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翌日、私は授業が終わるとすぐに学校をあとにして自宅へ戻りました。萩野さんも早上がりしてくれるらしく、「つばめ荘」で合流してから警察に行くことになりました。「つばめ荘」に着くあいだ、誰かに見られているような事はありませんでしたし、赤いワンピースを身に付けた少女は見ませんでした。今日はそういう日ではないのでしょう。その安心感に加えて、萩野さんという力強い仲間が加わったからかもしれません。少し気持ちを昂らせて部屋に入りました。
ところが部屋に入った瞬間、生温かい臭いが鼻腔を満たしました。それは何か生もの、特に肉が腐ったような臭いだったのです。嫌な予感がした私はすぐに部屋に上がりました。
「つばめ荘」は1Kの間取りで、玄関を入って直進するとリビングがあり、途中の左手にユニットバスが配置されています。普段、私はリビングまでの扉を開けっぱなしにしたまま家を出るので、入った瞬間にリビングに異常はないことは瞬時に分かりました。
となると、残るはユニットバスだけです。私は恐る恐るユニットバスががある扉に近づいて行きました。近づいていくと、ぽたりぽたりと何かが滴り落ちる音が聞こえてきます。いったいこの扉の先に何があるというのだろう。私は滴りから考えられる状況を想像しました。
すぐに出てきたのは、何者かが浴槽のなかで手首を切って死亡している絵でした。手首は浴槽の縁に置かれ、そこから鮮血がぽたりぽたりと落ちているのだと。では、その遺体の持ち主は誰でしょうか。赤いワンピースを着た少女? それとも萩野さん? 彼女の姿が思い浮かんだ時に、私は激しく首を横に振りました。
そしていよいよ扉の目の前に来ました。核燃料保管庫を開けるようにゆっくりと、でも確実にドアノブを回し、少しずつ扉を開けました。すると、バスルームから先ほどよりも強烈な腐臭が私の鼻腔を満たしました。間違いなく、この部屋に異常が起きていることは間違いありません。意を決した私はえいやと扉を開け切りました。すると、そこには自分のバスルームだと疑いたくなるような光景が広がっていたんです。
『わたしは、ここにいるよ』
そう、赤黒い液体でユニットバスのカーテンに文字が書かれていました。いま思い出しても震えが止まりません。一体誰がこんなことを、それにどうやって……。そう考える暇もなく私は大声を上げていました。
その文字からはまるで私に執着しているような気持ちさえして来て、次の瞬間にでもどこからともなく赤いワンピースを着た女の子が現れて、私を滅多刺しにするのではないか、とも思いました。そして彼女は私の血を使って、あの文字の下にこう付け加えるのだと。
『これで、いっしょになれた』
ですが、私の前に現れたのは萩野さんでした。もちろん、カーテンの奥からではなく玄関から私の名前を呼び、生臭さに鼻を摘み、入って来たのです。そして、例の文字を見ると私を呼ぶ声を止めて、一緒に立ちすくんでいました。
「と、とにかく、一回外に出ましょう。それから警察にも連絡しないと……」
ややあって、正気を取り戻した萩野さんに付き添われて私は自分の部屋から出ることにしました。彼女は私が部屋の前で座り込んで消沈している間にも、自分の部屋から水を持って来て飲ませたり、警察に連絡してくれたりと何から何までしてくれました。もし、萩野さんがいなかったら私はこの謎の現象に対処しきれなかったかもしれません。
やがて警察がやって来て部屋の中を検分することになりました。しかし、やはりと言うべきか、そうなるだろうと言うべきか、警察と一緒にバスルームに入ると、ユニットバスのカーテンには何も書かれておらず、新品のように真っ白なままだったのです。最初、警察は虚偽通報だと疑ったのですが、私と特に萩野さんが率先してこれまでの経緯を話して理解を求めました。やがて否定的だった警察官もストーカー被害は見過ごせないですし、何より私の部屋にまだ生臭い臭いが残っていたため、とりあえず現場検証をすることになりました。
「ただ、この臭いですが、人の腐臭じゃありませんね」
鑑識が現場検証している間、駆けつけた制服警官の一人が言いました。
「えっ、そんなことも分かるんですか?」萩野さんが尋ねます。
「まあ、なんとなくですけどね。少し前にこの付近で死後数週間経った遺体を前にしたことがあるんですよ。その時の臭いはどちらかと言うとこれよりももっと酸っぱい臭いがしました。ですので、犯人は誰かを殺したわけでもなく、ただ単にあなたのことを脅したかっただけだと思います」
それでも十分心身の疲弊に繋がるのですが、と思ってみたものの、彼はとても真摯に対応してくださったので、口に出すことはありませんでした。現場検証は日が沈む頃には終わりましたが、それでも部屋に戻る気にはなれず。その日は萩野さんの部屋で寝かせてもらうことにしました。警察の話によると、明日には現場検証の結果が出るとのことでしたので、学校終わりに警察の話を聞くことにしました。
翌日、警察署に行くと、生活安全課の人が現場検証の結果を話してくれました。
「血痕がついていたというカーテンですが、そのようなものは確認できませんでした。ですが、浴槽にブタの血痕を拭き取ったあとがありましたので、犯人はあなたと萩野さんが外で待機している間に何らかの方法で血痕のついたカーテンとそうでないカーテンを取り替えた可能性があります」
担当の方はとても丁寧に説明してくださいました。私は自分の見たものが嘘ではないことが科学的に証明されてほっと胸を撫で下ろしました。彼の説明によると、私の部屋に何者かが玄関から入って来たことは確かだそうです。しかし、捜査を撹乱するためか、部屋中を何度も時間をかけて歩き回っていたようで、どこをどう移動したのか明確に絞り込むのは難しいとのことでした。
これで分かったことは、少なくとも赤いワンピースを着た少女は幽霊ではなく、きちんと実体を持った人間であること。警察側も引き続き捜査を続行するとともに、「つばめ荘」付近の巡回を強化してくれると言ってくれました。私はそれに安堵するとともに、早く犯人を捕まえるようお願いしました。
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