって私だけ?」

「うわっ、これリアルかよ」

「クローゼットの奥、いますね」


 そんなコメントが並んでいたのですが、最初私は何のことか分かりませんでした。しかし、ある人の引用リツイートを見てハッとして、思わず食べかけのトーストを自分の膝に落としてしまいました。


 そのツイートは私のリビングの写真といっしょにこう書かれていたのです。


「お分かり頂けるだろうか。クローゼットの奥に赤いワンピースを着た少女がいることを」


 ツイートに添付された私のリビングの写真にはクローゼットの部分に黄色い丸が描かれていて、その隣には拡大された画像がありました。そこには明らかに赤いワンピースを着た少女がいるように見えたのです。


 私は急いで周囲を見回しました。もしかしたら、彼女はこの部屋に入り込んでいるのではなかろうか。いな、あの落書きを見つけた時点でなぜ彼女が玄関から入り込めたのか考えるべきだったのです。彼女は私の部屋の合鍵を持っていた。だから今も自由に出入りできるようになっているのではないか。


 私はすぐに萩野さんに助けを求めようとしました。ですが、ふいに萩野さんの顔がよぎって思い止まりました。きっと私がここで救援を求めても彼女は助けてくれるだろう。けど、そう何度も助けてもらうわけにはいかない。まずは私ができる範囲のことをやらなければ。


 まず思いついたのは部屋の鍵を変えることでした。すぐに「つばめ荘」の大家さんに電話して鍵を交換してもらうように頼みました。大家さんも一連の事情は理解していたので、すぐに了承してくれました。あと出来ることと言えば警察に相談することくらいでしたが、そう思った矢先、ツイッターのダイレクトメッセージに気になるメッセージが来たのです。



「もしかして、『つばめ荘』に住んでいる方ですか?」

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